モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

ペルソナをかぶる、とは?

 

今年も残り僅かになってきました、

と、、年末が近づくと毎回このように言っている気がします。。

僕自身は、短期のゴールや参照点を設定するのは目標達成に役立つと思ってずっとやってきましたので、そういう「区切り」が頭の中にあり無意識にしゃべっているんだろうなあと思う、今日この頃です。

2023年まで残り1週間、来年も見据えつつ精一杯やっていきましょう。

 

さて、今日はペルソナをかぶるということについて話していきたいと思います。この深ーい意味について誰かかが話していたのを聞いて、「なるほど」とぼく自身も共感するところがあったのでこれをテーマにいつかを書こうと思いながら(いつものように涙)延び延びになっていたのですが、

つい最近また似たような話を聞きその時思ったのが、「興味深い話で有益な面があるが、口で言うほど簡単ではないことだ。むしろ間違って大けがをしてしまうリスクの方が高いんじゃないか」と、ペルソナ=取り扱い危険物、であることが分かったので、これに関してぼくなりの考えをつらつらと書いていこうと思います。

ペルソナは自分を変革するうえで本当に重要なものだが、間違ったら取返しのつかない、そんな諸刃の剣であることを一言付け加えた上で、それでは見ていきましょう。

 

ではいってみましょうー。

 

ペルソナとは、心理学者のユングが提唱した概念で、人間が社会的に要求される役割を演じたり、周囲の環境に適応するために自分自身とは違う自分を披露することです。彼は深層心理を研究していましたから、人間の外的側面と、それに覆われた深い心理の関係をずっと観察していました。そして人間が他者との交流において、その場の文脈で要求される役割を演じていることを気づきました。

それはいわゆる”素”の自分とは違う自分であり、演じているだけの仮面な自分でした。

ペルソナの語源は、元来、古代劇で演じる役者の仮面のことです。ですから仮面を被れば役者の顔は見えません。が、それでいい。彼らに期待されているのは演劇の中でのそれぞれの役割をきっちり演じること、これこそが一番のプライオリティで、そのためにはむしろ自分(考えや好みや美意識)を消すことが要求されます。役者のパーソナリティや人格、私生活や喜怒哀楽とは関係ないのです。彼らが自分を消し、白紙にすることで、誰かがそこに新しい絵を描くことができる。それを描くのは演劇の監督であり、プロデューサーであって、役者自身ではありません。そしてそこに描かれる絵というのが、演劇で割り振られる役割ですが、それを役者自身のエゴで邪魔してはいけないのです。終始、真っ白な紙、画家が描きやすい紙に徹する必要があります。これがペルソナとしてユングが概念化したモデルの背景です。

演劇の世界ではそうですが、これが現実世界ではどうなるのか。ユングは、同時代に生きる人々が本当の自分を隠して、この仮面(ペルソナ)を被りながら、それぞれのコミュニティで求められる役割を無意識的に自動的に空気を読みながら、上手に演じていることを見ました、そして同時にどんどん本当の自分がわからなくなって、自分のパーソナリティ全体が消え去っていくという状況も観察していたでしょう。

こう考えると、演劇で役を演じる役者さんは今言ったようなスキルをどんどん高めてもらえばいいのですが、社会での我々ひとりひとりのペルソナはそうではありません。我々には(そして実際には役者さんにも)自分自身の個性や生活や人生の目標があり、そっちの方が主軸です。それらは普段なにげなく演じている何かとは全く違う、本質的で現実的なものです。

上演が終了し、舞台から下がると一仕事終え、それぞれの家に帰っていく役者たちとは違い、ぼくたちは舞台から下がることをなかなか許されません。もしかすると一生死ぬまで何かを演じなければならないかもしれない、それが家庭や職場や地域のコミュニティなどの様々な人間関係のしがらみです。本当の自分をどこかに置いてきたまま、周囲の環境に合わせるだけの生き方で、いったいどこへ向かっているのかです。これはこれで大きな問題を生むことが予想できます。

一方で、当時ユングが概念として提示したものは、「ペルソナ」とか「無意識」というのは人々の中に例外なく存在する、ということでした。彼は、みかんの皮であるペルソナがあれば、皮を剥いたみかんの果実であるシャドウがある、人間にはそんな風な中と外の自分がいて、それを使い分けている、皆そうだということです。これは、良い悪いという話を超えて、人間とはそういう生き物だ、そういう機能を持っているんだ、ということを述べていて、本来は、今言ったような「仮面を被っているから本来の自分が失われて、、云々、、」という否定的な話でもありませんでした。

これは納得できます。

ぼくらは裏表の人間を嫌う反面、裏表がまったくない人間=いつでもパジャマで外出したり、友達と会社の上司や取引先の顧客との接し方が全く同じ、という人間を見た時も、こいつは頭がおかしと感じます。

自然とそう感じるし、我々が無意識にそういうエチケットをわきまえた振る舞いをしているというのもユングのペルソナとシャドウをよく表しているのではないでしょうか。

場に合った服装をすべき、相手に合わせた態度や接し方をすべきという暗黙の常識がぼくらの中にある。家にいるオレが素の自分、親友達と一緒の自分が本来の私です、とドヤ顔されても、まったく困る。公私を混同してはいけないのです。

「いつでもどこでも素のわたし」、などというのが許されるのは、赤ちゃんだけです。大の大人はそれぞれの文脈に応じた自分の”顔”を出すべきなのです。

では、結局どうなのでしょうか。

ペルソナは被るべきか? 被らぬべきか?

ここが成長か大けがかの分かれ目となります。

結論から言うと、被っているペルソナを自分が理解しているかどうか、そしてそれが自分のユニーク性と反していないかどうか、ということになります。

さっきパジャマの話をしましたが、これがわかりやすい。

TPOという言葉も一時期よく聞かれましたが、つまり、時と場所それらの文脈に応じた服装をするという意味で、これ自体はマーケティングのために開発された用語ですが、その考え方は古くからどの国や地域にもありました。

英国では、紳士のマナーとしてどういう服装をするかがとても重要でした。どういう服装をするかで「あなたが何者か」「どういう心で日々を生きているのか」というメッセージを周囲に発することになります。そこから知性や品性や教養が透けて見えて、服装に関する正しい知識を持つ者、TPOにマッチさせることができる者、という評価を第一印象だけで与えることができる。人間としてイケてる男が上流階級で高く評価されました。

そうそう、誰かが言っていましたが、日本人はヨレヨレの革靴を履くと「たくさん営業をまわっている」とポジティブにとらえるが、西洋の伝統からすると完全なNG-「礼儀知らずな失礼な営業マン」と見られ、ぜったいこいつからは買わない、となる。これは文化や歴史の違いなので見る側の受け取り方が異なる事例ですので、どちらが正しい間違いということではありませんが、理解してほしいのは服装がその人間の中身を表す、メッセージを発しているということで、その意味でペルソナは重要な役割を持っているということなのです。自分が被るペルソナにはそこにある文化や人々に対する理解や配慮、場を見極め自分の個性を心地よい仕方で人々に認めさせる力、そういうものがあるのかどうか、というところにつながってきます。

また、西洋にはドレスコードと言ってパーティの主催者から服装の規定があります。そこへ行くときは場にふさわしい、また主催者へのリスペクトを込めた服装で出席する、ということが大切です。そこへのこのことパジャマで出ていったら、どうなるか?「これが普段のわたしです」というのは通用しない。相応しいペルソナを被って行かないといけないのですね。

繰り返しになりますが、そのドレスには、場やドレスコードを理解していること、そして自分の知性や教養をユニーク性に織り交ぜつつ、渾身のドレスで出席させていただくことが正解なのですね。

こう考えると、ペルソナをかぶるというのがどういう意味を持つのか、そしてそれが自己実現や自己成長にどうつながってくるか、見えてきませんか。

それは自己の内面と外面を高いレベルで融合させる努力、なのです。

自分の内面、つまり元来のパーソナリティ、そして願望や目標や美意識などを完全に無視して、周りに合わせるのではない。

あるいは、「おれがおれが」と自分を前面に押し出して周りを不快にさせるのでもない。

この両者を融合させる作業、両者をバランスを取りながら高めていくのです。

それが高まったとき、世界に役立つ有用な自分へと歩いているということになるでしょう。

 

ここまでで、服装を例え話として考えてきました。

では、人格的には、そして自己実現的にはどういう経路をたどるのでしょうか?

ここで冒頭の「似たような話を聞きました、それは・・」というくだりに戻りましょう。その中で話されていたのは、「なりたい自分を演じろ」ということでした。そうすれば、自然とそれが本当の自分になるというのです。ペルソナの仮面を被ればやがて役者はその仮面のような人間になる、と。強い自分になりたければ強い言葉遣いや態度・振る舞いをする、穏やかで堂々とした自分になりたければゆっくりしゃべったり・落ち着いた立ち振る舞いを、、というわけです。ビッグマウスもやり続ければ身になる、という自己暗示の世界にも見えますね。一見こういう努力はドロ臭くやり続けるのがしんどい気もしますが、実際のところどうなんでしょうか?

これは冒頭で『取り扱い危険』である、と述べた通りなのですが、

ビッグマウスをやり続けるとしたら、うまく行かなかったときの大事故は、もはや大惨事です。それが本当に自分がなりたい姿なのかもわからない。失うものが多いのではないか。

かといって・・、今のままの状態を続けるのも良くはない、オレは変わりたいんだ、と。

 

さて、ペルソナを被るべきだ、「これが素のオレです」とのこのこ出てくるな、というのはぼくの主張です。その意味で、ビッグマウスでなんとかうまく行く可能性もゼロではない。

問題は、内面と外面のバランスであり、「あなたの内面は、本当にビッグマウス的な人格や生き方を心底望んでいるのですか??」というところに行き着くでしょう。

内面の自分ー「お前は本当にそのスタイルを望んでいるのか?」というところが明確でないといけない。僕らは着せ替え人形ではないのですから、世の中の流行や他の人の好みの受け売りでペルソナを選んではいけないのです。なりたい自分があり、そこへの道筋が明確であること、その目標を達成するために現状のギャップを埋めなければならない→ ”少しの背伸び” として仮面を被るのです。

ということは、その仮面がどういうものかが重要になりますね。

あなたのペルソナ仮面はどこからやって来たのか?受け売りで受け身で拾ってきたものであってはいけない。”あなたの中から生み出され、発掘されたもの”であるべきなのです。SNSでキラキラしている誰かをそのまま真似るのではないのですね。

まずここです。

自分の得意不得意、自分らしさ、心底の願望、羨望、心地よさ、それらを理解すること。そうすると、少しづつ現状と理想のギャップが見えてくるでしょう。

次に、ペルソナの選定です。

自分が被る仮面はどういうものなのか?取捨選択です。

どんなにかっこよくて、ステータスを築いていて、社会から認められている仮面でも、自分の個性にマッチしないのなら選ぶべきではない。人には得手不得手があります。ピッチャーの素質に恵まれているのに、ホームラン王がキラキラしているのを見て、無いものねだりをしてはいけない。オオタニさんにはなれないのです。(トライしてみることはとてもいいことです。)

ビジネスの文脈で、「起業するには自分の好きと得意の重なるところを見つけろ」と言われることがあります。自分はそれができるし、好きだからこそ困難なときも継続できる。そうするとその分野では成功する確率がとても高くなります。好きなことで成功しているのだから充足感もある。

人間性というのも同じで、自分の個性の得意不得意を理解し、自分の好きなところを認めてあげる、そしてそれらを総合的に伸ばしてあげる必要があります。これが成長の近道であり自信にもなります。

さて、このように作業としてみるとシンプルなわけですが、その中でもとても気合を入れて頑張らなければ部分があります。それは、自分の目指すべき道が見えたらその道を極めよ、ということです。自分が好きで得意なことをしているのだからこそ、圧倒的なものを目指さないといけない。周囲に異彩を放つようなレベルを目指し、周りが引くほどの努力を積まないといけません。輝くペルソナがそのうち自分自身になるでしょう。

 

さあ、まとめです。

結局、自分のオリジナルを生み出すというのは、取捨選択して適合するものを徹底的に反復して身に着け、そうでないスタイルはたとえキラキラしているように見えてもバッサリ諦める、という作業としては単純なものです。でも、時にいろんなネガティブ感情が入り乱れ理屈通りにはいかなくなるときがあるでしょう。やっぱりマインドセットなのですね。

そして、そういう慎重かつ謙虚な取り組みをし続けていけば、必ずあなたらしい個性が成長するでしょう。そして自分を研究し探求し形成していった過程で得られた観察眼や知見というものは、「だれかのため」という貢献に活かされるはずです。自分だけの秀逸なペルソナを確立しながら、周囲の中でも自分の個性をキラリと光るものにすることができる。これは我々がイケてる男を模範にしたのと同じく、我々もだれかの模範になれるのです。

 

当たり前と言えば当たり前な話ですが、ボタンの掛け違いをすることなく理想の自分をつかみ取ってください。

 

やじろべえ。

 

 

※※※質問コーナー※※※

 

Q1.人見知りはどうやってなおしたらいいんでしょうか?

A1.人見知りはいいことなのか、悪いことなのか、わたしは必ずしも悪いことだとは思いません。これは、成功するのは外向的人間か、内向的人間か、という問いと似たものがあります。

我々は社会的な生き物なのでそういうつながりを持って生きていかなければいけませんし、女性と関わるには、出かける、話しかける、良い関係を築く、ということが要求されるので、極人見知りで、いつも家にいます、というのでは困りますが、

人見知りの人の強みもあるとぼくは思っています。

人見知りの人は、内向的であるがゆえに自分の世界にとどまることが多く、外界へのアクセスが薄かったり不得手だったりすると思うのですが、それは裏を返せば自分の軸やスタイルを確立し安定しやすいことにつながると思うんですね。ぼくはそういう人を遠目で見ながら、あの人はとても安定しているな、他人に振り回されないな、と感じる時があります(もちろん、本人は内心苦労している部分もあることと思いますが)。それはとてもポジティブな印象です。

それで、こういうタイプが目指すべきは、外向的になろうとしてもともと自分の持っているものをぶん投げて、全く新しい何かになろうとするのではなく、その内向さから来るアドバンテージを育て、自分の世界観を反映できるマインドセットとスキルを高めることですね。

日本料理店が海外に出店したら味がガクンと落ちるのと同じで、日本にどっしりと構えてやって来る海外旅行者を魅了してあげた方がますます格が上がるのと似ています。別に必死になって出ていく必要もなく、来る人拒まずで堂々と内に構えていればいいんじゃないでしょうか。

 

Q2.バチェラーの黄浩さんを見て、彼の発言がやじろべえさんの主張と通ずるところがあり、思想的な部分とエンタメを行ったり来たりしながら学ぶことができています。

やじろべえさんの感想を聞きたいです。

A2. 黄浩さんは爽やかでとてもかっこいい男性ですね。わたしはバチェラーは見ていないのですが、彼はビジネス系のネット番組などにもけっこう出演していて、その活躍は拝見しております。おそらくビジネス系から入ってバラエティへ広げていかれたのではないかと思います。とても多彩な方ですね。わたしの印象では、ルックスも良く、トークもできて、初対面や女性に対しても物怖じしない方です。誰とでもすぐに打ち解けて一緒にいる人は心地よさを感じるのではないでしょうか。これに、社会的なステータスもあり、フィットネスもやる、となれば女性はメロメロになるでしょう笑。

中国出身の方ですから、そのへんの印象もガラリと変わりますね。

そして強調しておきたい点ですが、この質問者様が言っている通り、事前にやじろべえのブログで勉強していたからこそエンタメが学びになったということです(ドヤ)。エンタメはエンタメとして楽しむというならそれでもいいのですが、エンタメから何かを学びたいと思うなら、ただそれを見てるだけでは何も得るものはありません。こういう類の番組は視聴者を引き付けるよう精巧に作られていますから、見る側の下地が整っていてはじめて教訓を引っ張り出すことができます。

 

Q3. 寂しい時、誰に電話しますか?

A3. もうおっさんなので寂しい時もないし、電話することもないですよ。寂しい時の電話は、若者の専売特許です。

 

Q4. ふと思う自分のかわいいところは?

A4. 甘え上手なところ。

 

 

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