モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

ナンパをどう思いますか?ー質問に答える回

 

こんにちは、やじろべえです。

久々にやってまいりました。

わたしがブログに手をつけていない間も、読者の方々から質問がきたりコメントが寄せられたり(批判も少し)はしていました。書くべきことはいろいろあるはずなんですが、今回来た質問にはぼくも思うところがありましたので、それに答える形でマインドセットの重要性を語りたいと思います。ちなみに、結論の段階では最近飛んできた批判にも答えられると思います。

 

質問はこういうものでした。

「やじろべえさんはナンパという行為に賛成ですか?」

では、考えていきましょうー。

 

========= 

結論から言うと、

意外かもしれませんが、わたしはナンパには肯定的です。

この問いはいろいろな角度から考えることができますが、まず留意しておきたい点として、質問者さんの頭の中では、ナンパという行為に対して「チャラい男がヤリモクで女に声をかける迷惑行為」というネガティブな印象があることです。チャラい男=WHO、ヤリモクで=WHY、声かける迷惑行為=HOW、という揃いもそろってネガティブな見方です。サイモンシネックもびっくりの、ネガティブのオンパレードです。

さらに、こんなお堅いブログの読者である質問者さんはおそらく硬派な男でしょう。であればきっと「ナンパなんてチャラいことをしてはいけない。王道のモテを歩いて行け」というやじろべえからのレスポンスを期待しているだろう、ということです。

質問箱に入っていたこの質問を目にしてすぐに、わたしは文章の雰囲気からそのような意図や心理変化を感じ取りました。(違ってたら、ゴメンね♡)

ということは、それらの期待がバッサリと裏切られる形でマインドセットが論じられることになります。

さて、このようにある出来事に対して意見が分かれることを我々はこれまでたくさん見てきました。一方は肯定的で、他方は否定的、というようにきれいに二分されるあの場面です。自分では当たり前に見えるトピックでも、賛成反対が遥か遠くに分かれるということがある。こういう意見の相違が起きたとき(ポジショントークを差し引いたとすると)、そこには何が残るのか、まず、我々が覚えておかなければならないことがあります。

それは、人は皆ある事象に対する理解の「前提が違う」「定義がバラバラ」「印象がすでに固定されている」ということです。

パラダイムの根幹に違いがあると言ってもいい。

難しく聞こえるかもしれませんが、このポイントは日常生活においても非常に重要であり、人間関係にダイレクトに響いてくることです。もちろん、恋愛が上手か下手かという我々の問題意識にもつながるところです。

人間関係が崩れるときというのは、二者の間で前提や定義付けの共有ができていない、こういう”些細なミス”に起因しています。その些細なミスから相手のことを誤解してしまうのです。さらに悪いことに「なぜわたしのことをわかってくれないんだ」「こんな簡単なことも理解できないなんて」「こんな真っ当な意見に反対するなんて、ひどい奴だ」というような、自分のエゴと少しばかりの寂しさが加わってしまうと、”些細な”すれ違いがバタフライエフェクトのように大きなひび割れとなって人間関係が崩壊していく。誤解とエゴと寂しさ、、、おや、これはよくありがちな恋愛の失敗ですね。そうなると当然、お別れすることになる。これが残念な誤解の構造です。

そこを踏まえて、私と質問者さんの見解の相違を解いていきましょう。

今日のトピックにおいて、我々それぞれの頭の中の前提を作るものは、いわば「ナンパとはなんぞや?」という根源的な問いです。

一般的に、ナンパはチャラい、と見なされます。これは社会の大多数が持っている揺るがぬ社会通念でしょう。

さらに、女性はオフィシャルに「ナンパはどう思いますか」と尋ねられたら必ず「チャラい、嫌だ」と答えるはずです。しかし実際にヤリモクのチャラい男たちもたくさん蠢いているわけだから、その見方は必ずしも間違ってはいません。チャラ男が近づいてきてチャラチャラと声をかけてくるのはたいへんにウザイでしょう。やっぱり、彼女たちはチャラ男ではなく真の王子がやってきてほしいのです。

 

もう一度強調しますが、これが”世間の”印象です。

 

さて、あらためてナンパとは何でしょうか?

「面識のないものに対して、公共の場で、会話・遊びに誘う行為」(Weblio辞書から)とされています。

例えばこういうストーリーを考えてみてください。

以下⇩

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

さて、今日もジムに行こう。

バルクアップのために最近は詰めてトレーニングしている。今日はベンチプレスで胸を追い込みたい。

(ジムに到着)

おっと、先客がいるな、準備運動でもしてアップしていればそのうち終わるかも知れないな。

ん? どうやら終わったようだ。

「すいません、空きましたか?」

「はあはあ(ハードに追い込んているようで息もキツそう)、あと一セットっす、ちょい待っててください。。。」

かなり息が切れている、結構やってんだな。みんな頑張ってんな。

あと一セットで終わりか、この人が終わったらオレも気合い入れてやらないとな!

てか、何キロのダンベル挙げるんだ?!しかもフォームもきれいだな。(注視している)

結局、終わった後声をかけてみた。

~~~~~~〜〜

 

さて、ジムにありがちな光景です。トレーニーならこういう経験も何度かあるでしょう。

あの器具が使いたいが、先客がいる、というシチュエーション。もちろん、この人が終わったあと別の人に割り込まれたくないから、近くで待つか、あえて「もうすぐ空きますか?」などと声をかけておく。 そういう心理も働きます。

上のような例においては、場合によっては声かけの後、話に花が咲き、今度一緒に合トレしませんか、とLINE交換もする、そういうことも大いにあり得るでしょう。

 

さて質問ですが、この場面が、先客としてトレーニングしていたのが女性ならどうでしょうか?

先ず、忙しいあなたは次にベンチプレスしたいのですから、声をかけておいて、次はオレが使います、と(もっと言うなら、「早く終わってよ、次待ってますから」という印象をナチュラルに)印象付けたい。そういう手を打っておくのは当然です。

ここで、この筋トレ女子が何らかのアクシデントで困っていたら、手を貸しますか?あるいは何かしらの間違いにあなたが気付いた時、親切に教えてあげますか?

もちろんそうしますよね。

ブログでも常々言っていますが、「優しさ」や「主体性」というのは男らしさの重要な部分を担っているのですから。

そんな、偶発的な事象の対象が、女であれ男であれ主体性は発揮されるべきでしょう。たとえ子供であれ、おじいちゃんおばあちゃんであれ、人助けをするのは基本の基です。必ずそうしなければいけません。

主体的に手を貸してあげる、親切に丁寧に何かを教えてあげる、こういう善を行っていると、その後に会話へと発展していき、リレーションシップが形成されることもよくあることです。人はみんな爽やかで優しい人間が好きだからですね。

非常につまらないありがちな例を引きましたが、ポイントは何かというと、人は常に利己的な意図で他者と関わろうとしたり、チャラい目的を持って女性に近づいているわけではない、むしろ自然な成り行きでそうなっているという点です。(しかし、残念ながらその自然で偶発的な事象を、客観的に人々は意図を悪く解釈しがちだ、ということも。)

さて、ナンパの定義を思い出してください。

「面識のないものに対して、公共の場で、会話・遊びに誘う行為」(Weblio辞書から)

ジムでの状況と、だいぶ符号していませんか。

面識がない人に対して、

公共の場で、

会話に誘う(あなたの親切心がきっかけで自然と発展した)行為。

辞書に照らすと、完全なナンパです。

少なくともこのシーンを見ていた他のトレーニーは、「おいおい、ジムでナンパか、場違いな」と思っています。外から見ると世間で言う迷惑なナンパだと思われても仕方ない。しかし、あなた自身はこれが当たり前の善だとわかっている。果たして客観的に迷惑好意だと言い切れるのか? 

嫉妬心を持ってこのシーンを観察したら、「はい!女は迷惑してたはずです!」と言いたいかもしれませんが、それこそ強力なバイアスがかかっていることがすぐに一目瞭然です。それは今考えた定義や設定した状況からしてそうなのです。

じゃあこれがナンパだとして、あなたがジムで行った親切や気遣いは世間から否定されるべきもので、主体性や親切心まで否定されるべきものなのか? そうではないでしょう。

最終的にはこの声掛けが恋へ発展したとしても、外野である我々一般にはこの一連の流れを断罪することは出来ません。

一周回って「ナンパとは?」という、根源的な問に返ってきます。

こう考えると、ナンパを違った角度で見ることができませんか。「ナンパは悪ですよね?」と聞くことすらナンセンスに感じられる。ある出来事に対して善悪の判断を下すというのは我々が思っているよりとても難しいものなのだ、という謙虚な気持ちにもさせられます。

ナンパとはなんぞや、に関してこういう前提を持っている私と、社会が持つナンパの観念を共有している質問者さんで、「ナンパをどう思うか?」に関して見解が異なるのは当然ですが、大事なのは物事を多角的に捉える思考のクセ付けが必要だという事なのです。

 

一方で、偶発的なナンパではなく、明確な意図を持ってチャラくナンパしている輩はどうなんだ、という疑問が頭をよぎっていることでしょう。冒頭に述べたように、本当に迷惑な行為をしているナンパ師も大勢いる。やり方もスマートではなく、動機も十中八九「悪で利己的」である、そういう輩です。こういう話を聞けば聞くほど「ナンパは自己中心的な迷惑行為」という観念が出来上がり、人をナンパから遠ざけていきますが、

ここで理解すべきは、物事というのは多くにおいて価値中立だということです。

ナンパという行為自体は善にもなるし悪にもなる中性的なものだが、善か悪かを決定づけるのはナンパを行う人間の資質に依る、という意味です。(ナンパされて嫌がる女子もいれば喜ぶ女子もいる、それはなぜか? ※イケメンに限る、なのです。)

包丁は、絶品の料理を作るのに使われるが、殺人にも使われる、一流のシェフが使うのか、犯罪者が使うのかで包丁の価値が決まってしまいますね。でも包丁それだけを見ても善で悪でもなく、ただの包丁です。同じように、ナンパをイイ男が使うと善い結果が生まれ、利己的なチャラい男が使うと迷惑が発生する、ということにすぎません。イイ男(善なる男)というのは世に少ないわけだから、ナンパの価値が下がりナンパ=悪という社会通念ができているのが現状とも言えるでしょう。だからこそ、わたしはこういう啓蒙活動をしているのですが。

 

日本のような文化においては、協調性や侘び寂びなど硬派な特性が美徳とされています。その価値観からするとナンパというのは軽い男がやる単なる遊びだ(真剣な恋愛概念はない)という印象になるのも当然です。一方欧米ではまったく逆で、主体性やリーダーシップやレディファーストが、男の持つべきマストな特性であると伝統的に考えられているため、ナンパはコミュニケーションの一環と考えられるでしょう。さらに、例えばさっきシチュエーション設定したジムの場面では、困っている女子を助けないというのは(シャイな日本男児はやってしまいがちな、気づきませんでしたスルー)、欧米では最低ランクの男に格付けされます。不親切であり、自意識過剰だからです。ならばまだジムナンパ男のほうが、明るいし、ポジティブだし、周囲に気配りができるからマシ、となるはず。日本では自分を出さないことが美徳であるのに対し、欧米では自分を出す(表現する)ことが良しとされる価値観の違いです。

さらに余談ですがイタリアの話をすると、「美しい女には声をかけないと失礼だ」という見方まであります。彼らイタリア男は、母親には頭が上がらない、きれいな女性には「チャオ!」と近づいてリスペクトを示す、それが男らしいことだ、という価値観が根付いています。それは女性を大切にしていることの表れだから、という日本男児には取って付けたような理由付けを、彼らは真顔で実践しているのです。

異なる文化にそのような異なる美徳が存在しているとして、それはいったい善なのか悪なのかを決めることができるでしょうか。日本でダメなことが世界においても普遍的に悪なのか? そう思いたいとしても、実際は外国ではごくごく当たり前なことはたくさんある、例えば上に述べたような欧米の習慣のことであり、例えばナンパなどです。

このような違いは何に端を発するかというと、アジア人と欧米人では国の成り立ちなどの歴史背景やそれを基に発展してきた文化伝統が異なるということ、言い方を変えれば「前提が違う」ということになりますね。そうです、今学んできたすれ違いや誤解の構造と同じです。視野を広げてそう考えてみれば、ある概念や事象が良いか悪いかということを簡単に決めつけて発言してしまうという残念なことはしなくなるでしょう。歴史や教養を学ぶ意味というのは、このように物事の広い捉え方をしたり他者の見解に対して寛容や理解を示すことができることです。

日本のようなナンパが良しとされない環境でも紳士にナンパする日本男児はいるでしょうし、ナンパが普通のことと見なされているイタリアにも、利己的で迷惑なナンパをするイタリアンプレイボーイもいるでしょう。繰り返しになりますが、ナンパの善し悪しはそれを行う男の資質に依っているのです。

 

このように、ナンパを定義から考え直してきました。

それも、辞書に忠実に解釈し、他国の文化的側面も考慮にいれて考えてきましたが、語弊を恐れずに言うと、

「社会生活というのは、ほとんどがナンパである」

とまでわたしは思っています。

ジムに行くようになったとすると、そこにいる受付けやジムトレーナーやトレーニーたちと会話するとき、それはもはや定義からしてナンパです。新しい職場、新しいコミュニティなど、新しい出会いの場では「面識のないものに対して、公共の場で、会話に誘う行為」が発生します。営業職などは如実にこの能力が問われてきます。

家を一歩出ればそこはもう「公共の場」であり、それまで「面識のない初対面の人」に合う機会も当然たくさんある。そこで機械的で事務的なやり取りに終始するか、一期一会を意味のあるものにするか。もちろん我々は機械的なやり取りへ逃げ込むことなく、アクティブに人生を生きていきたい。

コミュニケーション能力が高い人は、自然とそれを発揮する、そうなるとその瞬間に「会話に誘う行為」が成立し、はい、それナンパです、という話になる。そうです、自己啓発で言われるように、「社会生活において次々にステップアップする」「殻を破る」「コンフォートゾーンを脱する」などの行動を取るとき、つまり新たな何かを始める時、それはすべてナンパになります。新しいことを始めようとするとき、社会で生きる我々は必ず新しい人間と出会い何らかの関わりを持つことになる。自己啓発とは、ナンパスキルと裏表だったのですね。

今あるコミュニティで一生を終える、つまり昔ながらの終身雇用制の中で生きていくなら、いわゆる「ナンパ」は不要です。でも、社会が変わり、転職当たり前になったいま、あなたが意識高い系だとすると朝活コミュニティに入ったり、セミナーに通い詰めたり、副業の師匠を探したり、ユーチューブのコラボをしたり、TwitterやInstagramでDMを送ったりと、面識のない(が、あなたは接点を持ちたいと願っている)人にアプローチしなければならない場面がやってくる。そこで一歩踏み出せるか、その後成功できるか、というのはこれは総合的なナンパスキル、そう、善なる動機や主体性や親切心やコミュニケーション能力などの人間としての総合力にかかっているのです。

主体的に会話をしようという意気込みや、相手に親切にしたり楽しませたりするコミュニケーションスキル、シカトされる恐怖やリスクを克服するして飛び込む勇気、僕がこれまでブログで書き連ねてきたこのような特質が、ナンパの一連の流れの中に含まれているような気がしますよ。僕が定義してきたナンパとは、チャラ男がやるアレではなく、広い意味での社会性や人間関係なのですから。

だから冒頭で、日常生活においても重要で、人間関係にダイレクトで、恋愛にもつながるよ、と述べたわけですね。

 

そうそう、ぼくのPeingに「小田急線でナンパ師が起こした事件をどう思いますか?」という質問も来ていました。この方を質問者さん2としましょう。

どう思いますか?···って、もっと明確に質問出来ないのかね、とツッコんでいましたが、これもナンパは悪、と考えている人特有の質問の仕方で、「ナンパするなんて悪い奴だ、ほうら、そういう奴はこういう事件を起こすんだ、そうですよね?」という同意待ちの雰囲気がプンプンしますが、これも今考えてきたロジックを使うと至極簡単に答えが出る話です。

小田急線での切りつけ事件 容疑者の男を再逮捕 「女性に対して鬱憤がたまっていた」(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース

事件を起こしたこの自称ナンパ師は、供述からわかるように、女性から相手にされない自尊心がボロボロの男だったということがポイントになります。道端で声をかければ今日からナンパ師を名乗ることが出来ますし、女性から相手にされないことがコンプレックスであればあるほど、「俺は女に困っていないナンパ百戦錬磨の"師"なのだ」と言いたい欲望が募るでしょう。

ところが、今考えてきたように「これからの時代は新しい出会いが必須になり、その上でナンパスキルに価値が集まる」のであれば、こんな事件を起こすような奴は、そういう資質を具えていたのか大いに疑問である、ということになります。「社会生活はナンパ」というほどに、社会で成功するのに、善なる動機をスタートにあらゆる資質が要求されるのであれば、この自称ナンパ師は実はナンパ師ですらなかったと言うことになりませんか。ナンパに対して人生を変える夢を見た単なる悲しい男が、その不遇に耐えられず不勉強で努力を継続することもできず、逆ギレした事件だったと言うことになりますね。

僕はこのニュースを見た時に、悲しい気持ちになりましたし、そして質問者さん2の質問を見たときに、もっと悲しくなり「ブルータス、お前もか?」と感じました。 はい、これが私の回答です。

最近は類似の事件が次々に起きています。

白金高輪駅の硫酸事件、犯人が被害男性の顔面狙った計画的犯行、写真公開の理由は?小川氏が解説 (msn.com)

問題の根っこは同じで、不遇に耐えられない男の逆恨みです。どうすればこういう状況を減らすことができるのか。やじろべえの啓蒙活動もその一助になればと願います。

 

 

さて、質問に答える回ということで、ついでにブログのコントの方に来ていた質問にも答えたいと思います。

この質問者さん3は勉強熱心で努力家で、下のブログ記事を読まれてふと疑問を感じたようです。

bit.ly

この記事の中に、わたしは「モテる男しか女性を幸せにできない」と記しましたが、彼はこの一文に注目したようで、「ということは、これは恋愛工学の言うところのモテスパイラル理論と同じですか?」という質問をいただきました。この質問者さん3自身は、「わたしは恋愛工学は表面的だと思い信頼していないがモテスパイラル論もある程度正しいのか、やじろべえさんの記事にもそういう意味も含まれているのか」とのことでした。

ここで言及されているモテスパイラル理論とは、モテている男がよりモテるというのを生物学的依拠を以って理論化したもので、恋愛工学の言葉を借りれば「女性とセックスできる男が、よりモテる(もっと他の女性とセックスすることができる)」ことのようです。

さてこれが「モテる男しか女性を幸せにできない」とどう関係するのか、ということですが、恋愛工学を創始した彼は理数系にバックグラウンドを持ち、モテを定義するのに「女性と関係を持つことのみをモテている状態とする、そこを定量的に示したものこそモテである」とし、それ以外の状況、例えばかっこいい男がいてどうやら女性たちから♡であるようだというのも、最終的に関係を持てないものはモテカウントしない、と。あくまで観察実証不能なものは科学ではない、ということですね。ここにおいて、そんなふうに女に困らない男はモテている男だと言える、女の幸せもいい男から抱かれることだから「モテる男しか女を幸せにできない」が成り立つ、そういう理屈のようです。これは、人間も動物だから幸せとは生殖行為(繁殖活動)だという考えを前提にしています。

一方、僕のような人文主義的で、人間は動物とは違うと信じている者にとって、幸せはもっと複雑で定義が難しいものです。心理学者たちが一生懸命に幸福を解き明かそうとしていますが(そして大部分においてその通りであるとぼくは感じている)、ぼくはあのような考え方が前提にあるため、生き物としての生殖活動は人間幸福の単なる一部分に過ぎず、もっと広い意味での「幸せ」があるんじゃないか、と考えている。その思想のもと「モテる男しか女を幸せにできない」と言ったということになります。歴史的様々な思想家が幸せについて独自に自己表現していますが、いずれにしても「その類の幸せはモテる男しか提供できないはずだ、だって人間としての総合的な実力が大きくなって始めて「モテる男」の境地に立てるのだから」という思いがぼくの中にはあります。実力が大きい男なら常々ブログで伝えている自己実現にも近づくだろうし、そうやって心身ともに他者にも貢献できる。そんな男なら当然自分の周りの人間を幸せにする力も持っているだろうし、自分の周りとは一義的には「自分の女」を指していて、そうなると「モテる男しか女を幸せにできない」というのがぼくの理屈になりますね。もちろんお堅いブログだからと言って人間の性の部分を否定することはできません。だからモテるというテーマで論をうんぬんするとき、どんな主張にも重なる部分は当然でてくる。わたしと恋愛工学の何かが似ているように見えることもあるでしょう。しかし深堀していくと全体像がもっともっとクリアに見えてきて、間違っても同じにはならない。

こういう意味でモテる男だけ女を幸せにできると考えていますので、わたしはいつも「だから気合い入れて、王道でモテる道を行け」という強く温かいメッセージをこめているのですよ。

この質問者さん3の問題というは、表面的な一文に気を取られ、両者の主張が似ているから「おんなじですか?」と聞いてしまっていることなのですね。今回のブログのテーマでもあったように主張の根幹を成す前提は何なのか?というところ、恋愛工学の立場とやじろべえの立場はどうなっているのか?それらを総合的に理解していれば、どう考えても両者が似ても似つかないことぐらいわかるんじゃないかなあと思うんですが、そこがてとても残念でした。恋愛工学は表面的だとディスっておきながら、自分自身の世界を見る目もごくごく表面的だったという、巧妙なブーメランですよ。もっと深みを持てるようにひきつづき文武両道で頑張っていきましょう。

 

最後に最近ブログに来た批判をご紹介します。その彼がもし未だにブログに通ってくれてたら、これから言うことも目ン玉見開いて読んでくれよな!

こういう批判でした。

「男らしい男は一人称が「俺」。 「ぼく」とか女々しい一人称言ってる時点で男らしさゼロ。 男らしい男はこんなにグダグダ冗長な長文は書かない。 それからストイックすぎると、うつ病や深刻な精神障害を招くよ。 全てが浅い。」

今回のブログでは主張の根幹を見抜いたり、立場をクリアにすることを学びました。それが表面的な出来事に対して右往左往することなく、自分の信じた道を歩いていけるからだ、と。

んで、この彼の批判は一人称について述べていますが、それは表面的なことです。自分のことをどう呼ぼうとそれらは生い立ちなどの習慣により無意識に出てくるものなのだから。男らしさがあるかどうかというのはやはり中身が大事ですが、人の中身を評価するには一人称以上に文章から滲み出る主張の根幹で判断するしかないですよ。

確かにこのブログはグダグダ長いですが、それはぼくが頑張って書いてこの程度の長さに収まるという実力不足もありますが、もう一つの意義として、長い文章を読めない人、インスタントにモテるテクニックを求める人、長い文章を読むというグリットを持ち合わせていない人をはじくスクリーニングの役割を果たしているからなんですね。このブログの読者は長い文も苦にならないし、むしろ知的好奇心を刺激されてどんどん読んでしまう勉強熱心な男たちだし、「ストイックすぎると、うつ病や深刻な精神障害を招く」ほどひ弱ではないと僕は信じているんですね。心身ともに健康な人はある程度の苦境にも耐えれるし、それを糧としてさらに強くなるでしょう。世の中には色々な人がいて、うつ病や精神障害に苦しんでいる人がいることを僕は理解してるし、その辛さも痛いほどわかるんですが、一方で、「ストイック過ぎると病むから、ストイックもほどほどに」と言っている人で、望む人生を歩めている人に会ったことがありません。自己実現してる人は人生のどの段階かで集中的に大きな努力をしているし、もがき苦しみ、修羅場をくぐってきている。我々それぞれには一定のストレス許容量がありますから、ストイック過ぎると病むのは確かにそうですが、だからホドホドに、と言ってしまう人は、本当にストイックに努力した経験はないでしょう。「人生お金が全てではない」などとお金持ちは決して言わない、それはお金持ちはお金の限界や怖さが分かっているのだからそんな当たり前なこと口にしない、、じゃあ誰がこれを言うのか、逆に喉から手が出るほどお金欲しい欲しいな人間が嫉妬混じりにそう言っている、という言説がありますが、なんかそういう理屈と同じだと思いました。

まぁぼくもまだまだ浅いので、これからも精進していきたいと思いまーす。

ではでは今日はここまでで、また次回お会いしましょう。

 

やじろべえ

 

============================

質問やコメントがあるとたいへんテンションが上がり、筆がサラサラすすみます、はい。

気軽にコメントしてください。

ご意見「いやいや、そのシチュエーションではこうでしょ」とか要望「ここんとこ、いまいちよくわかんないっすよ」とかあればコチラまで。

ツイッターでからでも、このはてブに直接でも、なんやかんやコメントしてもらえれば、一人でニヤケてますので。さらに、フィードバック出来るほど興味深いものは、テーマとして扱えます。

引用や転載も大歓迎です。その際は出所はしっかり明記してもらえると大変喜びます。


=================================