モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

世の中のゲンナリすることはすべて世界を理解し己のモチベを維持するための「肥し」になる

みなさんこんにちは。

みんな大好き夏休みももうすぐ終わろうとしていますね。楽しく過ごせているでしょうか。

さて、今日の記事は以前に着想を得たものをズルズルと先延ばしにしてしまい、やっとアップできたものです。それゆえに賞味期限が切れていて「えっ、今?」と突っ込まれそうな話題ですが、なるべく本質にツッコんでいこうと思っていますので、ご了承ください。

 

プライベートでは体調管理にシックハックしている次第です。

なかなかデトックスとなるとしんどいですね。アップデートも順調に進んでいますが、その過程でだんだん明らかになってきたこと、摂取不能なものが多すぎて全く困りますよ。まあ、ダイエットもお金稼ぎもモテも、その途上はしんどいものですね。

 

さて、ダイエットにしてもフィットネスにしても、その目的いかんによらず、カラダを鍛えるということが世間一般では流行っていますね。「夏までに痩せてこの水着を着るわよ」「マッチョになってちやほやされたい!」」という目的があるわけですが、人々はめでたくそれを達成できるのか、実際に生活している周辺を見渡しているのと、またツイッターやyoutubeなどのウェブ空間を観察してみると、答えはNOです。

途中で挫折する人やいったん成功したものの見事にリバウンドして元の木阿弥になる人は非常に多いという現実があります。

なぜか?

これは、そういう掲げた理想へ至るプロセスはとにかくしんどいから、あっさり辞めちゃう、この一言に尽きるわけですが、このしんどさとものともせず乗り越えていく人と、予定調和のようにあーだこーだ言い訳して放棄する人に分かれるわけですね。

めでたく成功地点へたどり着ける人は多くありません。

「成功のやり方を丁寧に教えても、成功しない。」

「というか、それをやらない。」

「悲しいかな、元の状態に戻って、あー成功したい、と相変わらず言っている。」

これらはぼくらがいつも目にする彼らの状態ですが、こういう瞬間は未来永劫なくならないでしょう。

 

今彼らと言いましたが、これはいわゆる大衆のことです。

それは大衆研究が明らかにしているところです。

「大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである。」

というようなことをオルテガは言いました。

つまり、みんなと同じであることを好み、自分に対してなんら要求することなく、権利だけ主張する人、これが「大衆」といえます。

当然こういう人は、自分自身を指導することなどできませんし、他の人の上に立つことなどできません。オルテガはそういう大衆的性質を色濃く持った人がエリートとして紛れ込んで来た社会を、第二次世界大戦から少し後の時代ですでに大変憂えていたのです。

大衆。

けっしていい定義ではなく、いい生き物ではありませんね。

本質的に向上することが嫌い、向上しようという気持ちがないわけですから、ダイエットしてきれいになりたいやマッチョマンになりたいという瞬間的な欲望によって出発しているわけですから、その高みへ到達することなどできないでしょう。

これが、流行りに乗っかっただけではけっしてぜんぜんダメな理由です。 

それもそのはず、自分自身に高い目標を課す、つまり「要求する」ということがないわけですから、理論的にそうなるわけですね。

 

ところで、冒頭でぶっこんだように、賞味期限の切れた話題をぶち込まなければなりません。

仮想通貨と文春砲です。

(どれだけ古い事例だよ、とツッコミたい気持ちはグッとこらえて下さい)

 

仮想通貨は規制や技術的制約によりバブルにすらならなかったものですが、一時期はものすごく湧きました。実際に億りびと人になる人も出現したように、そこにポテンシャルはあったと思うのですが、大多数の人にスポットを当てると彼ら自身はマイナスのインパクトを喰らいました。彼らの「あの人は今」を考えると、その悲惨な現状は想像に難くありません。

仮想通貨に沸くその同時に、「稼いだ金、税金はどうなるんだろう?」という疑問も、当時の界隈では話に上っていましたが、フタを開けてみると「仮想通貨ブームに乗って稼いだみんな、しっかり納めてね♪」という号令がお上の方からガッチリとトップダウンしてきたわけですね。翌年にがっさり納税義務が生じる、ここから悲惨な「あの人は今」が生じているわけです。

結局、

大金ツッコんだけど負けた人、

勝ったけど仮想通貨システムが止まって無駄になった人、

がっぽり稼げたけどそれで終わり今税金で大変な人も、

総合するとそれが「多数派」であり、まさに「大衆」というものの本質を明らかにしてくれたように感じます。

 

それは、ある人が言っていたこういう言葉にもはっきり表現されています。

「日本の仮想通貨取引所をていると、、、アフィリエーターにたくさん金をばらまいて、情弱から金をむしり取るビジネスモデルの方が勝ってしまうことがよくわかる。これも市場原理。」

「だからサルが急に言葉を喋るようにならないのと同じで、消費者のリテラシーが急に上がるわけではない。」

 

つまり、

 人類が苦しみを通じてひねり出した一番マシなシステムである市場原理。その歴史の結晶の中で現代のぼくらは生きてるわけだけど、そこですら情弱ビジネスが勝利するということは、結局制度やシステムの問題ではなく、人間個人の問題に帰結するね。仮想通貨の一連の流れは、消費者の大衆性が根底にデカデカと存在していて成り立っていたひとつのイベントだったんだ。

と解釈することができて、悲惨のあの人は今の因果の因は何かと言うと、向上しない、楽して稼ぎたい、みんなやってるから俺も、という大衆性であったということができるのです。

 

さて、次はみんな大好き文春砲の話です。

みんな、とはだれを指しているかをはっきりさせねばなりませんね。

それも、まさに「大衆」です。

文春さんはこの大衆を相手に商売しているわけですね。

彼らはこの大衆の本質をうまく利用して、彼らの心理構造の中のくすぐられるポイントうまく突いて、雑誌を売っている。だから、「砲」になるぐらいバカ売れして、ワイドショーを独占して、確固としたスキャンダル紙の地位を築くことができました。

売れた冊数、数字がすべてであるというポジションをとった際、その方針として多数派である大衆の欲求に訴求するというのは、ビジネス的には正しいと言えます。彼らは一貫してまさにブレないでターゲットを大衆に絞っているのですね。その結果として確固たる地位がついてきたわけです。

ところが、逆に言うとそれゆえに教育と言う観点はまったくありません。

彼らにしてみればそういうものを取り入れたら、売り上げは伸びないのでまっさきに消去する対象です、教育と言うもんは。

教育的要素が全くないわけですから、ぼくみたいな考え方が古い人間は文春砲がさく裂するたびに非常にゲンナリします。

 

教育は何のためにあるのか?

この問いにはいろいろな角度から答えることができると思いますが、その一つにはリベラルアーツの理念に反映されているように「向上」にあると思うんですね。

向上に興味がない、瞬間的な欲望に駆り立てられてダイエットしようという思考のパターンがある人にとっては、教育とは学校に行って嫌いなものをイヤイヤ勉強する義務教育のことにすぎません。

教育なんていらない、(刹那的な)満足があればそれでいいんだ。

というのが、世の中の大多数の脳内というわけですね。

だからこそ文春砲がデカデカとぶっ放されるたびにぼくはゲンナリすると同時に、大衆とは世界とはそういうものなんだと理解するに至ります。

 

市場主義や、物が売れるという現象は見事に「買い手の質」を反映している。

新聞や雑誌がテレビになり、それがネットになっても、人間のこの本質は変わることはありません。だから、googleは世の中の掃きだめなのです。

 

それが、商業に反映されれば仮想通貨や文春砲になるし、政治になればプラトンの衆愚政治なる。

一部のエリートと大勢の大衆で構成される世界、とオルテガは表現しました。

政治も商売も、そういう大衆たちの支持を得て成立する。

あー、悲しいかな。

 

ここで日本の経済が停滞していることについても、実はこの側面から切ることで見事に説明可能です。

日本は経済大国と思われながらもGDPは非常に低い。

製造大国で輸出大国と思われているようで、実は内需の大きい国で自国生産の自国消費というかたちです。

内需が大きいのに、給料は低い。

こういう矛盾もまた存在しています。

 

これはどういうことなのか?

ある識者によると、意外に

「日本は生産性が低い」

という評論があります。

 

生産性は、

付加価値を含む生産物/生産要素(労働・資本など)

で表されますから、生産性の低さは当然分子が問題で、

「日本は生産物に価値がないね、だから生産性が低いんだね。」ということがこの式を通して理解できるのです。

日本は製造大国の地位を確立し、アメリカと自動車を主要項目として貿易摩擦を経験してきた経緯があります。それほどまでにメイドインジャパンがアメリカの需要を満たしていおり、アメリカの製造業を圧迫していた(と見られていた)。そういう経験を経た日本はおのずと製造大国にはなれます。

それなのに生産物に価値が低いとはどういうことか?

これは「付加価値」の概念で明確にできる話なのですが、メイドインジャパンはそのモノの質は非常に高いですが、その他の価値を具現化できません。

そもそも顧客の真のニーズをくみ取る所が弱いという弱点があるのでしょう。

イノベーションともつながる話なのですが、ココこそがシリコンバレーとは違うところです。

Macがそれらの製品において作り手としては3番手4番手の後発だったにも関わらず、なぜ業界1位を確立できたのか?そこにカギがありますし、そうなれば値段が高くてもマック信者は新商品の販売前日から喜んで店頭に列をなしてくれるのです。

付加価値の低い生産物をたくさん生産して商売を成立させようとすれば、薄利多売しかありません。そしてその薄利多売の土俵で戦うとどんどんコモディティになっていきます。

「価値」からはどんどん遠ざかり勝ちが遠ざかります(うまいこと言ったな)。

 

マックのように、

「値段が高くても」

という条件は、大きな価値が明確にあってはじめて顧客との関係で成り立つわけですから、そして価値が生み出せなければわが社を支えてくれる大切な顧客層と取引できないわけですから、「価値なんてどうでもいいんだ、安いものをくれよ」という価値を認識できない層と一生付き合っていかないといけません。

この層は、そう、

ほかならぬ大衆です。

 

逆から見れば、ビジネスがコモディティなのは、この大衆に向けてせっせと発信しており、大衆の大好きな安売りに訴求しているからであり、大衆はそういう刹那的な欲求を満たそうとして当然群がってきます。

いいのか、悪いのか、大衆から大人気で彼らが一番の大手顧客なのです。

安いとか、欲望とか、刺激とか、

そういう大衆が反応するワードは決まっていますから、彼らとお付き合いしたくなければ、ぼくらはその逆バリをしなければなりません。

成功するビジネスはどこかでコモディティから脱出しなければならない。

誰に対して商売するのか?

誰を相手に活動して、そして生きていくのか?

そこが問われている。

 

価値提供と適切なプライシング、これは常にセットです。

そして価値提供が必ず先に来ます。

さらに、価値を提供するわけですからこれはターゲッティングとして(価値が高いものにこそ注力するという)エリートへ向けて商売することを意味しています。なぜなら、その価値提供を大衆は価値と認識できないから、商売が成立しません。

 

世の中には価格をグーンと上げて、顧客をスクリーニングして、大衆を排除していくビジネスモデルをとる会社も確かにあります。

 

話を本筋に戻しましょう。

仮想通貨や文春砲や衆愚政治。

これらが世界で演じられているゲンナリ悲劇なわけですね。

 

そうすると、キルケゴールの気持ちがよくわかります。

世界のゲンナリを見れば見るほどそれはわかるでしょう。それは話をぼくらに適用すれば恋愛する相手がいわゆる「大衆」であればあるほどゲンナリするということに置き換えられます。

がんばって付き合い始めた女が揃いも揃って表面と内実が一致しない裏表のある女だったら、こりゃエネルギーをどんどん吸い取られて、恋愛に対する絶望が立ち現れてきます。

まさに、鬼ゲンナリです。

かのキルケゴールも絶望を知り始めたのは、家庭環境と、そして「恋愛体験」がきっかけでした。 

 

彼はその絶望を克服するために、 

「美的実存」「倫理的実存」「宗教的実存」という三つの段階を提唱しました。

美しさという目に見える何かを求めるから、それが手に入ろうが入るまいがどの道空虚になる、じゃあどうすべきか、

というところを出発点としました。

ようするに、

「美人は三日で飽きる」

と言いたかったわけですね。

目に見える、そしてやがて朽ちるモノではなく、倫理上の精神や人格の充実を目指しましょうよ。と彼の論議は進みます。

結局キリスト教的背景を持つ彼は、倫理的人格向上では飽き足らず、神と向き合うという宗教的課題に取り組むことで絶望を克服しようとしたわけですが、いずれにしてもその目的は一貫して

「自己自身の実存の獲得」

にあったわけですね。

 

彼が偉大なのは、ぼくがちょいちょい手を変え品を変えメッセージとして伝えているそういう自己実現を、絶望をスタートとすることでそこへ到達するということを着想し、論じ立てて記述したことです。

目指すべきは自己実現だ、

そしてほかならぬ絶望を出発点とするんだ、と。

そうです、まず、絶望なのです。

 

このように思索に思索を重ねて至った彼の哲学的大作は、科学的な人間の感情研究の実証結果と同じであるということが現代になり明かにされ、とても驚くべき一致を見たのです。

恋愛に絶望を感じた彼は、その後実存哲学の嚆矢になったのでした、そして今もその功績は輝いています。

こういう偉人たちの残したものには真理の含みが必ずあるものですね。 

 

キルケゴールの哲学の中に、その主題が絶望でありながら、希望を見出せるのはなぜかというと、 

「絶望をより高度な実存へと引き上げるいい機会だ、良い手段だ」と、とらえていたところにあります。

簡単に言うと、ゲンナリすることは、「肥し」になるのです。 

 

同じくぼくらも、世の中がそういうモノだということを認識できると、今やる”べき”ことが明確になります。

走るべき方向性がわかり、そういうゲンナリが渦巻く世の中でもどのエリアで人々と「つながり」を持ちながら社会的営みを発揮するかがよくわかる。こういうザンネンナゲンナリする世の中も見方を変えれば、ぼくらがたくましく生きていくモチベーションになるのである。

こういう構造を理解すると、嫌われない勇気が単なる経験談ではなく、理論的に使えるということがよくわかるでしょう。

こうやってはじめて「応用が利く」のですね。

 

さて、恋愛への応用をしましょう。

「嫌われても平気、他人に左右されない」のは、こういう絶望世界を土台として考えるからです。ぼくらは他者とコミュニケーションをとりましょうとなったとき、必ず直面するであろう問題が、価値観の相違です。大衆の中へ飛び込んだ時、押し寄せてくる苦悩は、「人々は他人へ意見したがるが、それらの関わり(コミュニケーション)のほとんどが大衆的価値観の独善的な押し付けである。」ということです。

世界すべてがそうなのだから、少なからずそういう人とぶつかってしまう。でも、彼らと極力関わらない方が、いわゆるQOLがいいわけだから、そんな人々に嫌われても平気、むしろ一緒にしないでほしいわけだから嫌われたいぐらいだよ、と考えるのが、まあ正常ですね。そこには勇気も何も必要なくて、これは読み手を励ましてるタイトル付けなだけで、ただただ自己実現を自然体で成し遂げていこうという含意なのです。

もともとネガティヴな力が強大で数も多いわけだから、圧倒的に負に押し流されてしまう。彼らの善意の押しつけは大衆性を如実に反映しているので非常にネガティヴな作用を受け、ゲンナリしながら実存を失っていく。自己の無い、自信のない男なんて当然モテませんね。

しかし方や、モテる男というのは全く逆で、自分の強みを存分に発揮し、自分の孤高な土俵から異彩を放っているわけだし、大衆社会の中でも、そういう男がまれにいるのも確かです。

モテ男と非モテ男の二極化です。

男の側からすると、じゃあ恋愛がんばるぞというとき、対象となる女もほとんどが大衆に類別されてしまうので気を付けなければなりません。なにも草食男、非モテ男と、男性だけがダメになっていっているわけではなく、女性にも同じ現象が広がっています。

多くの女はメンヘラで、わがままで、感情に振り回されながら、ゴシップ大好き、人のことには口出ししたい、そういうものであるということが、否定しようのない事実であることは、口が悪いようですがはっきり言っておかなければなりません。ほんとうに彼女たちの推理力には感心します。1ある出来事から男たちのまたは友人である女の感情を100にまで拡大解釈し、断定する。あいつは裏でコソコソ悪いことをやってるチャラ男(尻軽女)だ、と。推理に推理を重ねて仮想敵を作るあたりは名だたる戦略家もびっくりの論議の組み立てです。(恋愛もののドラマやドキュメンタリーを見てもらえば一目瞭然です)

ん~ん、これが世界。

 

この残念なゲンナリをベースとして考えれば、「やるべきこと」が逆に明確になるはずです。

 

やるべきこと、つまり

ぼくらは、どんな人とどういう恋愛をしたいのか?

そもそもどんな人間になるべきか?

そういうことが、モテを考える上では避けては通れないのですね。 

 

これを真剣に問うことは本当に本当に大切であることを強調しておきたいと思います。

 

恋愛対象とすべき女性をスクリーニングすべきで、心のきれいな女性と付き合うべき、そうすることで自己実現は加速します。

となったとき、いかにスクリーニングするかは、自分を高く売るべきで、そこには価値提供がありますから、まずもって自分を向上していかなければなりません。

心のきれいな女から正しく評価されることを目標に自己研さんに励みましょう。自分の価値は大衆女にはわからない、そういう方向に舵を切ってください。

これが「女に嫌われる勇気」です。笑

 

よく言われる「女をファーストプライオリティにしない」は、こういう現実を認識すると、ごくごく当たり前な行動原理です。世の中ただ飯を狙う女ばっかりだから、そういう女を背に腹変えられず追いかけるのがバカらしいと思えるわけですよ。だから男は本業である仕事を頑張るし、そういう男には逆説的にいい女が引き寄せられる(スクリーニング)わけですね。

いい女は少数なんだから、年から年中手当たり次第に女を追いかけているのは、アホジャないか。

絶望から出発すると、こういう悟りが開けます。

自分がいい男になって、「いい女」と「大衆女」を仕分けして、濃厚な恋愛をする。

これが人生のモチベーションになます。

 

質問として、人生の目的はいい女とイチャイチャすることですよね?

という中二のような質問を目にしたことがありましたが、半分正解半分痛い間違いです。

上述してきたように、物事を深く深く探ると、そういう真のモチベが内側から湧いてくるわけですよ。 

こういう面で、教養とか歴史とか経済とか脳科学は本当に役に立つとぼくは信じて勉強して、発信しているんですね。 

 

やじろべえ。

 

 
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