モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

日本人であるわれわれがより飛躍するために。

 

ぼくは日本が大好きだ。都市はきれいで、ご飯は美味しくて、社会保障はしっかりしていて、礼儀がしっかりしていて、以心伝心があって、わびさびがあって、こんなに住みやすい国はあるだろうか。

海外在住の経験がある人は、ぼくがこう言う意味が実感されるだろう。

が、しかしだ。

我々はより飛躍しなければいけない。つまりその数々の長所の裏に短所がどっしり構えてしまっているということを自覚しなければいけない。ではその短所とは何か?

「日本人は、相手を察するのに長けている反面、自分の主張(こうしたい)がない」

ということである。

これは、外国人からはよく言われることだ。うるせえよ、と思うほど外人からはあーだこーだ言われる。

ぼくたちは他者を察して彼らと協調しようとするのはとてもいいのだが、それが足かせとなって、あるいはすさまじい反動として「自分が無い」ということが発生する。自分の実存がないのだ。まったく、キルケゴールが泣いている。

これはマジでそうだ。相手を見て周囲ばかり気にするあまり、自分自身を省みることがなくなってしまった、ということだろう。

ぼくらは日本的なる環境でコミュニケーションをとるのがとても心地よい。これは海外に住んだ人には痛感されることであろう。言わなくても理解してもらえる、楽、エネルギーの節約だ。それでいてこちらはナチュラルに相手の気持ちを察知している、この省エネで最適な心地よい距離感、やっぱり日本。と感じるわけだ。

が、外人さんにとってはこういう環境と言うのは「?」でしかない。ぼくらの生き方は彼らの「So What」なのだ。二手目三手目がない将棋のようなもので、だから何がしたいんだよ、と彼らは感じている。

どこで生きるか、どういうコミュニケーションスタイルで生きるか、どのような人間関係を構築するか、こういうことは人それぞれだし、それぞれの生き方だし、好きに生きたらいいと思う。自分の好きな心地よい環境で自分らしい生き方をして何が悪い。外人に「?」だから何だ。確かに。

だがこれだけならまだしも、上述した短所というのは日本人には非常に不利に働いているということをお話ししなければならない。つまり、

「主張がないことが、割を食う」

これは政治の世界でよく言われることだ。日本は国際社会に対して明確に意思を表明することがほとんど無いようだ。やっていることと言えばいつも欧米の後追い。そして全体を見てだいたいの落としどころを見出す。これはこれで利口だが、なんだかなあ。日本人は議論が下手だ、とも言われる。これらすべての現象の根幹には「主張がない」という問題があるのだ。主張するものを自分の中に持っていない、という致命的な生きていくうえでの欠陥である。

そうなると、例えば議論の場でいったい何をディスカッションするという話だ。まるでテーマもゴールもない会議を延々とやることになる。

ナチュラルに自己主張できるアングロサクソンは、歴史を調べてもらえばわかるが、多くの富や権力を手にしてきた。今の世界はそういう世界シムテム論的に回っているのは確かだ。世の中のシステムはアングロサクソンが考え出したルールの上で動いている。彼らはナチュラルにドヤ顔ができる。僕はこういう世界の様相を決して肯定している訳では無いのだが、決定的に大事なのは自己主張がないとただの良いヤツで終わってしまう、それでは非常に残念でしょ、ということだ。僕らはガッついた貪欲な人間になるべきではないが、「自分がない」とは生きる上で、率直に言ってダメな生き方なのである。

そして恋愛においても、日本人的な生き方というのは「良い人カード」を切られて、終わり、という結末である。これはあなたの本意ではないはずだ。

 

さて、政治や自己実現の場面においてならまだしも、いま述べたように”恋愛において”この日本人の奥ゆかしさというのはかなり不利に働く。

政治に関心ない?自己実現に興味無い?それもそうだ。好きに自分のスタイルで生きてくれ。

が、恋愛においては「自分が無い」と、そもそも成立し得ない。女は自分が無い男には見向きもしないからだ。100歩譲って、もしかしたら憐れみの眼差しをもって目にとめていただくことがあるかもしれない。だがそれだけだ。残酷だろうか?女はそういう生き物だからしょうがない、常々ブログでも書いているが、これは生物学的な話である。

とにもかくにも、日本人の奥ゆかしさは不利なのだ。まあ僕自身は奥ゆかしい大和なでしこが大好きだが。。

恋愛は生き物が全員参加するハードゲームである。動物や昆虫や魚類などもそうで、生物的な営みである。政治に直接関わらなくても生きていけた、自己実現に邁進しなくてもいいのかもしれない。実際歴史的には政治参加出来ない階級がたくさんいて、人々が自己実現の「自」の字も知らない時代も長くあったが、彼らは彼らなりに幸せに生きていたのではないだろうか。だが、恋愛で失敗すると死にたくなる。歴史に名を残す哲学者や科学者も大金持ちも、恋愛において相当悩んだ。ヘレン・フィッシャー女史が述べるように、恋の悩みは劇薬である。

恋愛はハードな競争で、熾烈な戦いだからである。自分の男としてのリソースを総動員して勝ち取りに行かなければいけないからだ。

日本男児はとても細やかで清潔で優しい。

これは大きな強みで差別化の強力な武器になる。実際日本人の彼氏を持つ外人妻や外人彼女に聞いたら、そういう回答になるだろう。日本人の優しさ、これはとてもいいことである。だが、「=おとなしい」「だけ・・」ではいけないのだ。優しいのというのは大きなアドバンテージになるが、これだけでは片手落ち、というのがグローバルな世界でうごめく恋愛模様であり、現代の恋愛スタンダードである。

いや、そもそも日本男児には本来強さがあったはずではないか。静の中に秘めた燃えたぎる強さが。誇るべき伝統からくる精神面の強さである。強さ、尊さ、信念の強さや、決断力や、潔さ、である。

だからまず、ぼくたちが飛躍するために気を付けるべき点を話さなければいけない。

まず前提として「和を以って尊し”だけ”」ではなぜ、ダメなのだろうか?

一言でいうと女子が求めるところの「自信」と関係してくる。自信の欠如、これはものすごく重大な問題なのである。この場合、「この人はなぜオドオドしているのだろう?」、「なぜいつも重要な場面で揺らいてしまうのか」「どこか生き生きしたエネルギーに欠けるなあ、、」など全体的に頼りない印象をどうしても与えてしまうのだ。

和を以って尊しだけで頑張ると、自信はどうなるのだろうか。

自信と言うのは、自己決定の積み重ねで育まれてくる側面がある。苦しい時も難しくハードな時も、自分自身で切り開くという経験の年輪が、精神的な強さを生み、思考の明晰さを持たせ、堂々とした揺るがない感じを男に付け加える。和を以って…が先に来ると、あなた自身の意思はどこにあるのか。それが占める位置は不要、となり、ゆくゆく自信が育まれるチャンスもどんどん無くなってしまう。

さっきから、「和を以って」と「自己の意思や主張が無い」というのが、バッティングすることがあるようだ、と述べている。 

日本の古典「空気の研究」「失敗の研究」に描写されているようなことが、起こる。それは和を重んじすぎるがゆえ起きる痛みである。

無駄な会議、何も決まらない会議、形式的な会議。。これは相手の出方をうかがうメンタリティである。(自分より優秀であろう)他人からのマウントを恐れるメンタルだ。そしてまず他人の意見を聞こう、そして問題なければ自分の意見を小出しにしようか、と。その結果全員がそういうメンタルでミーティングに臨んでいるため、まったく言葉が発せられずいっこうに会議が進まない、ということになる。

一方余談であるが、世界の先端を行くミーティングというのは、いつも西洋的な文化の中から生まれてくる。世界に君臨するGAFAが次々に新しいプロダクトやシステムを生み出すが、彼らの中には明確なWANTやNEEDがある。科学が西洋から生まれたのは、不思議でもなんでもない。彼らは目的意識が明確なのだ。そして自由な発想ができる、そしてそれを受け入れる土壌も、そこにはある。

そういえば、主体性について論じたことがある。

 

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日本的なる進まない会議。これはつまるところ、自信のなさである。そしてその自身不足は、自説の研究構築推敲確認という作業が不足しているところからきている。あるいは探求心や情熱の欠如かも知れない。世の中の成功者は本質的にはバカで、変態で、周りから何と言われようと自分の理想に突き進んでいく、ある種のぶっ壊れた一面があった。「それ違うよ」と言われて「あっ、そうですか。。」これで何かをなせるはずがない。心の中で「今に見てろよ、バカにしたやつらを全員見返してやる」という気概を持っていたのだ。これはまさに自信の表れであるが、探求心や情熱とつながってくるだろう。

 

さて、ということで(そのようなある種のぶっ壊れた成功者たちが持つ自信も含め)自信の源泉の話に、もう一歩踏み込もう。

日本的なる会議は自信の欠如ー欧米の会議は目的意識が明確、この二つは密接につながっていて、目的が明確で未来が見えるが故に、自信のなさから逃れることもできるのだ。「まずは身体、健全な肉体がないと精神は腐る」とはいつも言っているが、身体トレーニングはひきつづき頑張ってもらうとして、次は精神の話だ。

日本には精神鍛錬する伝統や文化がずっとあった。

日本の場合は武士道だろうか。あっ、ちなみに僕は暴力反対なんで、剣を使った命のやり取り的なのはダメだが、その精神性は非常に重要で現代においても使える生き方の形式なのだ。古い日本の伝統と聞くと、礼儀や潔く散る、家を守る、というような概念が思い浮かぶが、その起源はいろいろな思想が組み合わさり、発展して、その「道」ができてきた。そしてその道を行くのは、男らしさの発現である。 

武士道における男らしさ、と述べるとそんな考えは古いとされる、古臭いんだ、と。本当にそうなのだろうか。僕はむしろ、男らしさの普遍的な部分により近づいていくという、そういう確信にも似た感覚がある。

新渡戸稲造は著書『武士道』にて、日本文化とは何か、日本人の精神性の源は何かを明確に示した。日本人の道徳は武士道に由来しているとして、「道徳体系としての武士道」を第一章に記した。

武士道がどのように日本人の内面に影響を及ぼしてきたか、歴史的にあるいは学際的に論じているが、それを一言でいえば、

「戦士の掟、戦士階級におけるノブレス・オブリージュである」

と言っている。

武士道=高貴な身分に伴う義務

ということだ。

このような義務がどこかに成文法して存在しているわけではない。伝統や習慣という形で武士たちの内面に刻まれ強い行動規範として伝わってきたのだ。

この『武士道』と読んだ僕の感想は、これは道徳というより、ディシプリンというほうが感覚的にしっくりくる。つまり、このノブレスオブリージュは武士を縛る法の役割を担っていた。規律正しく生きる武士たちの生きざまの根幹をなしていたのだ。そして新渡戸は日本における武士道が欧州における騎士道と通づるものがあるとしている。そういう戦士たちには踏み外してはいけない道がある、というのだ。騎士道についてあるフランスの詩人はこれを「宗教、戦争、名誉」の3つから構成されていると述べたが、これも武士道に通づるものがあるだろう。

宗教と言うと何か難しく聞こえるかもしれないが、これは簡単に言うと、自分より何か大きな存在を意識して、逆に自分はとても小さな存在、森羅万象の一部であり、それにより生かされている、という感覚、そこから来る日々感謝を忘れないという気持ちだろう。成功者が大きな野望や夢を持ち邁進し、その反面謙虚に努力しているというのは、その通りだ。

また、ぼくがブログの中で「男は強くなければいけない」とたびたび述べている。

 

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ある種の道を究める者が、その背後に「厳しい環境に置かれていた」というストーリー設定はよくある。神話の法則に記述されているように、やはりそういう壁を超えた先にはじめて「道」のいくばくかを悟ることができるのだろう。戦いに明け暮れていた者たちの、生への必死さや、仲間への献身、知略、死生観などは男の中に一本筋の通った何かを形成するのに大きく役立ったことだろう。

そして、名誉である。いつ死ぬかもわからないのだから、彼らは名誉を求めた。自分の死後も残り続ける何か、である。そして日本の武士の場合は実利よりも名誉を求めたのだ。彼らは勘定ができない、というかそれは武士にあらずなのだから商人たちに任せる、学問は武士たる精神を形成するための学問であるべきで、数学は商売とつながるから武士には重要でない学問であった。実利よりも名誉。これは目の前にある富む機会を放棄し、富んでいく周囲の商人たち、その富を使って豪遊するであろうあるいは権力におもねるであろう商人たちに背を向け、名誉を求める。詐欺ギリギリのビジネスでひと儲けしよう、稼げればなんでもいいんだその後はドロンなのだから、みんなやってるじゃないか、世の中金でしょ。そういう世界で生きてるから現代でも実利より名誉というのは希少である。こういうわけで名誉を獲得するには相当なメンタリティが必要である。まさにディシプリン(自己規律)の賜物である。

「道徳」と聞くと、人の悪口を言うな、他人の物を盗むな、うそをつくな、ということを思い浮かべる。これが人に善なる人生を歩ませることは間違いないだろう、だから非常に有益である。道徳的に健全な人とはビジネスもしやすいし、一緒にいても安心できる。 武士道がこういう理想へ至る環境を満たしている、武士の人物像にそれを求め奨励していることはもちろんだろう。だから新渡戸も第一章にて「道徳体系としての武士道」という題を付している。

だが、そのような万人が思い浮かべる道徳感が可能な範囲は、「いい人」を作り上げる、そこまでである。”男としてどうか”という点において、いい人では残念ながら限界を突破できない。

そうではなくカギとなるのは、ディシプリンなのだ。

より高いステージへ上っていく人は、恐ろしほど規律正しい。そして自分に課す課題や目標設定がハンパなく高い。そういうある意味縛られた条件の中でとてつもない力を発揮する。ぬくぬくと温室で育ったおぼっちゃんに覇気や闘争心がないのは当然だろう。環境がそれを育む余地を与えていないのだから。ディシプリンで縛られた場所、より厳しい環境が男の強さを育む。「修羅場の数だけ」という言葉があるが、まさにその通りである。その最たる例が騎士醸成の三要素「宗教、戦争、名誉」の「戦争」である。凄まじくハードなこの環境で規律が要求されるのは当然だろう。決して戦争や命のやり取りを肯定しているわけでないが、そうではなく規律正しい環境が強い男を作り上げ、その逆はないんだ、ということを示している。

そしてそれは"自己"規律である。自分が甘んじて自分自身に課す規律である。

「卑怯なことはしない、フェアプレイで、それでいて勝つ」「お金(という欲を発動するもの)は欲せず、名誉(という無形で、獲得が本当に困難なもの)を欲する」、それらを「武士の身分に相応の義務だ」と喜んで引き受ける。これが高みを目指し、実際に高みに行く男の精神であり、道徳である。

このようなディシプリンが強ければ強いほど、そうやって生きれば、そこに結果が伴ったとき他者からは尊敬や畏怖のまなざしで見られるだろう。とんでもないステージへ行ってしまったのだから。そしてこの究極形が名誉なのである。名誉のためならそのすべてを放棄することのできるディシプリンなのである。そして武士と言う階級が形成され、武士道と言う不文の規範ができたのだ。

武士は名誉のためなら命も捨てた。それが武士の切腹であり、敵討ちである。忠臣蔵は時代劇の定番で、日本の武士道とは何たるか、その精神性と伝統や歴史を鮮明に描いている。と同時に、これは外国人にはなかなか理解できないストーリーであり、納得できないバッドエンドだろう。だが、命を棄てても仇を討つ、というメンタリティはその先に名誉があり、主君のために命を捧げるという武士の美学があり(宗教の構造と同様)、気高く生きそして死ぬ武士の義務(=ノブレス・オブリージュ)であり、日本の象徴である「桜」そのものである。目的を達したら潔く散り、その美しさはいつまでも人々の記憶に残るのである。

新渡戸は、なぜ日本にはこのような武士道の精神性が成立し脈々と受け継がれたのか、日本ではそんな生き方が美しいとされてきたのか、ということを論じたわけだが、ぼくはその土台にあるのは

「恥の感覚」

だと思う。

「恥ずかしくない生き方をしろ」「その名に恥じぬ行動を」「それは男として恥ずかしいぞ」などと言う時の「恥」で、それを逸脱したらもはや人間らしく生きていけない、そういう内なる声がするようなあの感覚だ。

人間には自我がある。自分とは何者か、どう生きるべきか、どこへ向かっているのだろうか、という認識だ。動物と違って我々は、自己が不在でいながら同時に充実して生きるなどということはできない。そしてその確固とした自己の実存は、非常に苦しい時にも自分を支える力がある。ビクターフランクルが述べたように、最終的に自分を支え励ますのは「自己の存在の意義」を見出している人間だ、彼はそう結論している。

名誉honourの感覚は、人格の尊厳と価値について生き生きと自覚することを含んでいるようだ。そしてそれは、自己の身分に伴う義務と特権を重んじることを生まれながらにして知り、かつそのように教育されたサムライの特徴をなすものであった。

「恥を知り、そして気をつけよ。」「恥ずかしくない生き方をせよ。」

ところで、そういう生き方をしたとして一体我々は何を得ることができるのだろうか。それは自己の中に存在する達成感や満足感や強い意義である。そしてそれが生きている、という感覚を保たせ、その自己意識を強めれば強めるほど、人として、男として恥ずかしくない生き方ができる。それはフランクルが述べたような己の中にいる目に見えない自分の成長物語であり、honourの定義とも合致している。

「達成感」「充実感」「強い意義」こういうものは目に見えないのだから、そんなあやふやで、不確定で、獲得プロセスもはっきりしない、他の誰も追求しないようなものを、それが存在する方向に走って追いかけていくのは、とても難しい。武士が実利を求めず名誉を求めたのと同じだ。それはイバラの道で、狭き門だ。

武士はこの恥の感覚が極限まで研ぎ澄まされており、そのディシプリンに従って生きた生き物だ。だから武士たちは自我が強く、目的意識が非常に明確であっただろう。意識は明確、行動はディシプリンに導かれる、そういう人間像だ。ではそのような人間の世界観、彼らの頭の中に描かれていた世界とはどういうものだったのだろうか。

我々のご先祖様の時代は、サムライは「恥」にとても鋭敏で、他者がサムライに期待する水準、サムライの子供として生まれた少年に要求される水準はとても高かった。「笑われるぞ」「名を汚すぞ」「恥ずかしくないのか」という戒めは日常茶飯事で、非行に走った少年を正すため、少年たちの心を動かす最後の訴えであった。このように家庭において幼いころから名誉の心を育まれていき、名誉に敏感な武士が生まれていったのだ。これは、現代日本に生きるぼくらの「そんなことをしたら男として恥ずかしい」というなんとな生まれ持った感覚の、源泉なのかもしれない。諸外国ではこの恥ずかしいという感覚が少ないように思う。「恥ずかしいより、まず実利」「潔く散る?いやいやまず生存」というのはそれぞれのお国柄であり、その土地に根差す歴史や文化の蓄積による人の内面の形成である。

さて、サムライである。こうして青年たちが追求するのは、名声であった。多くの少年は親の家の敷居から踏み出す時、世の中で名を成すまでは再びこれをまたぐまいと心に誓った。そして母親たちは、「故郷に錦を飾る」のでなければ再び会おうとしなかった。恥を免れ、名を得るためなら、サムライの少年たちはどのような欠乏も耐え忍び、精神的、肉体的苦痛の苛酷な試練にも耐えた。名誉を得るために世に出て行き、名誉を得るために考え行動し、苦しみに耐え、精進する。そういう世界観である、すべては名誉のため、生きる意味や目的は名誉のためなのだ。まったく現代の男たちも彼らサムライの爪の垢を煎じて飲んでほしい。

名誉とはその土台に、いくつかの要素が関係している。『武士道』には、正義、信と誠、勇気、仁などが挙げられていたが、ぼくは「正直さ」や、そこから来る「高潔さ」が名誉に近づく要素であると思う。

正直であるとは、うそをつかないことであり、正々堂々と物事に対峙することである。自分にとって厳しい状況でも自分の都合のいいように言説を曲げたり、利益のために人を騙したりしないということだ。陰で人の悪口を言わないし、言うべきことは直接本人に言う。この些細なディシプリンがのちに大きな名誉となって返ってくる。ちなみに「正直さ」のラテン語やドイツ語の語源は「名誉」と同じである。

「人を泥棒呼ばわりすれば、彼は泥棒となる」

こういう諺があるようだ。またヒュー・ブラックも「正常な良心は、それに対して求められる水準まで昇り、それに対して期待される水準の下限にまで簡単に低下する」と述べた。つまり、嘘をつき続ければそれが普通になるし、卑怯な手をつかって甘い汁を吸うことを覚えればもう正々堂々と生きることはできない。ディシプリンが無く、縛るものがなく生きていくというのは、そういうことである。実はそこには世間が言うような自由など存在していない。ただただ堕落していくだけなのだ。

そのように正々堂々と物事に向かえない人間は当然ながら評判が良くない。じゃあ名誉はどこにあるのだろうか。嘘を付いたり人を騙したりしながら自分の都合のいいように現実を捻じ曲げるくせがある人間は、そこには勇気も忍耐も誠実さもない。そういう土台がないのだからもちろん名誉になど到達しえない。

姑息な手段を使って何かを得たとしても、嘘をついて罰を免れたとしても、それは武士にとって「恥ずかしい」ことだ。恥ずかしいことに目をつぶって、何かを得た(何かを免れた)としても、これまで積み重ねてきたものがすべて水泡に帰し、自己の尊厳と価値を投げ棄てるような行為だ。今まで見てきたように賢人たちの結論を借りれば、自分に嘘をつきながら、同時に自分らしく男らしく生きてなどいけないのだ。

さきほど名誉のお手本のようなストーリーとして「忠臣蔵」を挙げた。忠臣蔵は主君のための敵討ちのストーリーである。赤穂藩藩主の浅野内匠頭は高家の吉良上野介に刀傷に及んだことより、切腹を命じられた。一方、吉良は被害者であるとしてお咎めなし。真相はそうではない、吉良による主君浅野への理不尽な仕打ちが招いた結果だ。その判決を不服とした赤穂四十七士は吉良邸へ討ち入りに入った。そしてその結果見事に敵討ちを果たしたが、その代わりにみな切腹を命じられ、それに甘んじて服した。

敵討ちのドラマはカタルシスを発生させ、それを見るものをスカッとさせるが、あの時代敵討ちをなす武士たちにとってそれは己の死を意味した。そんなことは当人たちが一番よくわかっていたことである。仇討ちを果たしたあとの尊い代償である。主君が理不尽な死を命じられた、その仇はいまだにぬくぬくと生きている、では家臣としては自分には何ができるだろうか? その答えが、己の命を差し出して名誉を守ること。赤穂藩主の名誉を、赤穂浪士としての自分の名誉を守るため、それは命と引き換えにしても非常に価値のあるものだった。 

主君が辱めを受けたのに何もしないで黙っているのは、サムライとして恥ずかしいことである。 その恥は末代にまで残るほどのものだ。逃げていること、果たすべき義務を果たさないことはサムライの価値観に背く行為だった。そうだ、これが恥の感覚だ。恥ずかしいことは決してするな、そして名を挙げよ。それを証明する機会が今ここにある。彼らは迷わずそれを選んだ。

義、勇気、仁、忠義、信と誠、そして何よりも名誉のために生きてきたサムライの当然の決断だった。

冒頭で、「自信と言うのは、自己決定の積み重ねである」そう述べた。そして”自己”にて様々なことを決定するのは孤独な作業であろう。 決定の背景には自己への深い問いかけが存在していてはじめて決断の一歩を踏み出すことが可能となる。武士は幼少期から難しい決断において自己に問う習慣があった。

また、「自信は精神的な鍛錬の賜物である」とも述べた。肉体はその前段階でしかない。さらにステータスや容姿はマイナスを減らす効果が確かにあるが、悲しいかなただそれだけであり、人が自信を獲得する際に決定的に重要なのは内面の成熟度であり、内面の成熟を獲得する手段として武士たちにとってのそれは、彼らの道徳ー「武士道」であった。

そしてヨーロッパにおいてそれは、哲学や思想であり、それぞれの場所でそれぞれの思考ツールや精神鍛錬のツールがあった。そしてそれを伝統と呼ぶこともできよう。

このように古今東西人間を成長させるにはそれ相応の価値あるツールが必須であり、それを使って精神が栄養を取り入れるべきであり、脳みそを鍛えるべきなのだ。そして自分の限界値を日々ストレッチすべきなのだ。これはぼくがマインドをセットしろ、そのために勉強と運動の両輪だ、と言っていることにもつながってくる。今さら言うまでもないが堂々とした自信は、もちろん当人の内面の安定が基本的な条件であり、では、その内面はどうやったら安定するのだろうか? それは広い意味での思考の年輪と、ドライな言い方をしてしまえば修羅場に対峙する慣れである。つまり、いつもぼくが口酸っぱく言っていることを継続し、ブラッシュアップしていくということに尽きる。そうしているうちに今まで見えなかった景色が見え始め、どんどんステージアップしていくことができるだろう。

 

世界において目にされる日本人のWeaknessというのは、いま述べてきたような意味での自信の欠如である。そしてそれを克服するには物事を深く考える習慣や能力が一定以上必要であり、そのための訓練を日々積むべきである。まず、自分が生活の中で行うことの意味や意義を考えるべきであり、主張一つ一つを真剣に吟味すべきだろう。どちらかというと「智」に近い感覚である。

そしてもう一つは精神性であるが、武士たちがそうであったように、自分は何者になりたいのか、自分は何を為すべきなのか、自分はどういう名を残したいのか、という自分の人生に関わる問いかけを自分へ問うべきなのだ。本質的で核心的なWHYである。こういう自分の進むべき道が明確になると、それから逸脱するような行為から自然と遠ざかるようになる。理性においても感性においても意味のないことはしなくなるだろう。無駄だからしない、すべきでないからしない、そのように良心が訴えかけてきて、必然と行為一つ一つが洗練されていく。つまり、自分の人生において「恥ずかしいようなことはしなくなる」のだ。

フランスの哲学者テーヌによると、日本人の人物像は

「勇敢な独創力、断固とした決心と死を決した行動の習慣、実行と忍耐との偉大な能力」

と描写している。そしてこれは16世紀のイタリア人に比肩するほどの人物像である、とも述べている。

われわれ日本人は客観的に外国人から見てこれほどのポテンシャルを持っているはずなのだ。少なくとも”あの時代の”日本男児はそのように見られていた。そして現在はこの記事の冒頭で述べたように、そのポテンシャルはからっきし眠っている。素質はあるのにそれが発揮されずに一生を終える、これは非常にもったいないことだ。だから自信を持ってほしい、そして我々はその自信を、実体の伴う現実のものとしないといけないのだ。

「恥ずかしい」という感覚は、モテる上での重要な感覚であり、モテるためのセンスである。

 

さて、日本人が自信がない、主張がない、という状況において、「では自信があるとはどういう状態なのか」。ひとつだけ例を示そう。

白洲次郎である。

彼は、明治から昭和にかけて生きた実業家である。その人生を歩む過程の中で多くの政治家と知り合うことができた。また幼いころには家に外国人女性教師がおり、彼女たちからネイティヴの英語を学ぶことができ、大学時代にイギリスに留学していたこともあり、のちに間接的に政治にかかわることになる。特に外国との交渉ごとにおいて彼は重要な役割を果たした。

もっとも有名な出来事として、GHQ要人をして

「従順ならざる唯一の日本人」

と言わしめた。

また、昭和天皇からマッカーサーへのクリスマスプレゼントを彼は届けることになった、その時「その辺にでも置いといてくれ」と、それがぞんざいに扱われたため、激怒してマッカーサーを怒鳴りつけそのプレゼントを持ち帰ろうとした。マッカーサーはそれに対して大慌て、というエピソードもある。

さて、白洲次郎に関しては「プリンシプルのない日本」という書籍があるが、彼自身は生きる上でプリンシプルを非常に重視していた、そして祖国日本にそれが無いことを悲しんでいた。プリンシプル=原理原則で生きると、「筋は通すべきだ、相手がだれであろうとおかしいものはおかしい、そしてそれをはっきり主張すべきだ」というマインドセットになる。それがマッカーサーに対するこの行動に至った次郎の根幹だったのだ。

そういう彼は「従順ならざる唯一の日本人」と言われたわけだが、この評価には「日本人というのは(とくに戦後以降は)非常に従順で、特に何かを主張することもない、そういう民族だ」という前提があることが分かる、そしてそういうメガネで次郎を見たとき、大きな驚きを感じさせたのだろう、こんなに主張が明快で、相手が誰であろうとそのプリンシプルを通す大胆さを持っている男がこの日本にいたのか、と。最高の賞賛をもって「唯一の」と、このGHQ要人は述べたのである。

白洲次郎に関しては、ファッションスタイルがブリティッシュでかっこいい、英語も堪能で実業家としても成功している、政治家とのパイプも太い、というスペックばかり注目されがちだが、彼を身近に見ていた友人たちは次郎のことを「粗野だが人情に厚い」「育ちのいい生粋の野蛮人」とその分厚くて男らしい内面を表現しているが、それはその土台にプリンシプルを持って生きることを信条としていたからこそできた生き様である。そしてプリンシプルがブレない、そこから決して外れない、そういう生き方ができる、ディシプリンがある生き方ができるのだ。マッカーサーとその周辺の人間たちからしたら、「こいつはどうしてこんなに自信があるんだ」と感じただろう。その次郎は決して踏み外してはいけない「恥」の感覚があっただろうし、いうまでもなく彼の人生を読むと、結果的に「名誉」が後から付いてきたことが分かる。

詳しくは白洲次郎についての本を読んでもらえばわかるだろう。

ぼくは不思議だった。明治維新後~昭和の初期にかけての、こういう人物伝を読むと、白洲次郎もそうだが厳格な父親像が描写され、そういう父親に育てられたというストーリーが多い。まあぼくの祖父の武勇伝を聞いてもそうだが、あの時代の厳格な男というは今の日本男子の草食男子ぶりからは想像もつかない。時代がほんのわずか100年未満過ぎたぐらいでこんなにガラッと変化するものなのか。これは世界的に同じような傾向にあると思うが、このような大きな変化の背景にはいったい何があるのか。テクノロジーとかいろいろなものの発展が加速度的な変化を促進していると思うが、それはつまるところ思想の変化、精神面での栄養の変化であり、テクノロジーというのはその人の脳内のインプットアウトプットに変化を加え、思考のパターンを変え、文字通り脳内の微細な構造を変えたのである。

 

さて、「日本人は主張がない、何が言いたいのか、何を考えているのかわからない、とにかくシャイだ」というのは世界中の共通認識である。そして日本人について論じるときに特徴的なのが、「日本人は年齢より幼く見られる」ということである。海外に行ったらよりそれが感じられるだろう。オランダの解剖学者のぼボルクの概念を借りると、日本人のネオテニー化と言えるかもしれない、とにかく生物学的に日本人は童顔なのだ。これは橘玲の本で言及されている。

顔が幼くて、主張がなく、他者の顔色ばっかり窺っているという日本人の特徴、これでは完全に「男の子」ではないか。我々日本男児は確かに強みもあるのだけれど、今言ったネオテニー現象は普通に考えれば大きなハンデである。

さて、これをより強力なアドバンテージに変える方法を教えよう。

いま述べてきたことそっくりそのままなのだが、りっぱな精神的サムライになることである。日本男子が本来持っている可愛げ、お茶目、優しい笑顔などは、女性はみな好きである。母性本能を大きくくすぐるものであろう。協調性も大事だし、空気が読めるというのもスマートである。その反面、精神的に強い、自立していて、自信があり、恥ずかしいことはしないという生き方、尊厳やプライドを大切にする生き様、そういうものがドカンと内面にあり、一挙手一投足ににじみ出ていれば、どうだろうか。これは相当いい男である。幼い外見と男らしい内面、それはつまり「ギャップ」である。

こういう生き方においてサプライズができる男、ナチュラルに興味をひく男に対して、女はかなり萌える、こういう日本男児は本来女性たちの心を掴んで離さない、とぼくは信じている。

 

 

 

 

最後にこの動画を見てほしい。

 https://www.youtube.com/watch?v=Il1T0JtWm_k

プリンシプルがあり、それに沿ってディシプリン的に生きるとはどういうことなのか、非常にインパクトがある教材である。主張がある、とはどういう状態なのか、どういうメンタリティなのか、そして日本人が持っていない決定的に重要な要素を非常に浮き彫りにしている。この投稿者の動画はどれもポジティヴな影響を与えるドッキリ動画である、ぜひ読者登録して新しい動画をチェックするとともに、何度も動画を見返してこういうティシプリンのある生き方を目指してほしい。

自信とは、実績や容姿などのスペックとは何の関係もないものだ。それはディシプリンの範疇であり、生きる上での信念があるかどうか、なのだ。

こういう場面に遭遇した時、恐れず勇気をもって主張できる日本人が何人いるだろうか。2番目黄色の服を着ている男性の言動には正義と愛と勇気が溢れている。決して批判的ではなく、それでいて伝えるべきところはしっかり伝える。「男として、君に伝えたいんだ」と。彼はそういう人生観で生きていたから、そういう場面に遭遇したら黙って見ていられなかった。これを見過ごすのは彼にとって恥ずかしいことだったのだ。

こういう場面をみると、冒頭の欧米型の土壌に戻るが、アングロサクソン人や(この黄色の服の男性は、厳密にはその人種ではないが)彼らが作り出す文化が、なぜ世界に君臨しているかがよくわかるだろう。圧倒的なインパクトである。

 

さあ、われわれ日本人もより飛躍しないといけない。

その眠っている潜在能力を解き放ち、女性たちを幸せにしてほしいと願う。

 

やじろべえ。

 

 

今回は、質問への回答は無しです。

ブログあげるので精いっぱいだったよ。

でもいつまでも待ってくれている読者のみんなに価値あるものを届けたいと思っているよ。

愛を込めて。 

 

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