モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

#田端藤田の生討論で、はZOZO問題でも、労資闘争でも、彼らのブランディングでもなく、モテ・非モテの教科書である

 

今日は、モテ/非モテ問題に関するとてもよい教材を紹介します。

 

AbemaTVでの討論番組なんですが、 

やはり、人間同士のガチガチのバトルはその人の本性をさらしますから、外から客観的に見ると、大変大きな学びになります。

何の学びかというと、討論してるその人の「人間性」が透けて見えるということです。

一貫してブログでマインドセットを大切さを主張しているのは、つまるところ人間性の向上を通して、人生少しでも良くしようよ、ということメッセージを伝えたいという思いがあるからです。

そして良い人生へ向かう途上で、モテるという部分が達成できればそれはよい人生の重要な部分を成してくれますから、究極的には「善く生きる」という大きな射程で物事を見ながら努力していかなければいけない、善く生きるにも、モテるにも、結局人間性の向上が無ければそれは達成できません。

その点で、人間性を学ぶということは学びの中でもけっこう重要だと思っています。そうすればいずれはパズルのようにバチバチとはまっていき自己実現に近づいていくのではないかと。

まさしくアリストテレスが言ってくれていたようにアノ「善く生きる」です。

 

そして討論で見たいのは、人間性、人間的魅力があるのか、端的に言うとこの人はモテるのか?というところです。「ああ、だからこの人はモテないんだな」というのが、悟りにも似たような感覚としてアハ体験とし浮き上がってきて、とても納得できる。

モテるかどうかの判断が可能なのは、その空間に本当の人間味がジワリと出てしまうから。

だからぼくはこういう貧困問題とか、社会学的な話題、ビジネスについての討論とかを見てると内容もさることながら、そのしゃべっている人の魅力というか、人間的なインフルエンサー力みたいなものについつい目が行ってしまい、勝手に分析してしまい、メモをとったりしています。

今回の教材はコチラ

 

abema.tv

出演者は、

ZOZOのコミュニケーションデザイン室長の田端信太朗氏

NPO法人ほっとプラス代表理事の藤田孝典氏

この二人のガチ対談です。

 

ガチでサシの対談なので、非常に面白い。

Twitterでお互いにバチバチやってたのが当人を目の前にしてどうなるのか、どう思考のマナー、議論の作法を守りながら、持論を展開していくのか、そこに遊び心はあるのか。

労資の闘争とみてもらっていいし、議論の技法とみてもらってもいいし、単なるエンタメとみてもらってもいい。

でもせっかくだからモテの教材として学んでほしい。

今頃のブログ記事アップでほんと申し訳ない。

少し遅れると、もうサーっとSNSでも流れちゃうんだな。

 

でも、金払ってでも、学びのある教材だと思います!エンタメとしても面白いです!

 

今日のはとても長く仕上がりました。

一番人気のストイックの記事も「てか、長い」とコメント来たことがあったんですが、それよりか余裕で長いです。

その4倍ぐらいあります(汗)

だから、平均の6倍ぐらい。。

マジで長い。

スクロールバーが超スロー。

何文字だよ。

 

一回で読むのもそうとう頭が疲れると思いますので、分けて読んでもらっていっこうにかまいません。

でも、一気に読めるようにも書いてますし、いろいろ学べるように書いたつもりです。

 

では、講義行ってみましょうー。

 

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#藤田田端の生討論で、は

ZOZO問題でも、労資闘争でも、彼らのブランディングでもなく、モテ・非モテの教科書である

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ことの発端は、Twitter上でNPO法人の藤田氏がZOZOの前澤さんの 月旅行を批判して、「そんな金あるなら労働者に回せ!」と主張したことでした。

それに田端氏が反論して、「いやいやどう考えても労働組合の方が不要だろ!」という感じでバトル開始。(この記事を書いている時点ですでに1ヶ月ぐらい過ぎてて、覚えてない。)

前澤社長が、「じゃあ生討論やってよ」となり、アベマで討論がセッティングされたのでした。

逃げんな!だの、無知で頭スカスカだ!だの、罵り合いが続いてたTwitter。

さてさて、どうなるのか?

 

生討論の論点は以下の通りです。

☑富裕層にもっと課税すべきか?

☑最低賃金を上げるべきか?

☑ZOZOの前澤社長の月旅行について

☑貧富の差は広がっているか?

 

ここで、NPO法人の藤田氏の見解は超ザックリ簡略化すると以下の通りです。

「派遣、パート、アルバイトを含む労働者の賃金はかなり低い、そして社会的に不安定だ。だから富裕層に課税して税金をとって福祉に回すべき!企業は彼らの最低賃金を引き上げるべきだ、なのに前澤社長は月旅行に行って豪遊してる、けしからん!

つまるところ、富裕層が例えば月に行けたりするほどの収入を得ているのは、労働者からの搾取なんですよ。みなさん!立ち上がりましょう! 労組に入ってね♡」

ということです。

まさに、モリタク先生もビックリな弱者救済案です。

労働組合という存在がある一定の意義を生んでいることは間違いないでしょう、ぼくもそこは十分認めています。労働組合がなければ使用者側がやりたい放題になるだろうから一定に抑止にはなる、という抑止力的な観点です。

権力者を抑える憲法、マスメディア、野党。

それと同じ抑止が認められる労組。

そういう市民ー国家、労働者ー使用者の中間に位置しながら、なるべく労働者の声を吸い上げて国家や事業主にぶつける、彼らはその代表的組織なんだ、と。

藤田氏がTwitterで「ユニオニズムの意義」を熱弁してたのはそういうことだと、ぼくは解釈しています。

声を吸い上げて、代表して届けて、(何も変わらないけどとりあえず)にらめっこをする、こういう中間的な団体です。

これは、結論ありきだけどとりあえず反対する、devil’s advocate的な役割ですね。

もう結論は決まってんだけど、ギャーギャー騒ぐことでやりたい放題にはさせないぞ、適正な位置で歯止めを効かせるんだ、手抜きはさせないもっとちゃんとしたものをつくるべき、少しでもそういう圧力をかけるために「反対するのが仕事」という野党的なポジションなのです。

野党が、「それいいですね、がんばってください、応援してま-す」

などと言うでしょうか? 言うはずがない。

今も入管法の質疑や改定の攻防を繰り広げていますが、あのすべては支持者に向けたパフォーマンスで、反対が自己目的化してますから、考えの変化や調整などは一切そこに入る余地はありません。

だって反対することにより、俺たち(野党)は権力の監視役を担っているんですから。

それは、反対しなくなった時に存在意義がなくなる、「要らなくなる」ということを意味しています。

もし迎合などしたら、どうなるのか?

野党支持者があっという間に離れていく。怖い怖い、そんなことは絶対にできないのです。

そんなことは、たとえ地球がひっくり返ってもできない。

ということは、反対することがポジションとしてそこに固定されているのですから、何が出てきても反対というポジションが最初から決まっていて彼らはトークを繰り広げるのですから、彼らの主張に正しさとか一貫性は原理的に必要ないことになる。 

逆の立場の人に「反対反対」と言っていればいい。

主張がなく、常に反対。

そういう生き物だということになりますね。

 

今言ったように、そういう中間的な役割、「市民の声を吸い上げる」「権力をチェックして抑止する」という、重要な役割があるとはいえ、

常に反対。

その反対とは何かが存在していてそこに反対ポジションを張るわけですから、主役には絶対になりえません。主役である何かに反対して存在する形でしか意義が担保できない。

内実はそういうことだということを覚えておかなければなりません。

 

さて、藤田さんの意見はさっき述べましたが、もう一度見ておきましょう。

「派遣、パート、アルバイトを含む労働者の賃金はかなり低い、だから富裕層に課税して彼らの最低賃金を引き上げるべきだ!なのに前澤社長は月旅行に行って豪遊してる、けしからん!

つまるところ、富裕層が例えば月に行けたりするほどの収入を得ているのは、労働者からの搾取なんですよ。みなさん!立ち上がりましょう! 労組に入ってね♡」

 

この発言から、非モテに特有のザンネンな思考がぎっしり詰まっている様子がありありと見て取れるのですが、それがわかるでしょうか。

以下の通りです。

 

● どうしようもない社会の構造を、単純化すれば解決できるとする理解力の欠落

● 金持ちを叩けば弱者が救済されると信じているアンパンマンもビックリな幼稚さ

● 結局のところ感情的になってしまう、精神的弱さ

● 他者の話を聞かない独りよがりで不誠実な態度

 

要するに、男としてダメダメなところが揃いすぎているのです。

このブログの読者なら、優しいだけではダメ、理想を語るだけでもダメ、ということはもうすでに頭にしっかり叩き込まれているでしょう。

女性というのは、そういう「だけ」の男にまったく興味を示さないしそもそも眼中に入っていないんだ、それなのに強引に彼女のテリトリーに飛び込んで行こうものなら迎撃システムによりすさまじい総攻撃を受けるということを、僕たちはよく知っています。

 

では問題をひとつひとつ見ていきましょう。

志がある人間というのは、その志ゆえに良くも悪くも何かの問題にぶつかったとき、必死にその解決策を探し始めます。

藤田さんはいわゆる社会的弱者と言われる人たちの相談に乗って、彼らのために一生懸命に活動をする優しさや情熱や正義感があります。NPO法人の先頭に立って企業と交渉して労働者の権利を守ったりもっと拡大する、そういう行動も実際に起こしています。

ただ、こういう正義感が強くて、その正義「感」という感情に動かされて何かをする人というのは、それゆえに「より酷く間違う」という特有の欠点も持ち合わせているのです。

「必死に」解決策を探し始める、と今言った様に感情が前面に来て物事に当たろうとしますから、理性や全体的な視野、冷静な分析力判断力ははるか後ろに置いてけぼりになるゆえに、どんどん間違った方向に進んでいくのです。

それは、

「地獄への道は善意で敷き詰められている」

というヨーロッパのことわざどおりで、解決する、つまり「何かを成す」にはまったく力不足だということになります。

と聞いて、2009年に民主党が政権を獲った時に起きた事をぼくらは思い起こすかもしれません。とてもとても似ています。

当時、鳩山由紀夫内閣が発足したわけですが、時の総理鳩山由紀夫さんも、間違いなく「いい人」でした。

「コンクリートから人へ」のキャッチフレーズが示す通り、主役になるのは国民の皆さんですよ、と声高らかに謳った。

あれは特段な打算があるわけではなく、本心で、心からそうメッセージングしたと思います。

脱官僚、政治主導をうたい、利益誘導型の自民党政治との差別化を図り、「こども手当て」、「高速道路無料化」、「高校無償化」、「農家個別補償」など、いかにも生活者に優しい政策を並べたのは、間違いなく「国民のため」を目標にしていたからです。

そういう錚々たる善意を惜しげもなく約束したわけですが、結果は惨憺たるものだったあのインパクトは、今でも鮮明に残っています。

さて、政治は結果責任といわれることがありますが、結果をしっかり出すのに必要な条件とはいったい何でしょうか?

もちろん複数あるわけですが、ぼくはその土台には

「正しい現実認識」

があると思っています。

世のため人のために、そして沖縄のために、

「最低でも県外移設」

と彼は語ったわけですが、

その壮大な理想は無惨にも散っていったのでした。

鳩山元総理の心意気やよし。

しかし決定的に「現状への認識」が欠けていました。

現実に起こっている世界情勢のダイナミックな動き、その背後にある国際関係の実状、これまでの各国の歴史や文化、国内外のもろもろの利権組織の実態、そういうものの全体像をきちんと認識する前に、理想だけが先走ってしまえば、それはもうお花畑一直線なのです。

なぜなら、肝心な結果が出ないのだから。

理想を語ることは誰でもできます。それはある種のフィクションであり、人の頭の中に自由に描くことのできる想像上の楽園です。

でも、それを現実とどう合致させるのか、どう実現させるのかということになったとき格段に難易度が上がり、その人の真価が問われるのです。

結果がなく理想止まり。

それをお花畑の住人といいます。現実とのかい離が激しすぎて、もはや自分だけの理想のお花畑にその人は生きているのだから。

さっきも言いましたが、「政治は結果責任」とよく言われますが、これはこれで確かに重要なことを言っています。

「高尚な志のために、こんなにがんばったんです!」

と言ってもそれは何の意味もない空虚な主張であり、自動的に支持者はサーっと離れていく。 

有権者というのは、何らかの現状を変えてほしいと切実な願いを動機として集っているわけですから、彼らは最終的には理想や志、努力の過程などというものはほとんど評価しません。そもそも興味もなく、見てもいない。

別に大衆が正しいとは微塵も思いませんが、鳩山さんが気にするべきだったのは、

「結果がすべて」

ということであり、それを支える

「現状認識がスタートに位置する」

という、まさに成功哲学も言ってしまいそうな当たり前のことだったのです。

 

さらに。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」ことの真実性を、指し示した出来事がありました。

アメリカのイラク戦争の舞台で雄弁に実証されてしまったということ、これは有名な話です。

アメリカ的な「善意」とは、中東の民主化であり、独裁政権打倒による人権回復でした。そしてそのためには軍事力行使もじさないという姿勢です。

まさに、正義のためにはなんでもあり、攻撃的でもいいんだ、なぜなら相手は悪なのだから、というどこかの思想と意を共にするメンタリティですね。

さて、この正義が現実世界ではどう作用するのか。

当然アメリカの世界第一位の軍事力をもってすればイラク軍などは簡単に武装解除できたわけですが、その後突貫工事で作った民主化政治体制はその内実は素人集団であり、なによりフセイン独裁で抑え込まれていた多くの反政府組織やゲリラを息を吹き返すという事態が生じました。彼らは水を得た魚のように意気揚々と駐留していた米軍をあらゆる方向から攻撃しはじめ、米軍は疲弊、アメリカ本国の財政を圧迫し始めたのです。

そこへ現れたのがオバマ大統領。

「アメリカ撤退!」でアメリカ国内世論を汲み取り公約通り平和主義的な道を歩み始めましたが、その裏で高尚な中東民主化は中途半端で頓挫しました。

その副産物として魑魅魍魎のイラク世界からイスラム国が出現した、これが歴史の帰結でした。

 

これは、アメリカによるイラク独裁打倒⇒民主国家樹立、というシナリオを描いていた政権内部のネオコンたちを大きく戸惑わせました。太平洋戦争後の日本、GHQ主導で日本の無力化した実績がありアメリカエリート層はそれを信じて疑いませんでした。そこに理論的に依拠していたのに、現実の中東情勢は、なぜだか全然違う……。

血で血を洗う残虐な紛争が続き、米軍ですら抑えきれなかったのに、彼らが撤退したらいったいどうなるのか、これでは民主化どころではありません。元のフセイン独裁の時代より事態は深刻に悪化したのでした。

「中東の人々に、民主化による自由を享受させてあげたい(もちろん民主政権樹立後はアメリカも利用させてもらうよ)」

その「善意」は、政治的大混乱による無差別虐殺という「地獄」をもたらしました。 

善意だけでは何にもならない。

歴史は常に繰り返してきました。

 

このたった二つの例に共通する問題点は、「現実認識が欠如している」ということにほかなりません。

そして現実を曇らすのは、「事象の単純化・矮小化」です。

世界における日本、その膨大の情報の簡略化、

複雑な中東世界の矮小化

そして労働市場やそれを取り巻く日本社会への理解不足です。

あとにも解説しますが、今どき労働市場を(名称は”労働”とは言うものの)資本家と労働者の二項対立で解釈しているのが、もう致命的なほどの時代遅れであると言わざるを得ません。もはや、化石並みの頭の古さです。

1900年以前に出版された「資本論」を、この現代社会にそっくりそのまま当てはめて問題を解決しようなんて、まったくマルクスもビックリな世界の矮小化です。資本論の理論化を試みたマルクスですら、その完成をあきらめざるを得なかった理由は、社会の構造の変化にあったのです。今から100年以上前ですが、マルクスの時代ですらもはや資本家ー労働者の図式ではなくなっていた。そうドラッカーがのちに解説してくれているのですから。

それを、もう100年以上も経過しているのに、その間にどれだけのイノベーションが起こり、社会が変革してきたのか、それをいまだに古典によって解釈しようとしたらもちろん、

「現実が全く見えなくなる」

ということが生じます。

脳の構造からしてある程度抽象化して考えないとそもそも手が付けられないのは確かにそうなんですが、そしてそうすることは我々の貴重な能力でもあるわけですが、

一方でもちろん簡略化しすぎてしまうと様々な細かいけど重要な要素、関係する変数がごっそりとぬけ落ちてしまうリスクは常にあります。

それでは間違いが発生するわけですから、正確な抽象化、出来るだけ現実に近い複雑な簡略化をしなければなりませんが、これが脳の負荷がかなり大きい。

だから人は、脳が「疲れたよ、もう限界」といって作業をやめてしまい、ほとんどの人は中途半端で理解した気になってしまう。この「理解する」という作業は見た目以上に本当に難しいのです。

文献は調べた、

抽象化はした、

現場もある程度見た、

それでも間違う。

なぜなら、一面の真実を「すべての世界」と錯覚してしまうからに他なりません。

こういう脳の使い方を堂々としているならそれは、理解力の欠如、ということになるでしょう。

 

だから全く現状の問題は解決せず、現実は変革されず、えんえんと同じ状態が継続されますが、それでも自分は錦の御旗をもっているはずなんだと信じ、認知不協和を解消するべくイジケてギャーギャー叫び始める、そういうサヨク的な、無理矢理に暴力に訴えようとする革命家的な不健全な精神が蔓延するわけです。

まったく、歴史は繰り返すのですね。

現実が見えないのは、世の中にとっては極めて大きな損失であり、罪なのです。

高尚な理想や善なる志は持つのはいいことすが、そのステージで止まっていたら単なる純粋無垢な少年少女であり、大人になって精神がコレでは、幼稚であると言わざるを得ません。

どうもぼくには藤田さんがこのギャーギャーなる弱者救済のヒーローに見えて仕方がない。

それでもし何かが変わるならとっくに世界は変わってるんじゃないか、歴史上の天才たちもできなかった壮大なる理想を、君が実現するの?

「いやいや、まずは現状を見てくれよ。」

というのが、ぼくの率直な意見なのです。

「田端さんを地の果てまで追っていきますから!」「主張し続けますよ、社会をそうやって動かさないと」と言っているので、本人も認めている点ですが、

地の果てまで追っていくって,,,,,,,

これじゃまるでストーカー。

「ストーカー」という人々も、その問題は現状認識の欠如(自分の現状がわからず身勝手、相手の感情に無頓着で押し付けがましい)にありますから、「理解力の欠如」というのは、非モテの特徴と言ってもいいのです。

 

さて、極端な事象の矮小化は理解の欠如だとばっさり切り捨てましたが、その文脈で「高尚なだけの理想や志は、幼稚である」と言及したことに気付いたでしょうか。

矮小化⇒間違う⇒でもギャーギャー言う 

これが幼稚であるという議論です。

「矮小化は間違う」とも口を酸っぱくして言いましたが、

幼稚な理想論+物事の矮小化

これが合体すると、ひとつのザンネンな思想が浮き彫りになります。

それはこの藤田氏の主張の骨格である、

「労働者のたいへんな状況はすべて、資本家の搾取にある」

という部分です。

本当にそうなのでしょうか?

会社というものを考えたとき、それがピンハネで成り立っていることは間違いありません。自分の持つ能力や生み出した価値に見合った報酬が与えられる場ではない、そんなこと、藤田さんに言われるまでもなく、そもそも期待してはいけないことなのです。

これは一言で言うと、

「会社というのはポジションに見合った再分配の機能を果たしている」

からです。

この再配分の際、能力や成果はある程度加味されるかもしれませんが、それは雀の涙程度です。

あなたが社長で小さな会社を経営してるとしましょう。

事業拡大で、新規で3人雇わないといけない。

やじろべえを雇いましたが、こいつはどうも仕事ができない。

でも、最低賃金800円だから、時間に換算してひと月分の給料を振り込みました。

どうだろう、本当は時給300円分ぐらいしか価値を提供してないかもしれないなー。

でも、法律で最低賃金が決まってるから守らなければならない。あなたは善良な市民であり、善良な経営者なのです。

さて、他にも同人にAさん、Bさんを雇っていましたが、実は彼らが本当にできる新人でした、もう二人とも各々毎日毎日時給1500円分相当の働きをしてくれたのです。ありがとう。本当にわが社に貢献してくれましたね。では給料です。時給800円分で給与が支給されました。

この時給というのは、一律です。

そもそもの能力、やる気、勤務態度、に関わらず一定なのです。バイトの三人はそんなこと知りませんが、ただ本人なりに一生懸命働くだけ。

さて、会社は全体の運営のためにある一定を天引きします。これは国に納めるもろもろの税金とは別に、差っ引かれるものです。

そのあとの残りが給与になっている。

さて、もろもろが差っ引かれた後に支払われる給与は三人に成果に差があるにもかかわらずみんな一律ということは、どういうことを意味するでしょうか?

これは、

成果を出したAさんBさんの報酬を、(がんばったらしいが)成果を出さなかったやじろべえに「配分」しているのですよ。やじろべえの成果不足を彼らの働きで生まれた余剰成果が補てんしてくれたと言ってもいいでしょう。

大企業の場合、これが何百何千人単位で毎月スパッと一律になるよう再分配されているのです。

成果や価値をたくさん生んだ人も、なんにも生み出さなかった人と、一緒。

だって、それが平等でしょ。

これではA、Bさんはたまったものではありませんが、それが企業だから仕方がありません。いい思いするのは、わたしやじろべえです。エヘヘ。

これはみんな新人のバイト、というケースでしたが、

これがもっと大きい規模になるとどうなるのでしょうか。

バイトだけではなく、多くの役職を含めたケースです。

これは、役職に応じて同じように再配分されます。

もう一度確認ですが、能力や成果に応じてとは言っていません。役職に応じて、なのです。

だからさまざまな役職に、有能無能な人材、まじめ不まじめな人材が分散していて、それでもその役職に応じて既定の報酬が分配されていきます。ここでも能力がとびぬけてる社員や寝ずに努力してる社員の価値が、マイナス的なる社員、リーダー、課長、部長へと、吸い取られていき、平均化がなされます。じゃあ肝心なのは努力して成果を出すことじゃなく、睡眠削って人一倍働くことでもなく、ひたすら役職目指して昇進合戦に打ち勝つことだ、ということになりますね。

が、その肝心な役職を駆け上がる昇進システムは、人事部のよくわからない評価基準、なんなら恣意的な好みや、伝統の年功序列で自動的に決められていくのですから、世渡り上手な人が重要な役職に就き、再配分の恩恵をたっぷり受けているのです。(もちろんこの限りではないヨ。)これではそういう類の人の笑いが止まりません。

会社とはそういう不条理な、不合理な世界なのです。

 

こうなると、本当に怒るべきなのは誰でしょうか?

藤田氏が言うところの「かわいそうな労働者」でしょうか?

違います。

成果をきっちり毎月毎月コンスタントに出している社員が一番割を食っているのですよ。

彼らこそ、搾取の被害者といえるかもしれません。これは原理的にそうなのです。

藤田氏が提起したお年寄り、病気の人、一生懸命働いているけどたいへんな労働者、というのは上記の意味において「かわいそうな人」には該当しません。それらの人たちがかわいそうである、もしくはかわいそうなってしまった理由は労働構造とはなんの関係もない別なところにあるのです。

彼が言うところの「かわいそうなのは、搾取されてる人なんだ」という前提があるのなら、成果を上げている人こそかわいそうな人ということが論理的に言えてしまいますね。

 

ブラック企業で被害を受けた人からの相談を次から次にひっきりなしに受けていると、「労働者がかわいそう」、「ブラック企業撲滅」という気持ちが強くなるは当然でしょう。正義感が強ければ強いほどそうなるはずです。

が、だからと言って

「ブラック企業&そこで働く従業員の問題」と、

「ZOZOや前澤社長の私生活が贅沢に見えること」、

いったいどういう風にその二つが因果としてつながるのか?

すさまじい脳内飛躍であらゆる問題がグチャグチャと混乱している印象が、ぼくにはあります。

なぜまったく別の案件が、その境目が曖昧になり、いつの間にか同じ土俵で論じられ、無条件に善悪のレッテルが貼られるのか。

それはおそらく、問題の根底に「お金」が絡んでいるからでしょう。

労働者は疲弊してる、高齢者や介護が必要な人は医療の費用がかさむ、生活保護の人々にお金が回らない、

ブラック企業は従業員をこき使って賃金を払わない、前澤社長は月に旅行に行く!?

お金というフィルターを通して世界のすべてを善悪に分類していくと、本来つながらない出来事も、世界の悪としてバッシングする対象になってしまう。

そういう世界観なのです。

現に、彼の発言には「資本主義」を否定するものが随所に出てきて、もう二言目には「資本主義が社会をダメにした」「金持ちは卑怯なことをなんでもする」と息を吐くように言っていました。

確かに金は人を狂気へと誘い、人生を狂わせる変な力がありますが、それは金を手にして悪いほうへ変質してしまうその人間の問題であって、すべての人間がそうであるというのが言い過ぎなのは自明です(だからこそ田端氏は、一括りはおかしい、イチイチ細部を問い詰めていたわけですが)。

いずれにしても、本来お金は価値中立です。

それが、

お金があるやつは悪いやつ、

お金がない人は全員かわいそうで救うべき人

という単純な善悪のカテゴリ分けをしてしまう、その人々の人となりや出来事の背景など、何を知っているわけでもないのに反射的にそう判断してしまう。

「世の中金じゃない、もっと大事なモノがあるはずだ」などというお金への拒否反応は、マルクスによる資本主義批判の流れから来ていますから、学問的には何十年も議論されてきてとっくに終わってる話なのです。

だから金持ち/貧乏というだけで、善悪の区別をつけるのは本来不可能でナンセンスなわけです。

それをなぜ今ごろ蒸し返すのか?

それは、物事の本質とか原理や真理などの前に、単なるイデオロギー、もっといえば感情的な好き嫌いで物事の善悪を判断してしまっているからだとぼくは思います。 

「労働者の賃金が低いのは、資本家の搾取」

というイデオロギーが頭の中に固定化されていて、その結論ありきで思想が展開されることになります。

そして目の前にいる(相談者としての)労働者は”お金が無くて”こんなに苦しんでいる。

じゃあ、悪いのは誰か?

労働者の対極にいる使用者か、

お金そのものか、

お金を必要とする資本主義社会か、

お金を使って豪遊する前澤社長か、

「資本家や、大企業の使用者だ」、彼らは=悪だ、と。

目の前にいるかわいそうな人の、その反対側に位置してるものはすべて悪、という図式がポーンと浮かんできて、

これをどうにかしないといけない、→ 悪を懲らしめろ、となる。

懲らしめる方法とは、もっともっと(贅沢など出来ないレベルで)課税とか、常に攻撃的に批判する(だって悪なのだからそれぐらい許されるよね)とか。

これは、「やられたらやり返す」「倍返しだ」という勧善懲悪的なドラマが一時期流った状況と同じで、時代の空気だったのでしょう。

 

あのドラマの大衆心理は、本来敵でもない無関係な人を敵であると作り上げてしまう、その敵が苦しめば(自分自身の現状はなんにも変わらないのに)なんだか自分は救われるような気がする、というものです。

つまり、勧善懲悪的な思想が根本にあるということなのです。

 

まずはマインドセットだろ、という流れになってきたので、ではどういう姿勢で「働く」ということに取り組むべきかを少し付け加えておきましょう。

本来はcompanyとは、「ともにパンを食べる仲間」という意味で、共に働き、稼ぎ、生活の糧を得て、頑張る仲間というニュアンスを伝えています。会社は競合他社との熾烈な競争に晒されているわけで、その内部はともに頑張る仲間として同じ方向を向いていなければなりません。

同じ方向を向いているとすれば、

競争相手とはライバル企業かもしれない。

または異なる市場にある特定の要素かもしれない。

だから本来は、同じ方向を向いている労働者と使用者が必然的に、絶対に対立する、なぜならば搾取だから、という論理は成立しません。

競争や対立はどこにあるのかというとその中ではなく、外にある、これが経済学の原則です。

さらに。

カンパニーとして寄り集まったなら、その内部に集まった全員の「責任」が一律なんてことはありえませんから、誰かが責任をより多く持ち、経営の舵を取り、そのかわり報酬で報われる。

また、集まったのならその組織の運営に資金が必要で、集まったものの中でなんらかの調整や合意のために余分な資金が必ずプールされるわけですから、人間一人で自由自在に動くときとは話がガラリと変わってきます。

とすると、利益のすべてが「頑張って働いたから」還元されるというのもあり得ないことはすぐにわかるでしょう。

そして当然、

責任を負う必要のない労働者側と、

四六時中経営のことを考えて夜も睡眠が浅く、現在の日産のように問題が発生したらマスコミに頭を下げたり、説明責任をきつく追及されたり、どろどろの社内権力闘争に巻き込まれたりする、責任を多く負っている使用者側、

その両者における報酬(給与)がまったく同じ、ということもあり得ませんね。

ここにおいてもじゃあ経営者が全員優秀で、能力が高く、価値を生み出しているのかというと、そんなわけありませんが、そんな無能な経営者はすぐに首が飛んで交代するわけですから、その心配は織り込み済みです。

価値を生んでいる労働者が「搾取だ!」と感じていたものの実態は、組織(寄り集まった分の)としての広義の運営費(株主配当、もろもろのコスト、、など全部含めちゃいましょう)、無能な社員への再配分、コレだったのですね。

これでは、プロレタリアートの主張は成り立ちません。

土地を持っている「だけ」で小作人を働かせる強欲地主や、産業機械を所有してる「だけ」で労働者を働かせる産業革命のブルジョアの時代とはそもそも前提や構造が違い、そんな「だけ」事業者が生き残れるほど単純な世の中では現在はないのです。

ぼくも、月に行けるほどのお金がいったいどこから産出されるのか、という問いに多くの労働者の働きがあることは否定しませんし、もちろん1人社長で稼げるものではありませんが、「搾取」という論には一切与しません。

なぜか?

稼ぎ出された莫大なお金は出どころは搾取などではなく、その他の要因が圧倒的に大きいと考えるからです。

むしろ、そこには規模の経済が働き、そのうえでインターネットで相当なレバレッジがかかったり、そのすべてが効率的なビジネスモデルに乗っかれば、あっという間にそれだけの月に行けるお金が発生するのです。

まさに、アインシュタインもびっくりな複利のパワーですよ。

この複利が前澤社長ひとりだったら、複利もやはりそれなりでしょう、だから労働者が多く集まったからこの規模が達成できた、というのはそのとおりです。

集まってくれた労働者のみんな、ありがとう。

しかし一気に飛躍して、だから労働者至上主義が許容されるんだ、とはなりません。

労働者>前澤社長とは、どう転んでもならない。

なぜなら、その労働者も一人になれば何もできないからです。

その規模に助けられているのは、藤田氏の文脈で敵視されているところの資本家だけではありません、他ならぬ労働者自身が恩恵を受けている。

多くの人は一人でビジネスを始めてお金を稼ぐということはできません。

在庫不要なネットビジネス、資本金1円でも会社が作れる法改正、企業のハードルが格段に下がっても、それでご飯を食っていくことは本当に難しい。

労働者として働いていれば稼げたであろう最低賃金の時給すら、企業の外へ飛び出しては獲得することができないはずです。だからこそ、不本意だろうが自分の意志で会社に就職した。

個人事業の集まりであった江戸時代の商人たち、そこから時代を経て、カンパニーができてそこで雇ってもらう、福利厚生を整えてもらう、ケガして入院してもまた戻って雇ってもらえる世の中になった、今は本当に恵まれた時代です。

江戸商人のように、売り上げが立たなければ家族を路頭に迷わす、悪代官から文字通りに搾取される....、そう悩むこともない、

低いとはいえ安定して毎月給料がもらえる、やめても転職できます。

借金ゆえに家族を身売りした時代、というのは一昔前は普通だったのです。

そして、一人で起業して成功させるというのは、現代でもかなり険しい道のりです。資金も一生懸命貯め、アイデアもねり、情熱もある起業家が、数年後にはそのほとんどが廃業で、フリーランスから元のサラリーマンに戻り、「あんな不安定で何もかも自分で判断し責任を負う生き方はもうイヤだ、やっぱりサラリーマンのほうが安定してて楽でいい」と語る。

そうなのです。

労働者として雇われて働くというのは、そういうことを考えると多くの便益をカンパニー(集合体)から提供されている、そのインフラを使わせてもらっているということ。

それと、「一人で仕事する」のを天秤にかけたらやっぱり余裕でカンパニーの労働者を選ぶ、労働者になったら資本家から搾取されるぞ、とマルクスが囁いてもやっぱり労働者を選ぶでしょう。

労働者が一人になったとたん、1円も稼げないからです。

「労働者を集団で働かせて搾取している」-間違い

「労働者が集団の中で働かせてもらっている」ー正解

こういう謙虚な認識がないと始まらないでしょう。

我々は働く場を提供してもらっているのですよ。

 

さて上記の構造により、本来的に労資の間に闘争などないんだ、闘争するべき根拠もないんだ、そもそもそんな時代ではない、と告げられた僕らは労働組合というものをどう解釈すればいいのでしょうか。 

一昔前、ドラッカーは1969年に出版した『断絶の時代』ですでにポスト資本主義を予見していて、働いて飯を食う、つまり金を稼ぐということにおいてこれから重要な役割を担うのは「知識である」と言いました。

まさに、分業や機械化や人的マネジメントでひたすら効率を求める経営者のやり方は古くなり、IT化で知識をどう応用するかが産業においてカギを握る時代に突入しました。

さらに今となっては「ドラッカーが予見した未来」はもっともっと先に進んでいて、ネットを通して情報などいくらでも手に入るわけですから(=知識を得るのにお金が要らない)、知識自体に価値はありません。

情報リテラシー、つまりその獲得した情報をどう料理して提供するか、さらにその料理に個人のオリジナリティーがあるのか、それが重要な時代になったのです。

AIやロボットの台頭と、人口減少、これに外国の労働力が入ってくれば、いったいどのように前時代的なる労働を守る世界観が通用する余地があるのでしょうか。

こういうもろもろの社会的な地殻変動が起きるなら、古き良き日本の伝統「終身雇用」なんて制度は持ち堪えられません。東芝を見ていればわかりますが、大企業でさえ安泰ではないのですから、30年40年と仕事を保証してくれる会社はどんどんなくなります。

なんたって、会社がそんな危機に陥ったらまっさきに首を切られるのはほかならぬ「労働者」です。

だから、ドラッカーが知識労働をせよといった時代からはや半世紀、その知識労働でマネタイズするスタイルすら、もう梯子を外されてしまう時代だということを考えると、マルクスを云々しているなんて時代錯誤も甚だしい、もはや化石なんだということがわかってもらえるのではないでしょうか。

マルクスの理論的価値・思想的意義は残りますが、それを ” そっくりそのまま ”現代に 当てはめることはできません。

それでもマルクスマルクスというのなら、大幅にマルクス経済学をアップデートしなければ現代には使い物にならず、アップデートした後さらに適切に現代社会に応用する頭が必要になるわけですが、現代版にアップデートしたなら、おそらくマルクスはもうそこにはいないでしょう。

ぼくもけっして労働組合は否定しませんが、これだけなにもかも変化している状況で従来の労働観に固執している組合が果たして労働者の期待通りに機能しうるのか、ぼくは甚だ疑問です。

田端氏も強調してましたが、組合費を払って得られるリターンが「1秒単位の時給発生」なら、ぼくは悲しくてしょうがない。

もはや、ドラッカーやアラン・バートンが言っていること、そして労働市場の実状を総合すれば、労働組合に神頼みするという選択肢はどうひねっても出てこないはずなのです。

終身雇用が幻想だとすると、それはつまり一か所に留まることの難しいということを意味します。

そうすると、どこに価値を見出すのが重要なのか?

この答えは、

「移動」である

といえます。

価値が「所有」から「移動」になったのです。

会社の中の職位やポジション、文字通りの働く場、そういう会社の中で確保されている自分の居場所、そういうものを「所有」しているという価値観から、

自由に職を選べる、会社に縛られず実力に応じて、また自分の望むライフスタイルに合わせて職を転々とする「移動」の価値観です。

現代は知識社会の延長にある「知識を料理できるのに価値がある時代」ですから、移動を支えるのは広い意味での知識だと言ってもいいでしょう。価値の源泉は個人の頭の中の知識にあります。

どうせ一か所に留まれないんだから、自分で自由に動いていこうよ、という発想の転回なのです。

もう一度言いますが、社会が大きく変革すると、こういう個人の変化も余儀なくされます。どうやっても一企業で一生涯安定したキャリアアップは不可能でしょう。

その根拠に、 現在では正社員でありながら副業もOKという企業もドンドン増えています。大企業ですらそうなのです。

こういう企業による副業解禁というのは、ひとつの企業にずっと在籍することがもう無理なんだ、ということを向こう側から我々に間接的にメッセージしているのです。

ということは、派遣パートアルバイトを全否定するなら、そういう自由契約社員として「ちょっと稼ぎが増えればいい」、「責任は負いたくない」、「時間や会社の行事に縛られたくない」、「どうせ腰掛けだから状況が変わればサヨナラするよ」、という副業したい人の受け皿がなくなることになります。

どうせ高度な競争社会になり、企業が終身雇用できないのに、自由に副業したり職を選ぶこともダメ、副業しながら来るべき時代に備えておきたいのにそれもダメとする。これは今言った、価値ある「移動」を制限するほうに動いていることになりませんか。

マルクスに危機感を抱いたハイエクの気持ちがよくわかる、彼はなによりも人間の「自由」をもっとも重視していたからです。

社会というのは介入が過ぎると、人間の自由が根こそぎ損なわれる、これが彼の危機意識でした。

その意味で、自由契約社員という制度は選択の自由を提供してくれているという言い方もできるのです。来るべき時代に準備する制度と見ることもできる。

競争社会化が進み、移動の自由が広がるのは、「個人」化がどんどん進む時代です。個人の領域が広がります。だから知識社会なのです。

資本家にこき使われていた近代初期は、たとえ知識があってもどうにもならない時代でした。

が、今は違う。

知識があってその使い方がわかれば、個人はそれを生産力として行使しマネタイズできる、自由に移動しながらライフスタイルを構築できる時代になりました。

一企業内にある意味「縛ろう」(=移動の逆)とする組合活動は、個人の自由を毀損し、時代の流れと逆行しています。

だから、組合にも理想や善意があるのは承知していますが、それでも賃上げ!ブラック反対!と叫びながら企業にしがみつこうとすると、どうもそっちのほうが辛く、不幸なんじゃないかとぼくには思えてなりません。

藤田さんが心配するような「履歴書に傷がつく」のが、どうでもいいような時代が来るわけですよ。

要は、資本主義のあとに出てきた知識社会ですが、価値を生み出すものが「資本とか設備」だったマルクスの時代から、googleさんが教えてくれる「情報」へ置き換わっただけで(生産手段の変化)、やっぱり価値を提供できないんだったらやっぱりだれも評価してくれない、喜んで財布のひもを開いてお金を渡してくれないわけですよ。

こうなると、結局生活はいっこうによくなりません。

藤田氏が懸念を示したように「(労働組合などによる)労働者の声が弱くなっている」のは、労資の力関係などではなく、時代の変化であるということを強く認識しなければなりません。

 

ここまで来てなんとも希望のない話のように聞こえますが、まったくそうではありません。

知識を使ってのマネタイズ、個人化、移動、こういう時代を象徴する概念の先にあるのは「自由な生き方」だからです。

最初に登場してもらったドラッカーは、単なるマネジメントの先生ではありません。歴史家とか思想家の部類だとぼくは思っていますが、その彼は資本主義を否定しましたが、自由市場経済は支持しました。

なぜか?

資本主義は金額という数字で人や価値を計るので虚しいが、市場の中で自由に経済活動をするのは、そこに自由が担保されていて、その自由は「生き方」を結びついているからだ、というのが彼の思想の根幹にありました。

そう、生き方なのです。

派遣・パート・アルバイト、それも個人の自由で、生き方としてそれを自ら選ぶかどうかの問題です。

興味深いことに、自由やら生き方やらを説いたドラッカーも、NPOなどのコミュニティの意義はポスト資本主義においてますます高まるであろうと予測していました。

そして田端藤田バトルが繰り広げられたTwitterも、バーチャルのコミュニティですし、facebookにしてもインスタグラムにしても、テクノロジーは個人化の時代においてコミュニティを形成するツールになっています。

そして人は本質的にコミュニティを求めます。

人間は働いて日々の糧を得ますが、やっぱりコミュニティに集って交流を楽しむ領域が必要で、そうやって生活を充実させることに喜びを感じます。そしてそこに金銭的な報酬は関係ありません。

そう考えると、労働組合の 一番しっくりくる解釈はコミュニティであり、まるで課金サロンであったり読書会であったり婚活であったりと、目的がありそうで実は集うこと自体が目的化した集まりと言えるでしょう。

賃上げやブラック撲滅という目標を掲げてはいますが、真の存在意義はそういう同じ目的意識を持ってコミュニティに集う人々の交流の場です。

そう、労働者は交流したくて労組に集まっている。

賃上げが達成されるかはそんなに重要ではなく、その賃上げ活動の過程が楽しかったり正義感のエネルギーをぶつける場があったり何かに加入して帰属意識を実感してるがゆえに価値を感じているんだと解釈できます。

ここに喜びを感じれるのなら、賃上げされないけど組合費を払ってでもそこに在籍してる、という行為に矛盾はありません。彼らはその交流や活動に対して組合費を自ら進んで支出しているのですから。だから、コミュニティとしての労組の意義はそこに確かにあって、それゆえに労組を愛してやまない人々をぼくはとやかく言うつもりもないわけですね。

ハイエクやドラッカーが言ったように、労働組合に入るのも個人の自由なのですから。

労働組合=交流コミュニティ 

これが正しい理解ですよ、マジで。

余計なお世話かもしれませんが、言うまでもなく賃上げとか、ブラック撲滅とか、そういうものは期待してはいけないんだと理解したうえで、積極的に入ったほうがいいんじゃないでしょうか。

もう世の中には、すでに個人化にふさわしくあらゆるサロンやコミュニティが乱立していますので、なぜあえて、いわば企業専属のサロンである労組に入るのか、ぼくにはまったく分かりませんが。

 

さあ、この段落をまとめましょう。

だからこそ、働くという場面において、我々は「搾取」などというものは気にしなくていいのです。

そんなのほぼ無視できる誤差程度でしか存在していないのだから。

だから不本意にも前澤社長の金持ちぶりをインスタで見てしまったら、

「搾取されてて不満!」ではなく、

「羨ましいから不満!」という表現が正しくて、

それはルサンチマンでしかないんだ、ということにまず自分自身が気づかなければならない。

だから、田端さんがド頭にサッチャー首相の言葉をブッ込んだのは、正しかったのです。

そんな他人のことより、自分のやるべことをやろうよ、そのほうが幸せだよ、と。

ルサンチマンでは幸せになれないとニーチェも言っているじゃないですか。

悪を叩けば救われるなんてストーリーは、仮面ライダーに限られます。大人が生きる世界にそんなもんはないんだ、ということを一刻も早く受け入れて成功していきましょう。

じゃないとせっかくのその情熱も残念ながら周りの目には「幼稚」に移ってしまう。

子供ならかわいいんだけどなー、いい大人がやると、ねえ。 

 

 

 

閑話休題。

 

話を戻さなければなりません、

どこまでいったんだっけ?、、、、

そうそう、労働の現状をしっかり把握し、単純な善悪で分けたらダメですよ、そんな幼稚なことをしたらダメゼッタイ、ということでしたね。 

 

さて、勧善懲悪のマインドセットではダメ、と今コンセンサスを確認したところですが、

こういうマインドセットの問題というのは今見てきたような人生全般でもちろん成功を難しくしますが、モテ非モテ問題においても決定的なカギを握る要因です。

マインドセットは必ず言動に現れますが、言動に現れる非モテな空気が残念な結果に直結すると。

この残念さというのは、自分ではなかなか分かりにくい。そして周りこそが鋭くジャッジするわけですが、

では、そーゆー視点で「田端藤田の生討論を」見て学びたいところですね。

なんたって、藤田氏はぼくらの先生ですよ。

 

残念なマインドセットは数あれど、代表的なのが

「すぐに感情的になってしまうメンタリティの弱さ」

でしょう。

女子からしてみれば、男なのに感情的って、、とツッコミたくなるわけですね。

これは本当にイタイ。

 

余裕がなく感情的な男というのはいつでもイタイのですが、とりわけ問題なのは、「議論において感情的」という場面です。

議論において、自説の正当性を示すのにドン詰まりになってしまったとき(正当性が無いか、正当だがその説を展開する力が無いとき)、精神的に弱い人というのは感情的に議論を進めようとしまう。

これはそうとうな悪手で、禁じ手です。

前提自体が間違いなのが、前提の上に積み上げる素材や論理が脆弱なのかわかりませんが、だからといって感情一辺倒で過剰に煽るというのは、いただけません。

議論においてそういうマナーをわきまえている人というのは、多くありません。

殊に日本人は、議論の対立によって自分の意見がバッサリ否定されたとき、=自分の人間性を否定された、と感じてしまう傾向があるようです。

「あなたの説はここがおかしい(整合性が無い、データがおかしい)ですよね、こういう見方はできませんか?」

という反対意見を、

「あなたはそんなふうに考えるなんてバカなんですか?人間のクズですね」

と自分勝手に解釈してしまう。

議論というのは、個人の人間性と本来関係ありません。

汚い人間性やその偏見からひねり出された意見も、それはそれで簡単にひっくり返されて論破されてしまうので、そんな議論のシロウト的ケースは省くとして、

論者同士がディベートするときは科学、数学、哲学、政治、会社のミーティングから近所の井戸端会議に至るまで、その論題自体について話し合うわけであって、相手の人間性を云々しているわけではありません。

純粋に、誠実に、その問題解決のために、知力を尽くす。

「純粋に」というのは 、さっき言ったことですが、人間性は関係ないんだから論題に集中しろ、ということです。

では「誠実に」、とはどういうことか?

ノーベル賞を受賞した本庶さんが非常に示唆に富む言葉を残していて、

「信じない」「自分の目で確かめる」大切さを、

「よくマスコミの人は、ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ、という話をするが、それらに出ているものの9割はうそ。ネイチャー、サイエンス(の論文)も10年たてば残って1割だ。自分の目で確信できるまでやる。自分の頭で考えて納得できるまでやる。」

という奥深い言葉で表現しました。

彼は生理学・医学の分野ですが、そういう自然科学の世界では、世界の謎を解くために自分の組み立てた仮説、それをあれやこれやで証明し、それを提出し発表します。

そしてそれに「間違い」がないか、その他大勢のレベルの高い専門家によって評価検証されます。

本庶さんが言いたいのは、

そうやって精査されて見事合格した論文がネイチャーやサイエンス誌に掲載される、しかしながらそうやって掲載された論文の中にさえ、「うそ」が混ざるんだ、と。

そしてそのうそがわかるのはいつかというと、彼はそれを「10年後」と表現しました。

今、テレビで話題の〇〇の油が体にいい、〇〇な運動がいい、テレビで流れると次の日一気にスーパーか売り切れてら消える食材、

今後2029年には、そんなもの体にいい作用はまったく確認されずむしろ害であった、なんてこともあり得ます。

時が経てば経つほど研究が進んだり、新しいイノベーションが突然起きたり、後続の優秀な研究者に理論的に否定されたりして、「あれは間違い」となる。

それこそ、真理が試される時の試練。

「10年経って始めてわかる。自然科学の真理の森から解明できた真理たちは、すべての論文の中のわずか1割」ということです。

真理を解明したかに思われた9割が、時の試練に耐えられず、いわば「うそ」であったことが明らかになる、と言っているのです。

研究者たちが相手にしているのは壮大な自然の真理なわけですから、その真理に到達できる可能性などというのは1割でしかない。

さらに膨大な年月が流れれば、ふるい落されて、もっと残りません。

長年真理だと信奉されてきたニュートン力学でさえ、アインシュタインによりひっくり返され、「一定の条件下での、部分的な真理」ぐらいの位置づけとして、取って代わられてきたのです。

人類の英知を集結させてきましたが、人類史が解明できた真理はほんとにわずかなのです。

自分が解明しよう挑戦し奮闘している相手がいったいどれだけ壮大なのか。

その真理の森のデカさを目の前にしたら、自分の無力さにがっかりしますが、それでも真理に魅せられる科学者たち。

その際重要なのが、「間違いを気にしていたら、研究なんてできない」ということであり、それは翻って「自分は常に間違っている」という謙虚な気持ちなのです。

「自分が真理に到達できると思うな」 

といつも自分を戒めつつも、誠実に研究に取り組む。

こういう知に対する誠実な姿勢が必要なのです。

 

こういう態度で真理の解明に取り組むなら、たかだか他者から否定され「間違いだった」が評されることなどなんの問題でもない、素直に受け入れ、ありのままの現実を見て、また再び走っていくためのステップにすぎません。

そして言うまでもないことですが、人間性の拒絶とは1ミリも関係ない。

心身二元論が間違っていたからと言ってデカルトが愚かなのですか?

むしろ後世の天才たちに重要な問いかけを残し、そして彼らに理論の基礎を与え、喜んで踏み越えられる土台になったのではないですか?

そうやってアカデミーは常に偉大な先人の理論を前提としてその上に自分の理論を構築する、いわば彼らの肩に乗せてもらって世界を眺め、それを解き明かすことに心血を注いできました。それは逆に、もし自分が世界を変えるような発見をしても、時間の経過とともにいずれそれは踏み越えられ、アップデートされていくことを意味しています。

もう一度言いましょう、人間は真理には到達できないし常に間違います、そしてその自説の間違いは人間的愚かさは関係ありません。

 

日本ではこの重要な点が見過ごされていて、どこか議論における否定や反論は、自動的に敗北や敵対のようにみなされている、本当に残念なことです。 

 

いづれにしても、議論で「どうも自分が力不足だな」と実感したとき、その前提や背景など全てを含めた自説を、もう一度再考しないといけない。

感情的になって間違っている蓋然性の高い説を押し通すなど、もってのほかなのです。

そういうマナーがない人は何かを議論することなどできない。何かを語ってはいけないのです。 

 

さて、議論をする際の最低限の作法をまず予習したうえで、今回の対談のイタイ部分をピックアップしてみましょう。

今回の藤田氏の主張ですが、

☑富裕層にもっと課税すべきか?

☑最低賃金を上げるべきか?

これでしたね。

 

主張をするなら当然その土台にある根拠をセットで示さなければいけませんが、彼の場合にその根拠は何なのかを突き詰めていくならその行きつく先は、すでに言及したような

「かわいそうだから」

なのです。

「頑張っているのに」、なのに報われないから彼らの待遇を上げなければいけない。

という非常に主観的な、すべてを感覚に頼った理由で、根拠が提示されているのです。

待遇を上げるとは、主に賃金のことで「お金」の話です。労働者にお金がもっとはいっていくべきだと。

そのお金の出どころはどこかというと、政府の社会福祉であったり、企業の支払う賃金ですが、当然ながら誰にどう配分するかはもらう側が自由に決められるもんではありません。払う側が身勝手に独裁的に決めるのも問題ですから、すでに最低賃金やら、それを守らせる法整備はすでになされているわけですね。

経済は、企業と家計と政府、それに外国からの影響を考えてお金とモノの循環を考えますが、常に循環しているわけですよ。

どこからともなく湧いてくるもんではなく(資源国は湧いてきますが)、なんらかの財やサーヴィスを提供した対価としての報酬を「お金」の形でいただくことができるわけですね。

「がんばったから」「かわいそうだから」、もっと賃金を上げるというのは、

では、がんばっている/がんばっていないとはどのように決めるんですか?いったいそれを誰がジャッジするんですか?

という、恣意的に決めてしまう領域が発生しますね。

この恣意性を完全に排除することはもちろんできませんし、ある程度その余地を残しておくのも必要でしょう。

しかしこの「恣意的な」決定が害を次から次に生み出してきた、もういろいろな実例が歴史には存在しています。

共産主義国の持続不可能な状況もそうだし、今ニュースで話題の軽減税率もそうですね。

テイクアウトとイートインをどこで線引きするんですか?

「外食するつもりだったけど、急用ができたんでやっぱり持ち帰りでお願いしま~す」

というのが多発したら、飲食店は余計混乱するんじゃないですか?

感情的に、恣意的に物事を決めたらそういうふうに「あっちを立てればこっち立たず」 ということが簡単に発生します。

優秀な頭脳がそろった官僚ですらこうなのですから、ルサンチマンでガーガー言ってした決定なんか、社会システムに歪みが生じるのは目に見えています。

貧富の差がある、じゃあ富裕層から奪い取ればいい、なぜなら、

「余っているから」

と簡単に言えてしまう人に、社会全体や未来のビジョンが見えているとは思えません。

かわいそうな人を救済するのは、社会保障であって、それは政府がやることで、企業に対してワーワー言うのはお門違いというものです。いくらそれが現状で難しくても原則は曲げられません。

それどころか、本当の意味で救済するなら、

「魚を与えるのではなく、釣り方を教えよ」

これしかありません。

教えても釣れない人のために、最低限を保障する社会システムがあるわけで、

無条件に魚を与え続けるのはどうなのか?という疑問がどうしても付きまとうんじゃないでしょうか。

その魚はどこからやってくるのか?(財源の問題)が田端氏の主張で、

無条件に魚を与えると誰もがんばらないよね?(個人を成長やその社会への影響)というのが竹山氏の主張だったのです。

 

それで、

感情的になってしまうメンタルの弱い人というのは、どこまでいっても最終的には感情で物事をジャッジします。もう後半は藤田氏の感情論のオンパレードでした。

藤:「死んじゃったりしてる人がいるんですが、どうするんですか? 困窮してる人もいっぱいいる」

それは企業のせいなんですか?ZOZO一企業がその責任を取らなきゃいけないんですか?

藤:「賃金出そうよ、大企業は背中見せてよ」と懇願している

それは自発的にすることで、他人から言われることではないんですよ。

課税を議論するのに、背中見せてって、、、

藤:「ZOZOの人を愛してあげてくださいよ」

??

具体的な案がなく、論がボヤッとしてる人特有の最終兵器、愛とか悲しみの出番です。

 

田:「でもあなたのNPO法人、17万で募集してましたよね?」

藤:「そんな、、弱小NPOと比較しないでくださいよー」、

自分たちを弱小と言ってしまう卑屈さがとてもザンネン、これじゃ「世の中金じゃない」と純粋な動機でNPOについてきてくれてる人に失礼じゃないかなー。

こういう卑屈、KY、失礼、なんてまさに非モテの特徴じゃないですか。

 

田:「べつに前澤さんは法的義務だけ果たしてるわけじゃなくて、義援金とか寄付とかしてますけどね」

藤:「アメリカとかイギリスとかの富裕層はもっとしてますよ、ZOZOはぜんぜん足りない」

いや、あっちは役員報酬が日本人が思ってるよりマジで高いですから。

わかってるんかなー。

つまり、彼が例として挙げたアメリカイギリスは英米型資本主義と言われていて典型的な株主の利益を最重要視する市場形態なので、これこそ労働者ファーストの藤田氏もっとも嫌うはずのエリアなのですよ。

だからこそ、そういう形態をとる国々の経営者のポケットマネーは莫大で、ポンッと高額を寄付金として出すことができるにすぎません。

藤田さんは所得税や金融資産課税の割合の時も外国の事例を引っ張ってくるのが好きなようですが、そもそも今回の日産のゴーン社長がタイーホされた案件をみてもわかるように、世界の大企業経営者の報酬は日本の経営者のそれと比べて圧倒的に高いという、グローバルスタンダードとジャパンスタンダードの所得ギャップが問題となっている側面もあるわけですよ。なのに、アメリカの富裕層はもっと寄付してるだガーは、たくさんもらってるからたくさん寄付するだけのことかもしれないし、財団は運営のテクニカルな部分でそうしているかもしれず、純粋に愛の動機でそうしているのかはわからないわけですよね。

そんなふうに、寄付の実態などいくらでも解釈が可能で、彼がそれを例として引き合いに出すのは、取って付けたような感情的反論です。

金融強欲と世界から揶揄されることの多い英米企業の例を、愛や助け合いなどの寄付の文脈で持ち出すのは矛盾していて、完全にブーメランなのですよ。

そしてもっとブーメランなのは藤田さんの「ZOZOぜんぜん足りてないですね」の発言で、

「そんなこと、あなたに言われなくない」

の一言で終わる話なのですね。

視聴者にアンケートして惨敗でも、

「いやーこんなに支持してもらえると思わなかったなー、みなさんありがとうございます~」

って。

「これからこの状況をひっくり返していきますよお」

って。。 

もうぜんぜん意味が分からないのですが、なによりこの状況を分かっていないであろうのは、藤田氏本人だということです。

こういう負け惜しみなところとか、「藤田さんは才能あるんですよー」とか上から目線なところとか、

「これではモテるわけがない」

ということが周囲の人、視聴者はみんな気づいて、鋭くジャッジします。

弱者救済の優しい心は大事ですが、もっともっと大事なのは、

人間としての「総合的な魅力」であって、

『人としてモテているか?』

なのです。

人として総合的に成長すればおのずと魅力が出てくるし、これこそが人生に最高にレバレッジを利かせる方法です。 

 

「賃上げして月にも行けばもっとかっこいいですけど」なんて理想論、かっこよくもない人が語ってはいけない。それは反社の恐いお兄さんたちが道徳論を語るのと同じレベルで無意味な言説なのです。

前澤さんはこれに対して、

 

 

と素直で優しい大人なコメントを残していますが。

 

 

このように、議論が感情的になると最終的には水掛け論になります。

ぼくは議論で感情的に突っ走る人を見ていていつも思うのが、そういう感情任せにガーガー言うのもそうなんですが、異常に他の人の意見を聞かないという特徴があることも見過ごせません。

これも議論のマナーに関することなのですが、

さっきとりあげた感情的発言というのは、自分は絶対正しいんだというある種の信仰心のようなもの、自分に対する不健全な評価からやってくる言動ですが、

この他の人の意見を聞かないというのは、議論する相手への理解がぜんぜん不足していて、他者への歪んだ見方が作るマナーの欠如した態度なのです。

ぼくも興味を持った一つのテーマについて学ぶ際は必ず、異なる二つの学説を突き合わせ、一人ディベートのような感じで読書なり調査なりするのですが、それではじめてそのテーマに関する正確な知識が深まるし、全体がつかめるし、それでいて細部の輪郭がはっきりするのを感じています。

議論というものはまあヘーゲル的なジンテーゼに至るために、より良い結論を導くためにやっているわけで、勝ち負けや善悪を白黒つけるぞ、というのはまったく違います。

より良い結論を導くためにはまず両方の意見がきちんと理解できなければいけませんが、議論をしている当事者にとっては相手方の意見、その背景や根拠、言葉になってないニュアンスなどを必死になってくみ上げることが要求されることになり、それができてはじめて自分のターンに建設的な発言をするのが可能になります。

感情的になる人は、相手の見解を受け入れる度量がありませんから、聞いているようで相手の話を聞いていません、むしろ次に何をしゃべろうか考えているという、ピッチャーが投げる球をろくに見ることもせず自分勝手にバットをブンブン振っているようなものなのです。

これじゃかみ合わず、結果が出るはずもない。

「相手の話を聞いていない」

まさに、非モテの「オレがオレが」に共通する不誠実な態度です。

これは弱い精神性もそうですが、ここにさっき挙げた勧善懲悪という世界観が混ざるともっとひどい。

相手は悪だ、というマインドがセットされていますから、結論はありきなんだ、ではどうやってこの悪を成敗するかなんだよ、ということを目的として議論の席についているわけです。

こんなの、中世の宗教裁判と同じメンタリティですよ。

悪の意見や主張を聞く必要はない、聞いてはいけないのですから。

 

こうなると、議論において自分に反論する人は、みな悪いやつに見えてしょうがない。

「どこかに悪い奴がいるはずだ」と ”反射的に”  敵を作る思考パターンです。

ここで「敵を作る」と表現したことには意味があって、敵を発見する、でも、敵を特定する、でもなく「作る」、と。

 

実際に、竹山氏とバトルしてしまいました。

カンニング竹山がヒートアップしてきて、Twitterで#竹山藤田の生討論??と笑われたようになったわけですが、

竹山氏は労働組合の取材経験から、労組のおかしな所や、頭を使わないで同じブラックに入る人そんな失敗ばかりする人々の問題を指摘したら、

「竹山さんはどうして、ブラック企業を批判せず、労組や派遣/バイトを批判するんですか?」

と藤田氏、エモーショナルに反論してしまいました。

これは訳すと、

「竹山さんはどうして、悪の味方をするんですか?! 信じられない」

という意味です。

労組の意義、労組が労働者に与える影響を中心に話し合っているのに、それを批判すると悪になってしまう。

「労働組合は必要か?」

で議論がスタートしてるのだから、竹山氏もそういう経験を話しただけだなのに悪いやつになってしまいました。悪いかどうかの判断は慎重を期するべきなのですが、さっき言ったようなプロセスでそう悪が作られ、そう認定されてしまったのです。

ついさっきまでは大企業批判で課税や賃上げで相手を批判するべく威勢よく話してたのに、自分が批判されると逆ギレのような質問返し。

労組の必要性や存在意義を議論しているのだから自分の土俵のはずなのにそんな反応をしてしまうのは、労組に反対する人は誰であっても悪いやつ、と考えていることが露呈してしまいました。

なぜなら正義である我々に反対しているのだから、反対者はいかなる理由があっても悪だ、というロジックです。

だから、相手の話を聞かないし、理解することもなく、ギャーギャー言っている。

こうなると、具体的な論旨の確認やディテールはどうでもいい、声が大きい方が勝ちという世界に入ってしまいます。

田端氏が指摘する「資本家の定義は?」「最低賃金いくら?」「ブラック企業ってどこよ?」「税率何パーセントにしたいの?」というとてもめんどくさい細かな質問攻めがうっとうしくてしょうがないでしょう。

このシツコイ質問自体は抽象的に捉えたモデルの中で、取捨されてしまった具体的な事象を取り戻そうとする現実的な問いかけなわけですが、そんなものはどうでもいい。

むしろ、彼にとってはこれは、自分を陥れようとする悪魔の罠なのです。

田端氏の理論は悪知恵を使った悪魔的な論理で、善を丸め込んで悪に同化させようとする主張だから、絶対に耳を貸さないぞ、という姿勢だったのですね。

その証拠に視聴者アンケートのとき、「田端さんの意見に騙されるな!」などと言っていました。

さっきも言いましたが、こういうマインドで議論する人というのは必ずいます。

相手は悪だから耳を貸してはいけない、ダマされないように、という態度です。

しかし、これでは議論という目的を大きく逸脱していますから、悪に騙されないとかなんとかは関係なく、見ている人は「人の意見を聞かない不誠実な人」という印象を持ちます。

もちろん自分は善というのが前提で、=独り善がり、というネガティヴな印象も一緒に与えてしまいます。

議論からは何も得られず、

見てる人を助けることもできず、

自分自身もボロボロに傷つく、

何もいいところはない。

確かにこの世の中に生きていれば、悪いやつというのはかならず存在します。

ぼくもそれは否定しません。

それは地下経済の動向をみていけば明らかで、国家権力をもってしてもそういうものは根絶やしにはできない、法律や警察の力を動員しても不可能だということが、非常に残念なことですが痛感されてしまう。

でも藤田さんのように、自分の反対の立場は自動的に悪と断定する、だから相手の意見は聞かないというのでは何にも生産性がない。

勧善懲悪的なパラダイムで生きるかぎり、それを基にコミュニケーションをしようとするかぎり、幸せとか充実とか満足とかとはやって来ないのです。

 

ぼくは藤田さんの搾取説を聞いた瞬間、以下のような疑問がドッと浮かんできたんですが、どうでしょうか。

ZOZOぐらいの従業員規模で労働者ひとりひとりのピンハネしたところで、果たして月に行けるほどのお金が本当に捻出できるのか?

そんな”地道な笑”ピンハネ、本当にしてるのか?

それなら世界のトヨタやパナソニックはピンハネの集積は桁が違うんじゃないか?

それとも月に行くぐらいだから、ZOZO一社のピンハネがよっぽど酷いのか?

ならZOZOの離職率は、ビンハネブラックに相応の高さと断定できるのだろうか?

むしろピンハネがすさまじいはずの世の中の有名ブラック企業はバシバシ月に行くんじゃないか?

なのに藤田さんはなぜ前澤さんをやり玉に挙げてギャーギャー言ってたのか?

やっぱり目立ってたから?それだけですか?

そういう疑問が自然に想起されるわけですが、こういう疑問がボンボン出てくるようならどこかがおかしいと言わざるを得ません。感情でバイアスかかるとどんどん真実から遠ざかってしまうのです。

だからこそ、人の話はきちんと聞きましょうね、という当たり前な話なのです。

 

実力不足でもダメ、 

誠実に真理を追求しないのもダメ、

謙虚に相手を理解しないのもダメ、

どれが欠けてもたかだか「いい人」で終わり、魅力というものは輝きません。

 

モテに関する分析でここまで長くなるとは、、、

自分でもオドロキです。

議論というのは本当に人間性を白日のもとに晒しますね。

 

まとめ。

議論を通して、議論の煮詰まり具合、調査、広い視野、歴史的意味、というもろもろの論者の造詣が透けて見えますが、ひとつ藤田さんに感じた印象としては、

「理解、態度、目的意識、メンタリティ、そのすべてが脆弱」

ということです。

 

「あー、それじゃモテない!」

とツッコンでしまいました。

 

藤田さんがモテないかどうかはもちろんわかりません、実際のフィールドワークによって調査したわけでも、知り合いでもありません。もちろんすべて僕が鋭く感じ取ったの感覚の話です。

ここまで理屈を並べてきましたが、モテなさというのは、語弊を恐れず言えば感覚の世界です、そう感じるかどうか。そこに理屈はありません。

モテを分析するとき理屈っぽい手法を取りますし、がんばるべきプロセスを踏むときこうやってゴリゴリ考えるわけですが、それが「実る瞬間」というのは、どこまでいっても感覚で判断され評価されるのです。

だから二人が生討論で席に着いた瞬間、もちろん議論が始まる前から決着はついていますぼくらが彼らのこと知らなくても、彼らは一言も発しなくても、すでに勝負は終わっている。まさに宮本武蔵の世界で、対峙した瞬間終わっている出来事です。 

相手の力量がビンビン感じられる、「あー、これは敵わないな」と。

それは主観的にも客観的にも「わかる」ものです。

上記のように、ぼくが藤田さんとさらにはその周辺にいる人たちに感じる違和感の正体はココです。類は友を呼ぶのでしょう。そろいもそろって、そうです。

その界隈のTwitterやブログをちょっと見てもらえれば感じ取れるでしょう。

カッコよさ、人間的に引き込まれる吸い寄せられる魅力というものが感じられない、逆になんだかマイナスのオーラすら感じてしまう、感覚で判断するとどうしてもこういう評価になります。

devil’s advocate的な役割を担うと人間そうなっていく。「反対反対」とだけ叫んでいる人が、どうしてかっこよくなれるというのでしょうか?

男でさえそう感じるのですから、この感覚というものが男の何倍も発達していて、微妙な非モテを瞬時に、正確に嗅ぎ分ける女子はなおさらです。

まさに嗅ぎ分ける犬と一緒で、空港で麻薬に密輸を取り締まる警察犬のように、絶対に彼女たちはそれそういう情報を逃さず、峻別していくのです。

もちろんしつこいですが、「優しい、正義、だけど非モテ」というのはあり得ますから、がんばるべきはそこじゃない。強いて言えば「マインドセット」でしょうか。

一見高尚な理想を掲げていても、マインドがまったくもってズレているという状態は、今回の記事で十分わかってもらえたと思います。

理屈ではなく感覚の世界には、平等というものは存在しません。

生まれた瞬間にある程度の人的リソースが決まっています。もちろんそれを最大化するように努力しますが、間違いなく限界がある。ぼくがどんだけがんばっても竹内涼真には勝てない、そんなの当たり前で、まさに生まれた時から勝負は決しているのです。

だからといって、ギャーギャー騒ぐ、反対反対と言うべきなのでしょうか。

スポーツでも、ビジネスでも、芸術でも、才能やセンスがものを言います、そしてどうしても結果平等にはなりません。

でもそれを受け入れないと何も始まらないのではないでしょうか。竹内涼真はイケメンだからと彼を叩いたら、何か生まれるのでしょうか。そんなのまったく意味がない。叩いたボクの状況が何か改善されるわけでもないのだから。

だから、正しく努力していきましょう。

 

藤田さんとはなんの面識もないですが、結果的にまさかこんなにディスることになろうとは思いませんでした。すんません。m(__)m

そして、教材提供ありがとうございました!

 

皆さん、「人の振り見て我が振り直せ」、他人の非モテを笑って終わりではなく、さらにモテに邁進していきましょう。

  

でも、SNSは流れが早いなー、田端さんのつぶやきはとうの昔に過ぎ去っていたのでした。

まったく、旧世代はついていけないヨ。

 

規模の小さいブログではありますが、重大に事実誤認を発見されましたら、コメントまでご連絡ください。

 

 

やじろべえ

 

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