モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

現実を現実として直視する能力と強さ ~すべてはモテるために~

 

 

こんにちは、やじろべれです。

今日もあらゆる方面でのバランスを取りながらがんばっています。

 

久しぶりに、ブログのデザインを変更してみました。 

どれがかっこいいのかいろいろ試している感じですが、まあ楽しんでいってください。

 

先日まで台湾へ旅行に行ってました。

小籠包とかき氷を食べてきました。

台湾は上海と違って、女の子も愛想がいいし、男もスマートな雰囲気でしたね。全体的に日本人の気質に近い気がします。

 

 

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では今日のお勉強です。

 

「人間は教育によってのみ、人間となる」

とカントは言いましたが、本当にそう思います。

ちゃんとした人間にならないと、まずもってモテるなんて愚かな話なので、これからも貪欲に学んでいかないといけないわけですね。そしてこのブログを通して、読者のみなさんも、書き手のわたしも、「人間となるプロセス」を歩んでいるわけです。

こう言うと、少し大風呂敷を広げている気もしますが。

 

「教育」

この意味を真正面からとらえている教育者にとって、教育の限界を感じるのもまた事実でしょう。

教育しているその対象である学生諸君が、向上したいという願いはあるのに結果が伴わない。まったく前に進んでいない。

これが教育者としては非常に心が痛い。

カントが上の言葉を発してからだいたい200年ちょっと過ぎた現代の社会に生きているわけですが、そしてその間教育はたえず発展してきたわけですが、「バカは教育でも治らない」という言葉に同意せざるを得ない現状が僕らの周辺には転がっていて、教育者は教育に対する熱意が強いほど、この現状に苦しめられます。

教育者がバカで、教育とは何たるかを勘違いして教育してると当然ながらバカは治りませんが(バカがバカを教えているから)、優秀な教育者が最上の教育を与えたとしてもバカは治らないらしいことが今では明らかになっています。

教育の質の議論の前に、教育を受けるわれわれ人間に構造の問題がある、ということですね。

 

これは、恋愛においても、失敗からいっこうに学ぼうとしない人々がいるのと無関係ではありません。

もちろん、ぼくがせっせと恋愛の原理原則を書き綴っても、ある種の人には何も響きません。

それはなぜか?

この答えがテーマの、「現実を現実として直視できるのか?」という課題設定とつながるわけです。

 

最上級の教育を受けても、ザルのようにその良質な教訓を無駄に流してしまうぼくらの構造とはどういうものなのか?

興味深い動画がありました。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

これらの2つを総合して表現するなら

「ぼくらは現実を直視するのが難しい」

そのたった一言で言い表せます。

 

専門的なことは彼らに任せるとして、ぼくらは現実をよりよく生きるためにどうするかを考えなければなりません。

そして、TEDトークで言っているように、現実に起きていることをどう見るかは、目というより、脳が最終的に決定しているということがわかります。

ようするに、「解釈」なのです。

脳が騙されて、錯覚をみるので、現実がなかなかうまくいかない、ということがよく起こるわけですね。

 

これは心理学の世界では前から言われていたことですが、目の前のコップに入っている水を「半分しかない、キーー」と見るか、「まだ半分もあるじゃん、ラッキー」とみるかは、それぞれの解釈であるということです。そして、ぼくらにこの水をくれたあの人は、「半分しかくれないケチな奴」なのか「大事な水を半分も分けてくれた人」かは、とても大きな違いがあって、ぼくらはそいつを勝手にいいやつと思ったり、勝手に嫌いになったりしています。だから、その解釈を発端に解釈する人自身の人間関係や生活の充実性にも大きな影響を及ぼします。

この論理から、現状というのは物事の見方に「依存」していることがわかるのではないでしょうか?

現状がモテてないなら、自分自身への見方、女性への視点、それらを含めて人間理解、そこに時間軸を当てはめた人生観というものがどこか歪んでいて、ドンチンカンな方向へ走っているというのをまず受け入れなければなりません。

マインドセットとは物を見るフレームにより形作られており、それが行動を促しているからです。

 

ぼくらは生きていればどうしても、パラダイムに引っ張られてしまう生き物です。

現実そっちのけで、好き勝手に解釈してしまう、そういう困った構造を持っている悲しい生き物だ、ということをまず肝に銘じておかなければなりません。

この解釈は自身が持つパラダイムによりほぼ自然発生的に生じるので、どういうパラダイムを持っているか?これが決定的に重要になりますね。

 

なるほど、最上の教育を受けてもそれを活かせるかどうかはこのフィルターをどう通るかにかかっているわけです。

ようやく手にした教育を、どれだけ活かせるのか?

これこそがレバレッジじゃないですか。

 

さて、恋愛論です。 

いつでも男は男目線で優しさを語りがちですが、女にとって「男目線の」その優しさとは彼女たちがイメージするそれと同一ではありません。そしてそこに関しては本当に女性を理解できるならば、「優しさ」がまた違った視点で見えて来るでしょう。

 

「セクハラ認定は、女性のさじ加減」

とは、イケメンが起こしたセクハラ事件を分析した記事で言及した重要な事実ですが、

そういうシビアな現実をぼくたちはどう解釈するか、ここにモテの分岐点があります。

そういう女子からの不条理とも思える応対に直面したとき我々がまずコミットするべきは、女のさじ加減にブツブツ文句をいうことではありません、

背後に存在する恋愛のルールや女性の男選択アルゴリズムをよく理解して、自分のやるべきことをしっかりやる、自分の自己実現と女性の幸せの両立するようがんばるということです。

 

たとえるなら、資本主義体制の中ではお金を稼がないと生活できないという現実に面したとき、「自分は貧乏だ、なぜ資本家はあんなに贅沢な生活をしている搾取だ!」と、そこに文句をいってもしょうがないでしょ、というのと同じで、

大きな政府・福祉の充実を主張しデモをするのか、

それともマネタイズの仕組みビジネスの本質を理解して価値あるものを作って顧客に提供して喜ばれながらお金を稼ぐのか、

という単純な「選択」の問題なのです。

 

選択できるためにはそこに比較優位を実感しなければいけないわけですから、物事を現実に受け止めて比較できる明晰さと、その土台にある勇気が必要です。

いずれにしても、恋愛とは甘くてそして酸っぱいものであることは相場が決まっていますから、意味のあるがんばり方をしなければいけないのですよ。

 

恋愛においてどんなに社会が文明化し男女の平等が進んで、テクノロジーが発展してマッチングアプリ、画像加工アプリ、ファッションアプリ、金儲けのビジネスモデル、これが普及しても、

「いい男の基準は女のさじ加減」

この理不尽で不平等ともいうべき現実はなくならないでしょう。

なぜなら、これは人間の性質・生物学的な問題だからです。

 

文句を言ってもしょうがないなら何をするのかというと、「現実を直視する」ということです。

 

つまり、パラダイムの補正です。

 

ここでほとんどの男は、”男が”解釈するいい男/優しい男、に固執してしまいます。

女は「優しい男」を望むんだから、そしてそれによって甘いリレーションができるのだから、優しい男になろう、と。

いったん「優しい男」の概念が出来上がってしまえば他の角度から見ることができませんが、固執です。

固執するとそこから離れられないわけだから、現実のコンテキストにおいて女の言動がコロコロ変わることがまったく理解できません。

 

「おれはこんなにいい男なのに。。」「こんなに頑張っているのに。。」

という不満が募るばかり。

学歴を、社会的ステータスを、経済的リッチを、死に物狂いで達成したのになぜモテないのか?というところがまったくわからない。ココで、進歩が止まってしまう。

現実が受け入れられないのは、本当に残念なことですね。

 

一方、賢い男というのは、現実に結果が出ないのなら、プロセスにおいて何かが違うんだということを認め、努力の方向をかえ、試行錯誤しつつ、現実の背後にあるメカニズムを洞察します。

 

科学者というのは先のTEDであるように、結果がこれまでの定説と異なっていたら、一旦伝統的なパラダイムから離れ、結果から仮説を構築し、新たな発見に挑むことに躊躇がありません。 

ぼくらは彼らの、「現実を現実として直視する能力や柔軟性やプライドを捨てる強さ」のようなものに倣わなければなりません。

 

モテとは関係ないと思われた科学者のその科学的精神は、進歩を目指す僕らにはまさに必要な資質でした。

 

 

さて、現実を見ないという愚かな性質は二つのフィールドにおいて散見されるように思います。

「自分自身」の現実を見ない

「相手」の現実を見ない

ということ。

これによって、愚かな男女はみんなから嫌われていきます。

 

嫌われる人の特徴としてだいたい、KYである、ということがありえますが、今の文脈で言っている残念なKYというのは本質的に、

相手の現実を見ていません。

相手の話を聞いておらず、そもそも相手に関心がありません。

じゃあ誰に関心があるのかといったら、「自分自身しか」見ていないというのが本当のところです。

こういう人のコミュニケーションの方式は、「自分が相手に認めてもらうために」が前面に出ていますから、ベクトルは常に自分です。そしてオレがオレが前面に出てしまうので、例えばこの彼と会話している女子はウンザリ、ゲンナリしてしまうのです。

「自分のために」、が優先されるとそれは周囲に伝わりますから、コミュニケーションの相手はどこか踏み台にされているように感じられる。

こういう場合、コミュニケーションは成立しませんから、相手がスーッと離れていくのは必然なのです。

 

モテない男は、目の前にいる女に本当は関心がない。

モテない男をよーく観察してみてください、例外なくこうですから。

女から「この人 イケてる♪」と思われたい、だからがんばってこの目の前の彼女にアピールしてる。結局自分しか見ていません。

当然会話も弾みませんし、恋愛テクニック本で復習した無意味な合いの手をいれたり、奇をてらったディスリで注意を引いたりと、まったく利己的なコミュニケーションに終始してしまう。

そうでなくても安全牌で、つまりいつも「いい人」で終わってしまう。この類の男というのは、女性のニーズを拾いきれていないのが最大の問題点なのです。

なぜうまくいかないのか、そのすべてが、目の前の人にちゃんと向き合っていないからなのですね。

 

女心は秋の空、であるのは事実ですが、一方でほぼすべての女子に共通する情緒の動きみたいなものも確かに存在しています。さじを加減する際の基準みたいなものも彼女たちの中にはあるのです。

このへんは脳科学がカバーしているはずですが、そういうお勉強からいったん離れて、現場に繰り出し日常で接する女子たちに真摯に向き合いそして数をこなせば、そこには驚くほど一定のパターンがあることに気付くはずです。

そしてそれこそが「彼女たちそのもの」であるのです。

 

女子が、

何を喜び

何を嫌い

普段何を考え

何を男に求めているのか

必死にそこに目を向けてきたでしょうか?

 

相手のことを考えるのは、友人関係でも、ビジネスでも、まったく同じで当たり前のことではないでしょうか。

 

それなのに、男女関係になるとどこか甘えが入り込み、上から目線でオレオレになってしまうのが男のアホなところです。

女の心を射止めるのがぼくたちのゴールであることは確かですが、そういう利己心はいったん脇において相手に関心を払う習慣を身に着けなければなりません。

 

「優しい男」

ここで女が思い描く優しさと、男が優しくあろうと努力する優しさには、かなり乖離があります。まったく別物といってもいい。ブラックコーヒーとカフェオレぐらい、まったく違うものです。

男が勝手に、あー優しい男ね、と解釈しますが、

女からしてみれば求めてないものをがんばって提出されても、そこに何の価値も見出せません。

結果、大ケガをしてしまう。

常々強調しているように、女と言う生き物は男に強さと安心を求めるわけですから、その頼りがいのある彼が実は細かいところも気づく気の利く男なんだとわかった瞬間、彼がわたしの心の機微を感じ取ってくれてくれていると気づいた瞬間、

女はそのその一点に優しさを「感じる」というだけの話で、

アクションとしての優しさをドカッとドヤ顔で出されても、何の価値もないんだということは、こうして論じられればすぐにわかるのではないでしょうか。

女子が言う優しさとは、彼女たち自身が優しさを”感じる”何かであって、そこにfeelingと解釈があるだけで、直接的に優しい言動をするという狭い理解では心をつかむにはあまりにも貧弱であると言わざるを得ません。

男は男目線で解釈しますが、女にもその解釈が、パラダイムがあるのです。

それは相手の立場に立って相手の視点で見てはじめて少しずつにわかることでしょう。

相手の現実を見ないとすれば、「優しい」という単純な概念ですら共通認識にはならないのです。

 

こういう「人として」重要なところがすっぽりぬけ落ちていると、まわりまわって自分自身の現実を見ることもできません。

お決まりの「オレはこんなにがんばっているのに」に陥ってしまいます。

客観的に見ればどうみてもがんばっているとは言えないのに、「がんばっているはずのオレには成果が伴わない」と、現実を誤認してしまう。

 

自分自身は本当にがんばっていると言えるのか? 

適切な方向に努力を傾けているだろうか?

ちょっとやったぐらいで「がんばった!」と勘違いしてはいないか?

そう自問自答する癖を持つのは大切なことです。

びっくりするほど自分で自分の現実が把握できていなかった、とわかってからスタート、ということがほとんどの人々の現実でしょう。

 

学歴やステータスや何かの輝かしい実績だけでは、決定打にはならない。

それは世界の出来事という現実を見ればあきらかです。

モテない男というのは、この現実がどうしても受け入れられません。

そして 認知不協和を解消しようと、女に否定的になり愚痴っぽくなって、もっともっとダサくなる。卑屈になって自信がなくなって、でもゲットしたいから、結果、女に対してもっと明後日の方向へがんばってしまう。

安っぽい恋愛ドラマを見ると、恋敵の残念な存在に哀れさを感じるのに、現実の恋愛の現場だと「その残念な引き立て役をお前が演じているんだよ」ということになかなか気づけません。

脳がさまざまな断片的なシーンから都合いいストーリーを作ってしまっているのですね。

まったく、困った脳の構造です。

 

それでも、そうです、それでも、ぼくは教育でマインドセットを正しい方向に向けるのを助けたい、そして非モテを治してほしい、と心から願っています。

 

「結果がすべて」

これが真ではない文脈もたくさんあるわけですが、まずは、それぐらいの危機意識で取り組んで、現実を見るパラダイムを補正した方がいいでしょう。

勝間和代さんが、「起きている事はすべて正しい」という題の本を出されていますが、彼女の伝えたいこのメッセージは、本当に正しいと思います。 

 

モテるためにがんばっているのにいまいち結果が出ないなら、その結果からして努力の過程が間違っている。

ぼくらはまさに恋愛のscientist、その気概がないといけない。

ぜひ、さじ加減がすべて吹っ飛んでしまうようないい男になって、現実をひっくり返してやりましょう。

 

 

 やじろべえええ。

 

 

編集後記

コメント紹介です。

ほんのりさんのコメント

最近このブログを見つけ、毎日少しずつ過去の投稿された記事も読んでいます。
私は全くモテたことがなく、もうモテることなく人生終わるのかと悲観していましたが、このブログを参考にしつつ、ストイックに生きていきたいと思うようになりました。
とりあえず筋トレと禁欲を頑張ります!

 

やじろべえから

ぜひがんばって!

過去の実績がまったく関係なくなるところがモテの素晴らしいところです。やったぶんだけ、結果が返ってくる。結果は裏切りませんから、試行錯誤しながらがんばってください。そして小さな成功をつかんだら慢心せず同胞を助けてあげてくださいね。

 

 

ぼくらの非モテ研究会さん

こんなに良い文章をただで読めていいのかしらん。
と常々思っておりました。
メルマガ是非お待ちしております。

 

やじろべえから

はい、ぼくもそう思います笑。

そしてメルマガも無料で出そうかと思っているお人よしです。こんないい文章がゴミみたいなサイトに埋もれているのはもったいないですから、ぜひ、お友達に紹介してください。

みんなの力が必要です。

仲間が増えると成長が一気に加速しますから。 

 

 今日も、いいコメントに出会えて力をもらいました。

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