モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

反骨精神の、使い方

男に必要なのは強さ。

それは筋肉もりもりの強さかもしれませんし、経済力としての安定感かも知れない。コミュニケーションの上手さという安心感か、はたまたユーモアに見る機転の速さとサービス精神かもしれません。

強さはあらゆる側面を持っているでしょう。

とにかく生物として♂は強いほうがいい。

しかし現実は強さの定義は難しいようで。

自己中心的な強引すぎる男がいたとして、そういう人と一緒にいるのはたいへん、やっぱり3低がいいわねと落ち着いてしまう。

しかしそんな低姿勢も、ときに頼りなく感じる場面があると、「もう~もっとリーダーシップ発揮してよ」とこれまたがっかり。そういう表面だけみてしまうと、結局強さか優しさか、あっちを立てればこっちが立たずのような無限ループに陥ってしまということがあるようです。

 

生物的に見てみると、動物界では例えばライオンでもオス同士の決闘を制したものがメスに求愛できるわけですし、われわれの先祖も狩りに行ってクマにでも出会ってしまったときには命懸けの闘いをしなくてはいけなかった。

狩りが下手なら肉をもって帰れず家族に晩御飯を食べさせてあげれないダサいオヤジになってしまう。

勇気があって賢い、昔からオスにはそうゆう強さが必要でした。

これはフィリップマーロウが言い放った「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きてる資格が無い」の名言と本質的に合致しています。

動物でも我々の先祖でも強くなければ生きていけなかった。

強いは前提条件であり、そのタフな男が優しいから意味を持つのであって、人間関係において強く出てテイカーのようにふるまうとか、ただ優しければ人気が出るとモテサイトに書いてあったとかそんな打算的な思想の中に、本当の強さはないということ。

 

上記の生物ーマーロン理論を踏まえると、「強さ」は持っていて当たり前。さらにこの「強さ」は生きていくための知恵や経験値、精神力から構成されてその男をりっぱなソルジャーにする。そしてそれは現代社会でも同じで、強さは実社会の戦場で生き抜く原動力になるのです。

表面的なモテ的強さではなく、生き物としての本来的強さを。

 追いかけるべきは時代が変化に寄らない男性性で、それを時代にマッチした仕方で使うことです。狩猟時代のあの頃の男の強さを現代社会でどう適用すべきなのか、その中心にあるのは「反骨精神」なのです。

 

辞書にはこうありました。

反骨精神 ー 世の中の不正や因習に果敢に立ち向かっていこうとする気概・心持ち

要するに、気概や気持ちの状態のことを指すのです。

反骨精神=反社会的な行動、ではありません。

ハングリー精神、勝ちに行く気持ち、雑草根性、負けん気、心理的抵抗。

確かに何か成し遂げるべき物事に対峙する時、自分の殻を破るべき時、こういう精神はどうしても必要ですよね?

 

ところで、「反骨精神」でいろいろ見ていたらおもしろい記事を見つけました。

尾崎豊没後15年(当時の記事で)、あの頃の若者と今の若者の違いを若者特有の反骨精神を題材に論じていました。

尾崎世代の若者にとって尾崎豊はまさに「10代の代弁者」。見事なまでに若者の社会への不満を描写し、反骨精神を表現して支持されていったあの頃に対して、今の若者に尾崎の歌を聴かせても「何が不満なのか」「自己中心的なだけ」と正反対の意見を持っているよう。

結局、社会に対し、学校に対し、親に対しどういう印象を持っているかで、そうゆう世代ごと別々のアウトプットを生んでいると言えますが、それにより反骨精神がかっこいいのか、そうじゃないかの評価がはっきり分かれます。

時代によって、かっこいいとされる理想像が移り変わるのと同じように。

結果的に3高→3低、草食系などの概念が次々に登場しました。

 

 尾崎が支持されたのは、社会にというか学校というかそうゆうものに抑圧された(ように感じた)若者に、「それでも負けないで自分らしく行こうぜ」と若者を励ますような理解や共感を示す描き方をしたからであって、バイクを盗むとか、窓ガラスを割るという奇抜な反抗的言動を美化したからではありませんでした。

その反骨精神の中の七転び八起き的なメンタリティーを表現して、それが受けたのです。

ではなぜ今の若者に共感されないのか?、それは時代が違うからとしか言いようがありませんが、社会が変わりあの時あったものが今はなく、今あるものがあの時代にはなかった。価値観が移り変わりフィルターが変わったのです。

現在があり、尾崎豊の世代があり、そのまた昔には学生闘争をしていた時代があった。

それでもぼくたちは時代が変わっても変わることのない何か普遍的な本来のオスの強さを反骨精神を追求すべきなのです。

 本来的な強さを纒うために、反骨精神というマインドセットを持ちながら日々生きていく。

 

ぼくらが生きている現代はどういう時代でしょうか?

戦後の日本の復興、高度経済成長期の仕事人間、バブル期のイケイケな時代などは反骨的エネルギーを発揮する場面がわかりやすく見えていました。

普通に生きていても、周りが復興だーとか高度経済成長だーと盛り上がっているわけですから無意識的に影響を受け、その流れに乗れるでしょう。

しかしそれらが過ぎ去った今は先人たちの努力の働きあって何不自由ない半面、成熟し落ち着いた社会になってしまった。

それはネガティブに見ると現代のオスは反骨エネルギーをぶつける場所を見つけるのが難しくなったということで、必然的に「実戦経験を積む場所」少ないということを意味しています。

それゆえにそういう環境下ではどの時代以上に意識を強く保たなければもともと持っているはずのオスの反骨精神が腐ってしまう恐れがあるのです。

「かっこつける場所」を積極的に探す必要があるということ。

考えてみると、別に狩りに行かなくても飯は食えるし、オス同士の闘いなんてしなくてもそれなりに恋愛できるわけで、じゃあどこで強さを学ぶの?と。

そうやってそれなりそれなりで淡々と生きてくると草食になってしまうのも、そりゃそうだろうなのです。先祖さまに比べて生きる必死さが、日常でのアドレナリンの量が全然違うから。

 

さて、時代を問わず、思わず見てしまう「輝いている男」というのは不思議と共通点を持っており、それは自分を生かす場所を持って、そこで反骨パワーを発揮している人たちです。

強さを前提としたクレバーな優しさがあり、反骨精神を持った上での、「使い方」がかなり上手い。

そんな男たちの反骨精神の使い方は

1.主体的に自己のテリトリーを見つけ、

2.当たり前にやって来る壁やスランプを乗り越える

この2点。それを要所要所で知ってか知らずが、きっちり使ってくるのです。

 

 成功するには好きなことをせよとはよく言われますが、これは真実とは言え周りを見渡すとそんなロールモデルはほとんど皆無。本来好きなこと(分野)しか自分のテリトリーになり得ないはずなのに。それは好きなことで生きてはいけないとどこか思っているふしがあるから、キレイゴトで飯は食えないとみんなが言っているから、現に明日のごはんが食べれなくなるから。

好きなことで、いわゆるやりがいという名の栄養剤を日々補給しながらハツラツと仕事できる人は、実際は趣味の延長などというポップな夢物語を生きてるわけではなく、その過程はスタートアップのしんどい時期を試行錯誤してクリアし、好きを現実にするために常に先を読み早めの一手を繰り出していて、そこに情熱(=反骨精神)をすべてぶつけることのできる人たちです。

ちなみに自分の生活圏にいる人たちに「明日からおれ自分の好きなことで生きていくよ」なんて言ってみてください。そーとーバカにされるはず。

ところがThink differentなイノベーターにひとりひとり聞いてみるとわかるはずですが、彼らはそこでこの伝家の宝刀・反骨精神を使っているのです。

「お前にはわかんねーよ」「一年後見てろよ」「最後に笑うのはおれ」

心の奥でそう念じながら意にも介さず、やりたいことを粛々とやる。

自分のテリトリーを見つける際は自分だけの何かを追いかけているはずで、いろんな初めてがそこに含まれるはずですから、客観的に逆風が吹き付けるのは当然のことで、まさに男は「タフでないと生きていけない」のです。

「自分の」ということはおのずと何が起きても自分の責任という原則も一緒に後を付けて来るのでそれが主体性をも副産物としてもたらしてくれるのです。

 

2.に関してはどうでしょうか?

周りなんてどーでもいい、そう割り切れてコツコツやってきたとしましょう。

次なる壁が現れます。必ず、あらかじめ描いていた青写真と違う部分がでてきてあーでもないこーでもないの瞬間に襲われるのです。

設計図通りに作ろうとしても、地盤がやばいだの、材料が違うだの、クライアントがやかましいだの、完成までにどれだけの壁があることか。

ビジネスとは「究極的には見切り発車」とあるビジネスマンが言っていましたが、完璧に準備してよーいドンはありえない、おおすじだけしっかり作ってそのあと現状に合わせて柔軟に適応させる必要がどうしても出てくる、と。

これは前回の”試行錯誤”ともつながる部分でその宙ぶらりんの状態、いやいやそれでも後戻りはできねーという場面で、反骨精神を使いこなせるかどうか。

意識してないつもりで感じてしまう「やっぱり無理でしょう」というあいつの声、「こんなはずじゃないんだけど・・」と自分を疑うような気持ち、そういう諸々の外圧を跳ね除けるパワーが反骨精神、尾崎が歌詞に綴った純粋な思いなのです。

 決して反社会的な言動などではないと再度強調したいと思います。

 

そうやって積み重ねてきたものが、自分の「かっこつける場」になり、かっこつけが様になり、強さとして輝き出す。

これこそ思考は現実化するの、正しいプロセスであって、土台にはいつも反骨マインドが存在しているのです。

なんらかの偉業を打ち立てた人が、昔しんどい時期を超えていてその後成功をつかんだ、というシンデレラストーリーはきれいごとでもなんでもなくて、ハングリー精神や負けん気を不遇の時期に適切に機能させたという一般論に過ぎません。

 

 そういうふうに、反骨は男にとって不可欠、逆にそれさえ持っていれば頭一つ抜きん出ることはより容易だと言えますが、

「じゃあやってください」と言われても、

「いやいやいや」となるはずで。

「明日から反骨で行こう♪」と机の前にスローガンを掲げても、

三日も続かないはずで。

 

そこで、反骨の基本構造を解き明かしてみようと思うのです。

ーなぜ、それをやるのか。という疑問ー

何かに反発するような感情は一体どこからやってくるのでしょうか?

そいつが単なるわがままだというケースは無しにして、ポジティブな形で発生する反対意見は既存の仕組みや観念に対して「ほんとにそうなのか?」という疑問を呈することが当人の心の中で行われていて、さらに言うとそういう既存体制の中にいることに違和感を感じていることが元にあります。

なんでこれやらなきゃいけないんだ、

こっちのほうがいいだろ、、

これ意味あるのか、

と。

要するに頭の中は「は?」なのです。

 

これは反抗期の青春期にも言えることで、

なんで勉強しなきゃいけねーだっ。

なんでワケのわかんねー決まりがあるんだ。

なんであいつは、、あーあー

となる。

単純に一律モデル化はできませんが、自我の芽生えとそれに伴う疑問の浮上が、その時期特有の態度を生み出して、大人の階段上らせるのです。その後これをうまく使いこなすのが反骨精神によっていい男・大人の男になる階段ののぼり方だと。

反抗期のないいい子ちゃんなんて、逆に怖いし、変ですよ。言われたことをやるだけがいいわけじゃないわけで。同じく、反骨精神を人生のどこかに置いてきたとしたら、男としては頭打ちであるとぼくは思うのです。

 

ということで、反骨精神の第一歩は「なぜ」という疑問が湧き上がること。

「いやいやそれおかしいでしょ」という独自の視点がゆくゆくは何らかの人間イノベーションとして機能するのに欠かせない感覚なのです。

またまた「疑問を持て」という耳タコな結論に至りましたが、これが人間としてかなり大事なことと切実に感じていて 、そういう感受性が立っている人が色んなことに気づけるし、自分のテリトリーを見出し、逆境にあっても元には戻らねーぞという強さの基本を備えている人なのだと信じています。

 

向上心・探究心の根本に「なぜ」があり、それらの疑問を適切に形にしたとき反骨的資質として、今の自分を変えよう、今のこの枠組みを変えたい、今のこの変な常識を変えねば、と作用する。

(「なぜ」が適切に働かない場合、単なる反抗的な不良としてバイクを盗む”だけ”になります。)

 

残念なのは疑問を感じるアンテナが弱すぎてやっていることが鵜呑み状態の場合。「なぜ」がないのだから、「今の状態でOK~、なんで反骨するのさ」、なんの向上もせず、「強さ」を知ることがないまま一生を終えかねない。

強さの欠片もないあの人、いつもぼーっとしてませんか?

脳みそ働いてんのかなー、ぜんぜん人の話聞いてねーな、という人、いますよね。

現状満足は人としての成長を止めるとあらゆる分野での定説になっていますから、是非ともオスとしての反骨精神を腐らせることなく、正しく使わなければいけませんね。

ちなみに、ジコマンという人種に一点の輝きすら感じられないのもそういう原理からです。

 

ーもう一つは体力ー

健全な肉体に健全な魂が宿ると名言があります。

反骨精神=エネルギー理論。

つまり、エネルギーない生物は生きていけない、と。

エネルギーのないオスは淘汰されるのです。

 

最近の研究では、自制心とか我慢とか、そういう意志力は筋肉のように使うほどに疲れて弱まっていくことがわかっています。 2時間頑張るのと、1日中頑張ったのではさらに頑張れる度合いに大きな差があるのだと。意志力も有限な資産ということです。

乱暴に言うと、我慢するのも結局は体力なんですよ。

フィジカルとメンタルには密接なつながり・構造的な類似があり、反骨精神を発揮するのは多分に逆風の状況下ですからもともとのエネルギー量がどれだけあるのかがそれに耐えうるかどうかを左右するといってもいいでしょう。

精神的なエネルギーの量は、何かを成し遂げるための不可欠要素のひとつであって、何か新しいことに挑戦するときは必ず壁にぶつかるものですから反骨精神というエネルギー量が大きい者が何かしらをやってのけてるんですね。

脳の回転をよくするのは運動と言われていますが、脳の回転が良くなれば「なぜ」も生まれやすくなるかもしれず、なにより運動すると気持ちよく、ポジティブになれます。

身体のエネルギー量は、精神のエネルギー量へと変わる。ココを押さえておけば立派なオスになれますよ。デキる男が筋トレ好き、走る習慣を持っているのも偶然ではありません。

エネルギー量=反骨精神強度=仕事が出来る=男の魅力もUP=成功

どうやったらモテんだよと打算する暇があったら筋トレでもしましょう。

自分のやるべきことと、その場所があれば、エネルギーを善用できる。

考える力と体力と、両翼として鍛えていきましょう。

体力的な部分は歯磨きと一緒で習慣化しちゃえばいいんですよ、半年後一年後大きなリターンになって返ってきますから。

余談ですが、現代男性の運動量とオスの特性は相関していると思っていて運動量を増やすのが最も簡単な変身法だと思っています、なんの勉強も理屈もなくハツラツとしていけますから。

 

まとめましょう。

 そうやって、頭と体をフルに使って反骨精神を育てて、正しく使っていきましょう。

自分のためにも、社会のためにも。

 

 

 

 

◇やじろべえ◇