今回のコメントは、
愚痴らず素直に生きよう、そして向上心を忘れずに。 - モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。
の記事に対して寄せられたものです。
しかも今回は「ありがとうございます、よく理解できましたー」「文章巧いですね~」「目が醒めました!」などなど、ほめたたえるコメントではなくて、
異論
がやってきました。
今回はそれをたたき台に議論しながら、今後の歩むべき方向性を示したいと思います。
2019年も2月とまだまだ始まったばかりですので、もし年始の抱負を忘れつつあったり、頑張ってるんだけどうっかりわき道に逸れつつあったのなら、修正してほしいと思います。
異論、
大歓迎ですのでどんどん送ってきてください。
できるだけブログで取り上げます。
ではコメントの主張としての骨子を、こんな感じとして紹介したいと思います。
詳しく見たい方は上のリンクから記事に飛んで、下までスクロールすればコメントも見れますので、確認してください。
以下、
「マイルドヤンキーの記事についてですが、その分析が愚痴論に絞られてそっちに引っ張られ過ぎている気がします。
マイルドヤンキー=愚痴、はその条件の1つではあると思いますが、それだけではないと思います。むしろ、愚痴をこぼさずはつらつとしたマイルドヤンキーもたくさんいます。
なぜなら、マイルドヤンキーとは地方の保守層であり、自民党が支配する日本社会の中で彼らは政治的に有利な立場でもあり、莫大な利益を得ている人も多くいます。
これが意味するのは、彼らは狭いコミュニティの中で成功者として扱われている可能性が高いということです。
もちろんグローバルな観点から見た成功者とはかけ離れているかもしれませんが、それでも成功者であることは事実で、それは自民党のような政党でも日本国内でいえば成功者としてコントロールしているのと同じ理屈です。
間違いなく、エリートでもないし、知的にも、人間的にも、視点の高さに関してもゴミのような人間の集まりである可能性は高いです。しかし、現実を見るに彼らこそ、自民党の支配する日本社会では、勝ち組ではないかと思うのですが、
どうでしょうか?」
ーぴろしんさん。
送ってくれたぴろしんさん、ありがとうな!
とても熱量のあるコメントでしたー。ある一つの主張と自分の観察と照らして、そのクリティカルに検証した結果を、きちんと文章にしていくれて本当にありがたい。
この主張を一言で表現すると、今回のテーマである、
「マイルドヤンキーは、日本では成功者ではないのですか?」
ということになるでしょう。
日本という村社会のルールはマイルドヤンキーを生みやすいわけですが、そういう村の理論を採用している日本で生きるなら、マイルドヤンキーという生き方はある意味生きやすいでしょう、世間でいうところの成功も、そのルール上では獲得しやすいはずです。
「マイルドヤンキーは成功者なのか?」
少なくともぴろしんさんは「愚痴をこぼさずはつらつと」「地方では政治的に有利な立場」「莫大な利益を得ている」「コミュニティをコントロールできるし、その中では成功者として扱われているだろう」という種々の理由で、
「勝ち組だ」
と判断しているのですね。
一方で、ぼくの意見はやっぱり、「しょうもねえな」という一言に尽きます。
同じマイルドヤンキーと接して、幾ばくか交流して、観察して、なぜこのような意見の相違が生じるのか?
ぼくとぴろしんさんの見ているマイルドヤンキーはもしや、別物なのか??
……もちろん、
そんなはずはないでしょう。
日本ではマイルドヤンキーがかなり幅を利かせている現状を考えると、
世の中で生きている人は、ほとんどがマイルドヤンキー、
だから家を飛び出せばすぐにマイルドヤンキーの出くわすはずで、おそらく高確率でぼくとぴろしんさんは同じマイルドヤンキーという生き物を観察したはずなのです。
では、どうして評価が分かれるのか?
というと答えはとても単純で、見る人間(誰がそのマイルドヤンキーを見るか)が違うからで、見る人間(ぴろしんさん、ぼくのそれぞれの)の価値観が違うからですね。
これはマジで至極単純な話で、港区のCAを見て、ルックスとかスタイルとかに価値を置く男、或いはそれに加えてワンナイトロマンスできればそれで良し!長期の関係はいらね、と思っている男たちにとって彼女たちは宝石のような存在ですが、
高飛車な女が大嫌い、拝金主義の女が大嫌い、年収で男を判断する女が大嫌い、という価値の尺度を持つ男なら、この同じ港区CAにフラッと出くわしたとき、一瞬でスルーするはずで、なぜならこういう視点を持つ男からはゴミにしか見えないからです。
(港区に住むCAさんがみなそうだとは言っていませんので、、、あくまでもたとえ話です。)
何に価値を置いているかで、対象物への評価はガラッと変わる。
同じものを見てもまったく評価が変わってくる、これがぴろしんさんとぼくのマイルドヤンキー評価の違いです。
そして余談ですが、
観察する人間、判断する主体が違うのだから、INPUTは同じでもOUTPUTは当然異なる、そのINPUTとOUTPUTをつなぐ「あなた自身」というある種のBLACK BOX が決定的なカギになりますね。そしてそのBLACK BOXから跳ね返ってくるf(X)の関数回答は「人それぞれ」なのです。
そして、それぞれのその主体を主体として「あなたをあなたとして」特徴づけるのが、ほかでもない各人のマインドセット。
そして「マインドが重要だよ」といつも言っているのも、それを関数と表現したことからわかる通り、当然、下したその評価に基づいて人は行動を決めその結果が跳ね返ってくるわけで、その積み重ねとして、今の人生があるわけです。
この点で、そういう行動の総体としての人生は、出発点は物事をどんな観点で見るか?に端を発しており、マインドセットが決定的に重要、そこはどうしても譲れない。
さて、マインドセットへの信仰を熱く語ったところで、本題に戻すと、
マイルドヤンキーを是とするか、非とするか、
彼らを、ぴろしんさんのように勝ち組で、成功者とみるか、
ぼくのように一瞬たりとも関わりたくない大衆と見るかは、
繰り返しになりますが
「何に価値を置いているか」
に深く依存しています。
成功者と言っているけど、何をもって成功と定義しているのか?
勝ち組と言っているけど、マイルドヤンキーは一体何に勝利したのか?
勝敗はどういうルールで決まるのか?
だれがそのルールを決めたんだ?
ここが、ぴろしんさんとぼくとではまったく意を異にするところなわけですね。
ぼくは、マイルドヤンキーという生き方が悪いとは思いません。
自分の生まれたところに愛着を持ち、幼いころに出会った人々を大切にしてその人々と関係を維持していきながら、楽しく生きる。
さらには、コメントにあったように、「地方では保守的な団体に属して利益を得る」ことも可能だから、「利益」という点で見るとそういう利権を手中にしている人たちはある程度何不自由ない生き方も可能になるでしょう。
どういう生き方を選ぶか、この点、それは読んで字のごとくまったくの生き方の話であり、好みであり、それこそ価値観も人それぞれでいいわけなのですが、
それでもなお、なぜぼくが「しょうもな」と思うかを説明しなければなりませんね。
作家の橘玲氏は著書「幸福の資本論」の中で、地元の友人とのつながりを「社会資本」と位置づけ、一つの資本であると論じています。
橘玲さんは、フワッとした道徳論や世間の常識が嫌いで、数字などの客観的な指標で物事を評価しようという考えの持ち主です。(少なくともぼくはそういう印象を受けています)
ですからその彼が地元の友達を→「資本」と定義づけたのもとても意味があることです。
社会資本のメリットとは何か、それはつながりを活用することで現状の景気低迷で人々が感じる「生活が苦しい」という状況を緩和できることを分析したのです。
地方では高い賃金というのは望めませんが、「別にそんなに贅沢する必要もないし、気心知れた友人とデパートのフードコートでお茶したり、バーベキューセットをレンタルして近所の公園でバーベキューして楽しむことができればOK。バーベキューの肉は肉屋で働いているあいつに安くで仕入れてもらって後でみんなで割り勘ね(安上り)」、と、そのつながりを最大限活かして楽しく生きることができる、というわけです。
「あー生活が苦しい」という感覚は、もちろん収入と支出のバランスがひっ迫している現実から来るわけですが、地元の友人とのつながりでそのコネクションを使ってコストを安く抑えつつ楽しく遊ぶことができる、だから地元の友人といて楽しいと言う気持ちの問題だけでなく、収入の面で決して裕福でなくても、家庭の収支バランスにおいてある程度の余裕をもって生活を楽しむことができるのです。
そういう経済的な金銭的な数字でわかるメリットがある、
社会的なつながりを基盤とすればそれがそれが「資本」になりえるんだ、と論じています。
人間は元来生き物として他者とのつながりを求めますから、
つながりも作ることができて、同時につながることで形成されたコミュニティ(ひとつの社会)が資本としても機能する、そういう生き方を多くの人がするのも頷けるところです。
さてさて、いよいよ本題で、そしてぼくが強調したい部分でもありますが、こういうマイルドヤンキーなコミュニティに属している「マイナス面」は、いったい何でしょうか?
………
………
………
それは、
社会資本の中では
「異論が許されない」
という部分です。
これが強烈に効いている部分です。
良くも悪くも、です。
異論が許されないからこそ、その社会(コミュニティ)が資本として最大化される。
が、だからこそマイナス面も最大化されます。
ガッチリとしたコミュニティの一体感と引き換えに、その中では異論を許容するスペースは皆無なのです。
社会資本を形成しそれを最大限に活用するためにはバラバラになっては決していけません、みんなで一つになり同じ方向に進まなければいけない。
橘サン的に言えば、彼らには「金融資本」「人的資本」が無いのだからこの社会資本(つながり)を最大化することこそが生命線で、そのコミュニティ資本の最大化の裏で個々の自由は当然制限される、
良くも悪くもの、「悪い」部分です。
コミュニティに入れてあげるから、あんたの自由は無しね。それでもコミュニティから利益が得られるんだからいいでしょ。
という構造です。
ここから放り出されたなら命と同等の貴重な社会資本を総て喪失してしまい、もともと金融資本、人的資本もないのだから、何もない状態になってしまう。
「幸福の資本論」では、そういう状態は「最貧困」とされています。
これは大変。
唯一の資本を失ったなら、明日から生きていけないのです。
だから異論があっても、違和感があっても、不満があっても、けっしてそれを口に出してはいけないという不文律が、暗黙の了解としてそのコミュニティを支配することになるのです。
そういうトレードオフが受け入れられるのか?、というところがマインドセットであり、生き方に直結する部分ですね。
この社会資本を獲り、個人の自由を棄てるトレードオフを受け入れることのできる人とできない人、「人それぞれ」の人生がこの世の中には存在しているのです。
ぴろしんさんもとっくにわかっているとおり、ぼくは「受け入れられない人」です。
ぼくは、社会資本より「人的資本」のほうがはるかに大事だと思っているからです。
社会資本を獲り、個人の自由を棄てるのがマイルドヤンキーの生き方だと言いましたが、彼らがせっせとドブに捨てているその自由こそほかでもない「人的資本」の源泉であるとぼくは信じているんですね。
一つのコミュニティに縛られるよりはいろいろと自由に移動して好奇心や向学心を満たしつつ、移動する先々で関わる人に貢献できて、このように自己実現に近づける、なんていい人生なんだと思える人間です。
だから、そんなふうに自由に移動して学んだことを実践してこそ人的資本が徐々に育まれれるのに、社会資本のつながりがくれるわずかばかりのベネフィットと引き換えにその大きな自由を放棄し特定の場所に縛られるなんて、なんて大きな代償なんだと、 本当にそう思う。
ぼくみたいな社会不適合者は(自由を獲る代わりにローカルな社会的つながりは持てないトレードオフ)なかなか日本村では居場所が無いのですが、もろもろのテクノロジーや時代の発展とともに、そんな不適合なぼくでもやり方次第では自己実現できる、テクノロジーや時代の制度を活用すれば日本村を飛び出し自由に生きながら人的資本をどんどん蓄積できる、そんな時代になりました。
そんな時代に生まれついたのは本当に恵まれたことだなーと、とてもとても感謝しています。
ぼくは「おれって社会資本はぜんぜんねーなー」と感じながらもあえてそれを選びました、それは社会資本を維持しながら自由無き生活に我慢して不満を抑えて生きていくことができなかったからです。
不満タラタラで生きるよりは、いっきにそれを断ち切ってしまったのです。
人が「不満がある」ということは一体どういうことか?
これも字のごとくですが「満足していない」という状態にあります。彼らの心、いや頭をカチ割って覗いてみると、マイルドヤンキー的生き方を志向していないのに、環境はマイルドヤンキーとして生きていくことを強要してくる、そこにすさまじい認知不協和が発生するのです。
これを解消するのに、
1.不満タラタラでガス抜きするか、
2.もはやそのコミュニティに同化して気にしなくなる、
いずれかの道をとるでしょう。
彼らのマイルドヤンキーとしての環境や生き方は、自身のその本性とまったく合っていない、なのに「他に道もないしな…」とズレた生き方を不本意ながら毎日営んでいく、どんどんストレスにまみれていく、だからまた息を吐くように不満が出てくる。
これが不満の正体です。
人は満足していたら、当たり前ですが不満は出てきません。
この「満足」という状態をどう定義するかも難しいのですが、とりあえずそれは置いておいて、
不満を言わない人 ーつまり愚痴らない人ー は、得てして「人的資本」が確固としている人ではないでしょうか。
人間的に魅力のある人は、愚痴などこぼしませんよね。
それは人間性をうんぬんするまでもなく、「そんな場所にいたらそりゃ誰でも不満も出るでしょうよ」という単純な話だとぼくは思います。
つねに不満がある場所にいる、不満を心に宿すというのは、人的資本形成に支障をきたすのです。
それでいて不満はいつまでも解消されません。
社会資本はこの不満という状態を解消してくれないのです。
不満→満足への移行プロセスというのは、社会的つながりを持つだけではまったく不十分で、
個人の自由
「自分で自分の人生をコントロールしている」
という実感がどうしても必要です。
自分こそが自分の主人なのですから、そうやって主体的に生きていく、「自分の」「自分による」「自分のための」インプットして己を養ってこそ、確固たる人的資本となることができます。
そして経済的な話に限ってもみても自分自身が金を稼げる存在になり、まさに人的「資本」なのです。
マイルドヤンキーに人的資本が形成されにくいのは、そのための自由も、主体性も無く、社会資本維持のためにメンバーの顔色を伺って生きなくてはいけないからで、不可欠なはずのもろもろの要素がごっそり抜け落ちているからです。
社会資本が十分なマイルドヤンキーは、人的資本がないようだと、幸福の資本論では分析されていましたが、正確には、人的資本がないという「結果」ではなく、
「社会資本を形成したがゆえに、人的資本は絶対に作られない」
という「原理」なのです。
人的資本どころが人生そのものに必須である要素をみすみすドブに捨てながら、これまで同調圧力に対する認知不協和を解消して生きてきたとしたら、「それ(社会資本)以外の道はないな」と守りに入ってしまうのも無理はありません。
が、現実はそうではありません、ということは時代に感謝したあの下りでお伝えしたことですね。
現代というのはすべての人に開かれた道がすぐそこにあるのです。なのに、、、という話の流れになるのです。
選択が可能な世界にあって、狭い箱の中にとどまり続けるのはなぜなのか?、ぼくにはまったく理解できません。あえて地元にとどまるなんて、どんな未来を描けばそれが最適解として決定されるのか?、とてもとても大きな謎なのです。
こんな恵まれた時代にマイルドヤンキーの集団にガチガチに固定されているというのは時代錯誤も甚だしく、もはや「脱藩は打ち首だからな」というローカルに縛られたあの時代、坂本龍馬の時代であり、ああいう感覚で未だに暮らしているようなものでしょう。
可能なのにあえてそれをしない、それでいて「あー苦しい苦しい」と不満がでてくる。
「?」
というのが率直な、素朴な感想なのです。
だからぼくはどう転んでもこの生き方を受け入れられなかった。
こういうふうに見てもらうと、「受け入れられない人」であるやじろべえの成功のイメージとは、「地元のコミュニティで序列トップをとることでも」「保守層としてそれをコントロールすることでも」「政治闘争に勝利してそこから莫大な利益を吸い取ること」でもなく、まったくその逆だとわかってもらえるのではないでしょうか。
それはぴろしんさんが言うところの
「エリートでもなく(あなたが何を指してエリートと言っているのかぼくにはわかりませんが)、知的にも、人間的にも、視点の高さ的にもゴミ」
そういう人々と一線を画し、まさにそういう面でこそ充実した人間なること、と理解してもらって構いません。
だからぼくは地元の保守層がどんなに権力を持っていても、そこから甘い汁を吸っていてる様子を見ても、まったく興味はないのです。羨ましいと感じるどころかむしろかわいそうに見えてしまう。
これは僻みでも嫉妬でもなく、本心でそう言っています。
そういう生き物に美しさや、人間的魅力、生き物としての輝きをみじんも感じないからです。
みじんも感じない一方で、それに魅力を感じてしまう人の気持ちがわからないわけではありません。
なぜなら、
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
の一言がものすごく日本社会や日本人の心模様を表していると思うとともに、ここに、成功の法則が隠れていると思うのです。
「空気の研究」などで山本七平が論じているように、日本人とは昔から個性より全体性を重視する気質があります。昔も今もそうで、これこそが日本的社会の発展モデルなのです。
日本の歴史をひも解くとどれもこれも良くも悪くも空気を軸に発展してきたことがわかります。そして日本人というのはそういう気質が遺伝子レベルで刻み込まれています。
これが日本発展モデルであり、原風景なのですから、日本社会というのはマイルドヤンキー的なる人々が圧倒的マジョリティになりますね。
さらに、数多存在するマイルドヤンキーコミュニティの内部でも、当然ながら序列があるはずでしょう。そんな色濃いコミュニティの中で、構成員みんなが平等であるはずもないのだから。
ー それは平等を唱えた共産コミンテルンの内実が権力闘争で満ちていたのと同じ理屈です。(異論は許さない、としてすさまじいリンチが横行していたのは歴史の事実です)ー
そういう暗黙の序列が成立すると、
上の人々は当然オイシイ。
下の人々はそうではありません。
だから、ぴろしんさんがマイルドヤンキーを観察していると、至る所で彼らが幅を利かせているように感じるのはもっともなことなのです。
①彼らはマジョリティであり、その生き方は日本の構造にとてもフィットしているのであり、②その数多あるコミュニティの上位にいる者たちは相当にオイシイ思いをしているはずなので、
あなたが目にした地方のマイルドヤンキーはオイシイ生き方をしているように見えるはずです。
一方、脱マイルドヤンキーはぼくがブログでずーーっと提唱している自己実現を形にできる未来のある生き方なのですが、残念なことに中途半端に「脱」をやってしまうととても苦しい生き方になります。なぜならマイノリティで、日本社会にフィットせず、実利も本人の満足や充実も中途半端だと、もちろん結果は出ないのに生きるエネルギーはどんどん削り取られてしまう。
いい生き方をするために脱マイルドヤンキーを選んだはずなのに、生きるエネルギーが枯渇する苦しい生き方。
非常にコスパが悪い生き方になり果ててしまうのです。
「中途半端」というのは分野を問わず、いいところが何一つありません。
中途半端に「脱」を目指すのなら、甘んじてマイルドヤンキーとなり、そのぬるま湯にのんびりと浸かりながら、虎視眈々とその上位を狙う方がいいのかも知れない。
脱マイルドヤンキーを果たすには、実はとてもとても大きな壁が立ちはだかっているのです。
だから、ほとんどの人はまず自分がマイルドヤンキーであることを自覚することすらないわけですが、
幸いにもそれを自覚することができたとしましょう、それでもそこから脱することは本当に難しい、大きく挫折してマイルドヤンキー湯に浸かって生きていくことを選ぶ人々も少なくありません。
こうなると、自分の本心は脱マイルドヤンキーを志向しているはずなのに、環境に押され、自分の実力不足に打ちのめされ、心にいつもなにかしらの矛盾を抱えながら、それでもマイルドヤンキーの環境の只中にいる自分を見て、
「マイルドヤンキーってのは勝ち組なんじゃないか(だって、おれはこんなに惨めなんだから)」
と信じるに至ります。
みんなマイルドヤンキーだし、オイシイ思いをしてる(ように見える)し、
脱マイルドヤンキーで生きるのはとても辛いし、
なら、、、、と。
これが空気のものすごい力であり、日本で自分らしく生きていくことの難しさでもあります。
「赤信号、みんな渡ってるのになぜ渡らない(バカなの)?」
という日本社会の同調圧力、そのマジョリティたちが作り出す環境に身を置いて日々感じる心の矛盾なのです。
そこから「怖い」という感情が生まれるし、その中でうまく生きていく術、その中で醸成される勝ち組の価値観に、自然と目が向いてしまう。
あー、成功とは何なのだろうか、と。
このように、日本社会の独特な発展を考えると、
「その土俵の上で勝負する」という条件下では、確かに保守的な生き方が強いと言えるでしょう。
その保守的な日本は前例のないものを採用することをかなり嫌う社会です、新しい案が出ても「前例はあるの?」ということで破棄される、となると常に世界の後追いでしか物事を決められませんから、世界が壮大な実験をして成功したものの「おこばれ」をもらうことしかできません。
世界での成功例を採用するにも、所謂保守層が利権を死守するために激しく抵抗することは当然予想できることですから、ニッチもサッチもいかなくなってから最後の最後で強引に、不本意ながら、変革なり改革なりで変わることとなる、そのとき日本は世界に比較してとんでもなく遅れている、相当な後列に位置していることになります。
農業とか、教育とか、テクノロジーとか、まあいろいろありますね。
これが日本社会。
そういう世界でもトップレベルの保守構造の中で生きているわけですから、安定を目指しそれに従う生き方、そのシステムに沿った保守的な生き方をした時に「とんでもない利益」を得ることができるのも事実。その保守コミュニティの中で上位を占めることができればそれらをコントロールもできるでしょう。
さらに本当に地元が好きだ、この生き方が一番いいんだという人も一定数いるはずですから、
ぴろしんさんが垣間見た「愚痴らず、なんだかはつらつ生きている人」、そういう愚痴らないポジティブ系マイルドヤンキーもいるはずです。
しかし問題は、
「あんたはそういう生き方がしたいのか?」
という問いなのです。
政治家の例を挙げてくれてましたね。
マイルドヤンキーは地方では権力行使できる、自民党のようにコントロールできる、だから成功している、と。
あなたが政治家になりたいのかわかりませんが、政治家は確かに一般人より大きな権力を行使することができます。
しかしながら、政治家になって、果たして成功できるのでしょうか?
つまり、成功(=自己実現)できるのか?という疑問です。
あなたが思っているほど政治家は楽ではありません。
政治というのは学問的にも、常に投票者の判断を意識して、悪い言い方をすれば「大衆の顔色を伺って」、発言なり、政策なりを打ち出さなければなりません。
自分が正義と思っていても、国民から支持されなければ何もすることはできません。
日本で最高権力にいる首相の安倍さんも、本当にやりたいことは憲法改正と言われていますが、それは民意によって封じられているので、どうもやれそうにありませんね。
そうなると自分がやりたいことは脇に置いて、気配を見計らって次のチャンスを虎視眈々と狙うわけですが、ここは民主主義国家、3年後5年後も首相でいられる保証はありません。
そんな安倍さんは、反安倍の人々からは毎日毎日ディスられ、安倍独裁、安倍退陣しろ、韓国に謝れ、中国と仲悪いのはお前の思想が原因だ、と言われ続けている。あなたはそれに耐えることができるのですか?
さらに自民党内でも派閥対立がありますから、そういう対立をかわして、時に強く出て、時に相手を優遇してと、アメとムチを使い分けながら権力闘争の海を泳いでいかないといけない。
自民党内でも野党とも擦り切れるほど闘い、習近平やプーチンや金正恩やトランプとはガチャガチャやり合わないといけない、それでいてテレビの前ではニコニコしないといけません。
身の回りにはスキャンダルをすっぱ抜こうとさまざまな野次馬が張り付いているから、些細なミスが命取りとなる、一瞬たりとも気が抜けません。
自分のやりたいことはできない、歴史にも名を残せなかったら、果たして何の意味があるのか。
こんなことを年から年中やって「これが自己実現だ」と言えるのは、相当な選ばれし者ですね。
安倍さんは稀にみる長期政権の首相ですし、ある層からは相当な支持がありますが、それでもあなたが言う「コントロール」というほどのものは手にしていないというのが上記の流れからうっすらでもイメージできるのではないでしょうか。
本当のところはサヨクがワイワイ批判するほどにも権力を行使できないのがその仕組みなのです。
学問的には
「政治では何も変わらない」
は常識ですから、それでも政治家として何かを成したいというのは、いったい何がドライヴになっているのかぼくにはわかりませんし、まったくコスパが合わない職業だと、つくづく感じます。
うーん。
ちっとも自由じゃないな。
そういう権力が欲しいんですか?
何かを意のままにコントロールしたいんですか?
付随する金銭や利益が目標ですか?
それが成功なんですか?
そして、
そういう生き方がしたいんでしょうか?
そしてこのブログの運営者として強く問いたいのは、
「あなたは本当にそういう生き方が、かっこいいと思っているですか?」
という部分です。
そうです、「かっこよさ」。
ぼくはいつも言ってきました。
成功には「モテる」というピースは不可欠である、と。
ぼくの主張はいつも、充実した人生という壮大なゴールがあり、その大戦略があって、そのための「モテる」という部分に光を当てているつもりです。
だから「かっこいい生き方をまず認識できる」という現状認識や目標設定はモテるためのスタート部分に位置しているということから、「なにそれ、モテんの?」がぼくがこのブログで何かを語る判断基準になっているのです。
「モテてる人は勝ち組か?」
というとぼくとしては力強くYes!と言いたいところですが、
「勝ち組はモテるのか?」
という逆の命題はそうではないと、ほとんど事例を見るとそう言い切れます。
(これまでの議論を踏まえれば、この両者は矛盾することなく、「モテると言うことを基盤として成功へと進んでいく」ことは賢明な読者ならおわかりでしょう。)
その点を示すために、最後に日本の勝ち組の話をして記事を締めましょう。
一般に官僚というのは日本社会の尺度に照らせばエリートといわれる人々です。
幼いころからその手の教育を受けてきて、熾烈な受験戦争にも打ち勝って、難関大学に入り、ピカピカな学歴から→官僚という身分を獲得してきた、まさに日本の勝ち組です。
しかし、その実態は、これも日本社会の構造的問題でもあるのですが、彼らは存在が責任を取らない集団でもあるのです。
非常に頭のいい集団であるがゆえに、責任逃れする、競争の厳しさやオイシさを知っているがゆえにどんな手を使ってでものし上がる、さらには出世競争に敗れた後の天下り先をしっかり確保している、表には出ず裏で政治家をコントロールしている、そういう人々です。
目的達成のためには、手段を選ばないでしょう。
「官僚的答弁」なんて言葉が流行った時もありましたね。
「官僚はダメだ」という論調をよく聞きますが、実際に彼らと会った人々から聞くにそして官僚スキャンダルを見るにそれらを総合すると、「責任取らない」、「言い訳ばかり」、「女々しい」、「嘘つく」、というイメージは十中八九間違ってないでしょう。
もう一度繰り返しますが構造的にそうなのであって、それは無理もないこと。
これが、そういう旧態依然が大好きな、現在ぼくらが住む日本村なのです。 (ぼくは海外に住んでおり、日本の素晴らしさが痛いほどわかります、飯は美味いし、清潔だし、人はいいし。それでもこういう構造的欠陥が内在しているということは否定できないのです。)
さて、これらが日本の勝ち組モデルだとして、
こういう人々が果たしてモテるとでも言うのでしょうか?
そういう生き方に魅力があるのでしょうか?
こういう人々に他人は心から付いてくるのでしょうか?
責任逃れする人。言い訳ばかりする人。嘘つく人。
ぼくはこういう人と友達にはなりませんし、もちろんこういう男を好む女性がいたら「あなた、頭大丈夫?」と感じますが、世の中ではそういうことが現実に、勝ち組の「マウント合戦」として繰り広げられているのですよ。
SNSのタイムラインを見たら一目瞭然です。
「これが勝ち組??」
どこをどう見たら彼らに勝ち判定できるのか、と。
まったく、物事をきちんと判断する「価値観」を持たなければいけませんね。
だからこそ、ぼくらのする判断はモテるということに価値を置くべきなのです。
価値を男としての正しいモテのあり方に置けば、必ず人としての自己実現に近づくし、成功に近づくのだから。(成功に近づけば世間からも勝ち組として認知されるでしょうね。)
モテを邪魔するなら一切やらない、モテに貢献するものは全力で追い求める。
それを極限までやろうとしたら、ぼくは脱マイルドヤンキーにたどり着きました。
上記で考えたように、そしてぴろしんさんの意見と日本の現状を正直に総合すると、
・日本の構造的にマイルドヤンキーはマジョリティ
・そのマジョリティはマイルドヤンキーを成功者として扱うようだ
・その成功者たちの頂点は政治家や官僚?
・確かに利益を得てるし、権力も持っているな
・でも果たしてかっこいいだろうか?
・自己実現できそうだろうか??
・彼らが勝ち組???
マインドセットがダメーモテもダメー生き方がダサいー自己実現?という道筋をぼくは推し進めることはできません。
何かを語るならそのエッセンスをきちんと発信するのがぼくの仕事であり、根底にある問題意識であり、そのうえでのすべての結論なのです。
そして、そのような箇条項目ので文脈で「マイルドヤンキーという生き物はどうなの?」問うたのが例の記事の問題提でした。
ぼくらの現実世界にはマイルドヤンキー成功モデルを追いかける人々が多いし、日本のシステム上はそういう人々が成功していくように見えるから、そういうものに騙されないでほしいという強い強いメッセージを込めています。
だから。
マイルドヤンキー=愚痴、という分析はそちらに寄りすぎでは?という意見はそのとおりなのですが、そもそもぼくの目的がマイルドヤンキーを分析してその生態を詳細に至るまで解き明かすことではないのですね。
正直なところ、そこまでの愛もないし、興味もありません。
モテるべしという課題をいつも目の前に掲げ、その意識でマイルドヤンキーというモデルを評価対象に持って来た時、最初の「愚痴」という要素ですでに「あーこれではモテない」と、ハジかれてしまっている。
彼らの実態は「愚痴だけ」ではないのだけれど、それを一定以上保有してしまっている時点で、愚痴を許容する構造であること自体で、もうダメなんですよ。
ぼくらはいつもプレイヤーで実践者。
実験室でガラスの容器の中にいるマイルドヤンキーという生物を観察してうんぬん分析して客観的にこういうものだと論文書いて、終わり、満足しました。そんなことがしたいわけではありません。
あたかも実験マウスを観察する研究者のような態度では決してないのです。
これらは決して他人ごとではない。
ぼくは時に読み手をイラッとさせるほどのくどい問いを投げかけていると思いますが、それは必要だからそうしてるのであって、
「それがあなたにどういう影響があるのですか?」
「それってあなたのモテに貢献するんですか?」
「果たしてあなた、自己が実現するんでしょうか?」
という自分事、
題材+あなた(もちろんやじろべえ自身も)という構成を採用し、とても大切な「マインド+セット」の部分にアプローチしているのです。
そしてご存知の通り、ぼくはマイルドヤンキー=NOを導き出しました。
それが僕自身の確固たる答えであり、
マイルドヤンキーに囲まれながらも、今そのしょうもない環境から抜け出そうと必死にじたばたしている男たちを励ましたいと思って、月一の頻度ではありますけどキーボードをカタカタ打っているのですよ。
だから、ぼくなりの解釈でぴろしんさんの質問に答えるならば、
愚痴るのはマイルドヤンキーの一側面にすぎないのではなく、「愚痴を言うことがマイルドヤンキーの特徴だけどあなたはその一部分あるいは表面しか目にしてないだけ」
となる。
確かに、「誰からも好かれる人」というのはいます。
自分の趣味に没頭してる人、人格がよい人、個性的なおもしろい人、マイルドヤンキーの行き方こそ俺の人生という人。
マイルドヤンキーのコミュニティや組織の中にもそういう「できた人」
というのは存在するでしょう。
しかし、マイルドヤンキーとは定義からして、地元で安住、そこから出ない、特に大きなチャレンジ意識をもって向上するわけでもない、仕事にいそしみ休みはある程度の趣味を楽しむ、という生活スタイルです。
そういう生活圏で毎日毎日生活しているならどういう話題が口から出てくるのでしょうか。
必然的に、仕事の話題(それは当然前向きなものではなく、愚痴である)、酒か女かギャンブルか、ワイドショーのネタか、親戚の話、というモノに限定されざるを得ません。
だって、そういうものにしか接してないのだから。
そうだとすると、
「休日に読んだ本にケインズとシュンペーターの本質的類似点が、、」
「ヨーロッパの歴史的文化的背景を考えるに、クラシックスーツのあり方は、、」
「昨日、筋トレで追い込み過ぎて、鼻血出たよ」
「日本一の和食は、、」
「2019年の目標をマトリクス分析してみたら、、」とか、
そういう「非」日常の話題が出てくるはずもありません。
彼らの日々の生活スタイルの外にあるものは彼らの頭に存在していないのですから、その口から出てくる話題というのはマイルドヤンキー生活圏で起こるイベント以外にないんじゃないですか?と。
いくらいい人で、おもしろい人であっても、深層の深層ではやっぱりマイルドヤンキーの思考が脈々と流れているはずなのです。
そうだとすると、人生を左右する岐路、男が試される決定的な場面でその人の本心・マインドの向く方向、彼らが選択をするものは「マイルドヤンキー的」になるでしょう。
マインドがそうであるなら、、、結果がどうなるかはもうわかりますね。
そして、「上のような話題をドヤ顔で語ったからといってそれが偉いのか?」と勝手に批判してくるセンスのない人に言いたいのは、
普段何を話すか、どんな言葉を使うか、どういう態度で他者と話すかというのは、相当程度に重要で、なぜなら日々使う言葉が生き方を規定しているように観察される、というような言語学や脳科学の研究結果もたくさん見られてるんだよ、
ということです。
まあ、少なくともぼくはその説を支持しています。
ヤンキーと一緒にいてその共通言語を使えばそういう人になるでしょうし、
おねえと一緒にいて彼らと深いつながりを持てばそういう人になる、という当たり前の帰結だと思うんですが。
人と接するとき、その人の話す内容や話し方やその態度でぼくはある程度その対象者のバックグラウンドを予測しますが、話がつまらない人や下品な人は例外なくそういう背景があり、人間性もつまらないですね。
当たり前です。
良い人になるのはいいこと、面白いというのも人として大切な要素でしょう、しかしそれだけでは「成功を約束しない」のです。
ぼくはいい人でありたい、面白い人がうらやましい、お金で苦労しましたからそれが手に入るならなんていいんだ、と思いますが、それがぼくの望む成功なのか?と聞かれたら、そうではない。
だから、ブログでは厳しいことを言っているようにも聞こえるでしょうし、実際自分にも厳しいのですが、
それはただ単に
「成功したいから」
それだけなのです。
成功するために悪魔に魂を売る必要はありませんが、いい人・楽しく生きるだけ、そこで止まっていては成功はかなり遠い。
利益を得るとか、何かをコントロールできるとか、成功者に見られたいとか、そんなものに気を奪われていてはいけない、そんな弱いメンタリティでは成功できないのですから。
これは、ぴろしんさんにもぜひ伝えたいことなのですよ。
ただ、なんとなく心に違和感を抱えていてマイルドヤンキーに疑問をもって生きており、今回コメントをくれたのなら、ぜひ頑張って「脱」の壁を越えてほしい。
これはマイルドヤンキーが愚痴らずはつらつ生きているように見えるとか、いろんなものをコントロールしているとか、とんでもない利益を得ているとか、そういう表面的な観察うんぬんの話ではなく、
そもそも構造的欠陥があるのだから、その構造の歯車になってしまったら自己実現できないでしょうよ、だから、
「しょうもない」
という結論なのです。
もう一度言いましょう。脱マイルドヤンキーを成し遂げるのは簡単ではない。
だからぼくは、ぼくの考えを押し付けたりしません。
ぼくはぼくの中ではっきりとした考えがあるけど、それを打ち出したとき、
「すごく共感します」とコメントくれたり、毎回更新を楽しみにして読者登録してくれたり、長い意見や相談や感謝を寄こしてくれる人がいる一方で、
「しょうもないことをダラダラと書いてんな」と感じて、×を押してサッとページを閉じる、二度とやってこない、そういう人もいる、
それをよく知っています。
それもまた、自由。
ガチガチに縛られた社会資本系のコミュニティでもないのだから、まったくのENTER free EXIT freeなのです。
でも少しでもこっち側なら、
モテるのはマインドセットがすべて、なのだから、
マイルドヤンキーなんて、
「まったく興味はない、羨ましいと感じるどころかむしろかわいそうに見えてしまう、これは僻みでも嫉妬でもなく、本心でそう言える」
ぐらいの余裕を持ちましょう。
「そういう生き物としての美しさや、人間的魅力、生き物としての輝き」、そういうものを目指していきましょうよ。
ぴろしんさん
これ読んだら返事くれよな!
反論でも、文句でも、いいからな!
マジで愛してるぜ。
やじろべえ♡
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