モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

モテるには、なぜ人間的成長が不可欠なのか。

こんにちは、めずらしく早めの投稿です。 (結局、そうならず・・)

読者の方から、うれしいメッセージが来ましたので、まずそのことから。。

 

「諦めずに頑張って一年ほどかけて狙っていた女性と付き合うことができました。仕事もハードですが、両立して頑張っていきたいです。

通勤中や仕事の合間にブログを何度も読み返しております。更新期間はゆっくりでいいので、今後もクオリティの高い記事を待ってます!」

 

この方には質問も頂いていたようで、ブログ以外にもPeingで質問のやりとりもしていたみたいですが、このように努力が実を結んで良かったです。わたしもうれしいですよ。

そして、この方の述べている後半部分がすごく大事(笑)。

まさにそのとおりで、わたしは常に、即効性は無いですがやれば必ず自分が変わっていくような内容を文章にしていますから、こうやってコツコツやってくれれば、何かが生まれてくるんですね。

読みたい記事、読むとモチベーションが高まり、意識を改革してくれるようなものを作ることが私の役目で、実行するのは読者さんの役目です。

頑張っていきましょう。この方はまだスタートしたばかりで、これからが楽しみです。

では、お勉強いきましょうー。

 

 

山口県の阿武町で、コロナ関連の給付金を誤って4630万円を一世帯に振り込んでしまった問題で、この金額を口座に振り込まれた田口翔容疑者の捜査が進んでいます。(当時はそうだったんですけど、今やもうはるか過去の話・・)

当時わたしが感じたことですが、これらの事件にはいくつもの驚きが用意されていました。事件発覚当初、容疑者がお金を返金しないと言い張ったのもそうですが、お金を使った先がネットカジノというのもさらにびっくりでした。さらにその背景として、町側の対応に不満を抱き、「打撃を与えてやろう」を思いお金を使い込んだ、というのですからこれまた理解不能です。逆恨みから行為に走り、結果として二重にも三重にも自分の首をしめることになっています。結局のところ、何がしたいのか、、ぼくには一生理解できないでしょう。

最初は、借金があってそのために使ったとか、何か一獲千金を狙ってカジノに使ったのかと思っていましたが、逆恨みとは。。あるいはネットカジノ依存症だったのでは?という声もありました。

 

こういう事件をみると、成功する人間と決して成功できない人間の違いがよくわかるのではないでしょうか。

世間はこのワイドショーを見たときに勧善懲悪メンタリティが瞬時に発動してテレビに向かってガ-ガ-言っているでしょうが、ぼくの頭はこの田口翔という人間を分析し始めました。彼にはお金を使って生活苦を脱しようとか、なんとかギャンブルで当ててやろうとか、これを何かに投資して、、とか、そのような計画性はありませんでした。そこにあったのは、「町の対応にカチンときたから腹いせに金を使い込んでやった」という一過性の、逆恨みの感情に振り回された行動、それだけです。

 

こういう人間が成功できるのか? という話です。

これは、こういう人間がモテるのか、女性を幸せにできるのか、という重要な問いにも直結しますね。

こういう男の周りにいる人間は、不幸を被ってしまうでしょう。今回は意図せずに関わってしまった阿武町の町長をはじめとした町の職員が飛んできた火の粉を被ってしまいました。職員のご送金という重大ミスではあるが小さなマッチ棒の火が、あっという間にが山火事になって関係者へはね返ってきてしまったのです。

ぼくも、こういう男とは一切関わりたくないと、強く願いますね。

こういう男は絶えず厄介を運んでくるし、決してモテることはないでしょう。

田口容疑者の顔写真が出回っていますが、学生時代と、社会人になってからのイケイケの写真です。報道としては「カジノで金使いこんでそうな男」「は?返さねえよ」と言いそうな男、そういう写真のほうが勧善懲悪ストーリーが引き立ちニュースバリューはあるでしょうが、百歩譲って彼が本当にイケイケな男で、イケイケなライフを送っていたとしても、それでも「モテない」ということが断言できます。

モテというのは男は見た目ではなく中身、イケイケ度合いではなく人間性なのです。今回のニュースはそれを可視化したよい教材なのですよ。

 

さて、こういうタイプの人のことはわからない、と言いましたが、わかるはずもありません。世の中には私たちにとって(我々は正常です、という前提ですが汗)理解をするのが難しい人々がたくさんいて、それには生物学的要因があります。なぜ感情のままにああゆうことやってしまうのか、なぜ結果を考えてブレーキをかけることができないのか、煽り運転対策をしてもなかなか減らないのか、そんな我々にとって当たり前な疑問は、人の脳に注目すればほとんどすべて説明できます。

 

    

 

これらは遺伝とか、知能とか、格差とか、人種とか、犯罪とか、タブーなことに切り込んでいる書籍ですが、科学の知見もセットで提示してくれているのである程度正確に人間というものを理解できる本です。

指紋のように、脳も人それぞれで、しかもなんらかの原因で脳の部位が傷ついてしまったり、遺伝的に不具合があったりすると、一般的に普通と考えられている状態から大きく逸脱して我々からは理解不能な行動というものを、人は取ってしまうようです。

 

ホリエモンも興味深いことを言っていました。

【境界性知能】知能が低いから文字は読めても本質を読めない人がたくさんいる - YouTube

彼が言っているように、なぜか話がかみ合わない、なぜか今言いってる話題が理解できない、世の中にはそういう不思議な人がぼくらが思っているよりものすごくたくさんいるんですが、それらはすべて脳に起因していたのです。

芸能人などもそうですが、麻薬常習犯のニュースを見て、なぜ止められないのか、あんなものの何がいいのか、こういう結末になるのはわかってたんじゃないか、と普通は思うのですが、そういう次元の話ではない、すべて脳内の中毒症状であり脳の構造や回路が変性してしまった結果だということであり、

誤送金使い込んだ男も、例に挙げた書籍も、ホリエモンの話も、麻薬常習者のニュースも、全部同じ背景を持っているわけなのです。

(話を一足飛びに結び付けて、田口容疑者が麻薬などの常習犯だったのか、という誤解は勘弁してくださいよ)

 

我々が抱く、人間に対する「理解不能」は脳に絡んだ問題であり、それは成功と不成功をシビアに分ける大問題であるという話でした。

 

我々の行動や、ひいてはその結果である成功不成功というものを脳が左右するのであれば、なんらかの方法で脳へアプローチするということが重要なポイントということになりませんか? 書籍紹介のYouTubeなどでいろいろと紹介されてるものも、そういうことを言ってますよね。本質的な脳機能向上、これが人間的成長にもなります。少し遠回りかもしれませんが、これが土台の固い成功の近道ということになるのです。

しかしながら、これはライフハックとしての脳の使い方みたいなポップな話ではなく、より人間性や人間の成長に寄せた話です。そして手堅く自分の人生を充実させるには「人間的成長」なんだ、とわたしは言いたいのです。

 

脳科学の専門家は、脳に関してその謎を解明するべく隅々まで脳内を研究しているわけですが(もちろん、未だに数多の謎に包まれていますが)、過去から現在に至る脳科学の研究群が指し示している結論として、人間的善が幸福と強い関係があることを述べています。

 

 

テレビで引っ張りだこな中野先生の著書ですが、彼女がエピローグの中で「幸福観のとらえ直しを試みた」と述べているように、脳の機能やその作用は、幸福に直結します。それは我々の感覚や感情や物事の見方を司っているのが脳だからですね。ここがすべて、と言ってもいい。だから、中野先生は幸福「観」と述べた、幸福「感」ではありません。どう生きてゆけば幸福により肉薄できるのか、脳科学の分野を基に提言しわたしたちの幸福に対する観点を一新すべく本書を書いたのですね。

タイトルに「祈り」と付けられているのも興味深い。マインドフルネスが流行しているとはいえ、なんだか怪しげなワードをタイトルにぶっこんでいるあたり、中野先生の思いが伝わります。

彼女が伝えたかった幸福”観”に対するその思い。

2つ挙げられていましたが、それが「利他行動」と「逆境」です。

二つとも現代人に嫌われそうなキーワードです。

なにせ我々は、利他に生きる余裕はないし、逆境は経験したくない。できれば自分と自分に近しい人々が楽しく生きてくれればいい。それが、現実的で達成可能なせめてもの目標になり得るんじゃないか、と考えます。

そして現代社会はそれがますます先鋭化しているのではないでしょうか。より複雑になり予測不能な出来事が頻発していることはニュースを見ればわかりますが、いよいよその余波が身近にまで迫ってきていることがわかる、そんな時代ですが、そうすると利他とか逆境とかをポジティブにとらえる人はほとんどいないのではないか、という気がします。

こうなると、「わたしは利他に生きたい」とか「逆境が好きだ」などとは口が裂けても言えない。一発で変な奴です。こういうことは、そっと胸にしまっておきたいものだ、そう感じます。現代社会はそういう方向へ走っている、もうシステムごと真逆に走っているんですね。

そういう状況ですから、中野先生が丹精込めて幸福観のパラダイムシフトを試みても、人々は半信半疑でしょう。頭のいい人ほど、これは出版社のマーケティングだとか、偉い学者さんの売名か、と感じる。オレは科学的だという人ほど、脳科学のこれらの知見をえり好みしてガン無視する。素直なわたしたちも、「だからと言って具体的にどうすればいいのか」というところがわからない。利他って・・?と感じるのが、正直なところです。

 

さて、中野先生が伝えているとおり、人間的成長に「利他」が含まれているのは間違いないでしょう。

突き詰めていけば、自分だけで楽しく幸福に生きれるわけではないことはすぐにわかります。我々は社会のなんらかと常に関わり合わなければならない。もしひとりで楽しく生きていけるのであれば、「引きこもり」というのは問題にならないはずです。ひとりで在宅で働き、ひとりで好きな趣味に興じ、買い物はネット、これで完結して、ひたすら自分のために生きることができる。しかし、それではうまくいかないのです。ニュースになる無敵の人が起こすような無差別殺人や恨み殺人は、彼らの幸せもひとりでは完結しない、ということ意味しているのではないでしょうか。銃を作って、付け回して、犯行に及ぶ、これほどの憎悪のエネルギーを生み出すのです。彼らが他者と関わるときは、犯罪を犯すとき、というどうしようもない状況です。ですから、これは「社会とかかわらなければお金を稼げないし、食っていけないからだろ」という、そういう表面的な問題ではない。

さらに、「自分だけ」のために生きている人とは僕たちはなかなか仲良くなれません。そういうパラダイムで生きている人は、行動原理や思想の中核に「自分のため」という条件が付いてくるので、究極的にはテイカーです。テイカーとギバーというところで言うと、勉強熱心なみなさんはアダム・グラントさんからすでに読み取っていると思いますが、健全なギバーとは要はバランスであり、そして実力です。ギバーは利他の範囲もスケールが広く、そして他者のニーズに対しても理解が深い、そういう人間です。そして、彼らは成功する、というのがアダム・グラントの結論ですが、僕はこういう生き方には幸せすらついてくると思っています。ギバーは「自分だけ」「俺が俺が」という感覚はありません、そういう価値「観」や幸福「観」であるはずがないのです。

わたしたちが目指しているのはこのレベルだということを心に刻みたいものです。

 

このようなギバーとテイカーそれぞれの脳内を観察したら、かなり異なる構造をしているでしょう。

それぞれが持つ価値観や無自覚にやっている行動に、ギバー、テイカー、それぞれの特徴が十全に表れるというのは、それらを司る脳の構造がギバー的あるいはテイカー的だということになります。どの部位が活発に活動しているか(逆に言えばほぼ反応しないか)、血流の増減や、神経伝達物質の過多、脳部位の萎縮などなど総合して、ぼくやあなたのギバー度合いが決まるでしょう。それらを省みてもし自分がテイカーであるとハタと気づいたなら・・、脳にアプローチしないといけないわけですね。

さて、依存症のような程度にまで脳が変性しているならかなり特別な治療プログラムが必要でしょうが、テイカーやマッチャーから→ギバーへ価値観を転換するには習慣を変えることで少しづつ脳へのアプローチしつつ、脳を変えていくことができるでしょう。

我々の目標は、ギバー的脳になって、いろいろな意味で成功することです。モテる意味でも、ですね。

 

では、書籍にある「祈り」は、どういう位置づけなのでしょうか?

脳科学者が祈りに言及している背景には、座禅や瞑想が心身に与える影響について注目が集まったことに端を発していて、脳科学者が脳内を研究し始めたことで”科学的に”それらが解明されてきたというのがあります。瞑想と脳科学が共同し始めたのが2000年代のことです。それ以前にも禅や瞑想の効果に注目した学者や実業家はいたのですが(スティーブ・ジョブズなどもこれ)、今や脳科学と一体となって、瞑想の効果が次々と実証されてきました。今ではマインドフルネスとしてシリコンバレーのテクノロジーオタクたちにも取り入れられています。

頭を空にしたり、特定の出来事に集中したり、自己を超越した大なる何かに思いを馳せたり、ポジティブを増大させネガティブから遠ざかるような気持ちの転換は、脳に非常にプラスの効果を与える、そしてこれらはすべて脳が作り出すことのできる活動なのです。

中野先生の本を読むと、祈りをそのような活動ととらえているのがわかります。日常生活の喧騒から距離をおき、自分を見つめ直し、将来の展望をプラスに捉え、他者をポジティブに解釈する、そんな脳内活動なんだ、と。

こういうことをやった結果、何が起こるのでしょうか?

中野先生によると、それによりベータ・エンドルフィン、オキシトシンなどの神経伝達物質で脳内が満たされ、とても幸せな気持ちになると言います。ちなみにこのオキシトシンは母親が愛しい我が子を思う時に分泌される物質で愛情ホルモンと呼ばれるようですが、自分のためではなく他の誰かのために祈るとき、脳内がこれらの幸せホルモンで十分に満たされ、それがそのままフィードバックとして脳を変化させるようです。脳内活動に他者を紐づけ愛や感謝や他者の幸せを思い描くとき、なんと自分が報われるようなポジティブフィードバックがある、これが脳内研究で明らかになったことで、脳科学者のあいだではコンセンサスです。

さらに、「人間が未来をいきいきと思い描くとき、海馬の活動が活発になる」ということが最近の研究でわかったと書かれていました。海馬は、使わなければ委縮してしまうようですが、それも防ぐことができる。瞑想によって海馬が構造的に変化して回復もする。いきいきと(ポジティブに)思い描くという脳内活動は、やはり脳にアプローチして大きな効果を得る手段なんですね。

さらにもう一つ、祈りに免疫力強化の作用があることもわかりました。医学的にはプラセボ効果がすでに有名ですが、脳内でいうなればオキシトシンが免疫を高める効果が見られるとのことです。

祈りとは、高度な想像力の行使で脳内メンテナンスの方法、ひいては自己変革の大きな部分を担っていることが言えるでしょう。そして、脳内の分泌や活発化により増幅装置として機能することが分かります。ポジティブなことはより大きな幸福へ増幅し、ネガティブなことはよりネガティブにー他者を攻撃したり、鬱になったり、それこそアンプやスピーカーのように増幅しーSNSのようにとめどもなく脳内で拡散するわけです。

良いものはもっと良く、悪いものはもっと悪くなってしまう、増幅装置 = 脳。

そしてこの増幅は、他者を介在してもやはり増幅されます。

そのことを、中野先生は「自己を拡大すれば「利他」も「利己」になる」と非常に上手い表現をされていましたが、ここに祈りによる利他の意味が凝縮されています。

それを科学的に説明すれば、ミラーニューロンという神経細胞がその働きを担っているわけですが、まるで鏡のように目の前で起こっている他者の行動を自分事に感じることができると言います。誰かを助けたいと真剣に願って利他行動したとき、脳内ミラーニューロンが活発に発火し、脳内で自他が一体化して自らの喜びとして感じられ、逆もまた然りで、他者の痛みにより自分も痛いと感じる、というわけです。現実には、他者の幸せは疎ましいと感じてしまいそうですが、、、だって人間だもの(汗)、という気がしないでもないですが、これは我々が脳の使い方の問題においてその境地に達してないからでしょうか。ミラーニューロンがどんよりして動いていない、それが発火しないと、他人の幸せが憎く、他人の不幸が蜜の味になるのかなああ。脳を正しくメンテナンスしていきましょう。

いづれにしても、この自己と他者の区別があいまいになるこの脳機能を、人間力が高い人は非常にうまく使っていそうですね。

 

さて、そろそろ結論が見えてきましたが、結局「利他行動」や「(今日は取り上げませんでしたが)逆境」を土台とする人間力は、善く生きるスキルとして必要ですし、人間関係にも非常に高いレベルで私たちを助けてくれることがわかってきました。モテるにはなぜ人間的成長が不可欠なのか、もう明白なのではないでしょうか。

女にモテたくて下から顔色を窺ったり、相手が喜ぶために過剰なサービスをして尽くすということの、どこが一体間違っているのか。

それは、突き詰めていくとその動機が「利己的」だからです。それだとまったく上手くいかない。中野先生は ”利他でスタートするとき、回り回ってそれが利己になる” と言っているのですから。ギバーでないといけない、隠れギバーだとそういうものはワークしないんですね。

 

わたしたちが目の前の対象のためにがんばる、それ自体は立派でとても美しいことですが、それはいったい何のためなのか、いったい誰得なのか、そういう深い部分が関係しています。そうでなければ、「自分がリターンを得るために、うまい儲け話をして相手に期待させ、相手をその気にさせる」のと、いったい何が違うのでしょうか。「結局それって、お前のためじゃん」となる。

そうであってはいけないのです。

今日のテーマというのは、「モテるには、なぜ人間的成長が不可欠なのか?」という問いかけでしたが、他者のためにがんばる、世のため人のために貢献するという本質的な価値観を要する問いだったのですね。そこが不在なら、最終的に太い自分、強い男は形成できないできないでしょう。単なるメッキであり、常に安定しない、非常に価値が低い何がしか、でしかない。

 

「女に自然体で声をかけるために、話題をナチュラルに発展させるために、あらゆる人や物に興味・関心、好奇心を持て」というようなことを別な記事で述べたことがありました。確か、ナンパは是か非かみたいな内容の記事で語ったことだと思いますが、そこで言いたかったのは、えり好みして若い女ばっかりにいってんじゃねえ、おじいちゃんかおばあちゃんか、幼い子供かゴツイ兄ちゃんかは関係ない、みんなに優しくあるべきなんだということでした。それが、ありのままの人間力の投影なんだ、という思いがあったからです。そしてこれは、ブスにも優しくしなさい、あからさまに顔に出してはいけませんよ、ということも含まれています。

つまり、

利他の対象を広げよ、

広い利己になるには、それが唯一の方法なのだから、

と言っていたのです。

 

利他を広げると、自己も広く(大きい器に)なれる、という脳を絡めたお話でした。

 

やじろべえ。

 

質問コーナーはお休みです。。。

 

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