負けられない恋愛トーナメントにおいて「きれいごと」は、最低限持っているべき要素です。これは前回話したとおり。
彼女ほしいと言ってるやつがきれいごとを排除してきれいごとをバカにして男らしい規律やポリシーもなく、ただただ「ほしいほしい」「くれくれ」言っているとしたら、全くの場違いでしょう、そいつの存在意義はありません。
お前は何のためにこの戦いに参加したんだ、となるからです。戦う気持ちや戦略や目的意識がないなら来るな、と。
まず整理しましょう、
きれいごとに対する反応が、その人のステージを明らかにします。
(1)きれいごと全否定、きれいごとは不要とはき捨てる
(2)きれいごとに好意的、でも当たり前のことができないから、それを語るレベルにはいない
(3)きれいごとの本質がわかっている、当たり前のように成功している
大きく分けて3種類でしょう。当然(3)を目指すべきですが、(2)で停滞しているときれいごとに対する逆風に遭ったときあっというまに持っていかれますね。その反動で強烈なアンチになりかねません。
以下、分析です。
(1)そもそもきれいごとが物事を成すうえでの根幹に位置していることをなかなか見分けられないこういう人は、何かのテクニックや一発逆転ばかり狙うスタイルになってしまいます。近視眼的な考え方になるので長続きする成果がなかなかでません。
これはたくさんテクニックを学んだけど、なんか最後の詰めが甘い状態ともいえます。テクニックはビッグメーカーのバットや新素材のシューズ、新デザインのグローブのようなもので、絶対に勝ちに行くんだという強い気持ちのもと、日々練習に励んだ身体があって、それがあってはじめて役立つ最高のツールたちなのです。でなければ何の意味もなさないテクニック、「それ、お前には使いこなせねーよ」と。
テクニックにコミットしてつきつめても、雲の上には届かないのです。
自分の立場やステータス、持ち物、肩書き、ではなく、男らしさとかそういう人間性で勝負できるのは、テクニックに頼るのではなくきれいごとをこつこつと積み上げた男です。外的要因に頼る男こそきれいごとをバカにする傾向がありますね。見る目のある女は少し接すればその薄っぺらさはすぐ見抜きますよ。
(2.)は非常に惜しいのですが、勉強好きで知識欲はあるが、実践が足りない人。努力が結果になるまでの比較的長い道のりを耐える精神力に欠けた人といえます。
地味なことを軽視し派手な結果ばかり求める人でしょう。
成功者ストーリーの中では当たり前の地味なことが描かれていますが、それでは満足できず、新たな成功法則を求め自己啓発巡りをする、そういうタイプだとぼくは見ています。「なんだよ、うまくいかねーじゃねーか」が口癖。これは無意味などころか、有害なのです。
大事な時間とお金を使って、きれいごとは使えない、と自分に刷り込んでしまっているからです。まずは「またか」と思うのではなく、愚直にこなすことこそ唯一の道という謙虚な態度と実践で凝り固まったパラダイムをシフトする必要があります。だってこれが成功者みんなが言っている共通点なのだから。
「あ~わかるよ」と「出来るよ」の間にはすさまじく高い壁があるのです。わかってるけどできない、をがんばって超えなきゃいけない。
でなければ、きれいごとが“似合う男”にはなれないでしょう。
(3)言行一致な人で、きれいごと思想に基づく実践と訓練の実績により、説得力を持つ人です。
この「思想に基づく」「実践と訓練の実績」という2つが同時に、というのが重要で、結局、思考と行動なのです。
以下に2つのだめパターン。つまり、
1.理想や明確な目的意識なくただ何かを反復するのも、
2.イケてる名言を聞いて満足するだけ、何もしないのも、
どちらも片手落ちな状態なのです。
意識的な反復、きれいごとと自分の照合、成長感の自覚、配慮あるきれいごとアウトプット、そうやってきれいごとを主軸にすえて、どんどん基準をあげていくのがきれいごとが「様になる男」なのです。
再度強調しましょう。
こういうモテる男、できる男は、きれいごとをバカにすることなく、当たり前のことを粛々とこなし、さっさと成功している人です、あらゆる分野で。
日々きれいごとをなす人の発言はバチバチと力があるし、口だけのやつが言うと「お前が言うなよ」という感情が生じますね。これは不思議なことです。同じことを言っているのに印象や影響に大きな差が出る。
一定以上の努力を自分に課すことが苦手な僕ら人間にとって、「口だけ」は気をつけるべき落とし穴ですし、世間に口だけ番長が増えるゆえに、結果としてきれいごとが批判されてしまうのも、仕方のないことですが、だからといってきれいごとが不要になるわけではありません。
「目標は優勝」がたとえきれいごとであってもその意思があってはじめて勝負が成立するのと同じように。
数年前に「まずはフツーをきわめなさい」という本が出版されました。この本の主旨はフツーの平均的人間が価値をもつということではなく、口だけ番長に対するアンチテーゼなんだと思っています。まずやれよ、それをやれてはじめて、つぎのステップにいける、そういう順番があるんだと。そういう意味で人の成長過程における基礎編のような内容の書籍ではありますが、一発ファインプレーの土台には、普通のことをやれる当たり前練習が隠れているんですよと、当たり前のことを確認させてくれるものです。
強い気持ちで勝負に行く人と、きれいごとだと片付ける人。
強い気持ちを結果につなげる人と、気持ちだけで結果が出ない人。
きれいごとでスタートし、当たり前の努力を継続しする。その先に僕らの目指す男らしさのオーラをプンプン放つ男の姿があって、そうゆうヤツは自然とモテる。
では当たり前の努力とはなんでしょうか?
これは少年時代を振り返ればわかりますが、自転車にしても、スポーツにしても、何かの遊びを考えるにしてもそうですが、物事をマスターするときは少し難しいかなというレベルにチャレンジし、失敗しながらも繰り返しやるというのが一番の近道です。
ダニエルピンクはモチベーション研究で、マスタリー(熟達)を明らかにしていますね。
「マスタリーとは、価値ある何かを上達させたいという欲求」
と定義していましたが、ここからすると、
自分の興味関心によって「価値がある」と感じたことをやる上で、現時点では手の届かないぐらいの目標設定のもとトレーニングすることですね。
要は上がるか上がらないかの重さのベンチプレスをこなして始めて力がつくのと同じです。年配者ような軽すぎるトレーニングじゃ意味ないし(もちろん目的によりますよ、リハビリとかは別)、ボディービルダーの真似しても体を壊すだけ。ちょい背伸びしたぐらいの負荷がちょうどいい。身の丈にあった、でもチョイしんどいぐらいの頭脳・身体・マインドトレーニングを積みましょう。
これは「出来もしないのに」というきれいごと批判に対処するのに役立ちます。
出来もしない、となぜわかるのか?
これに理論的に答えることは出来ないでしょう。「できもしないくせに」というとき皮肉がその言葉の中に隠れていて、感情的に発せられた意見でしかないので、理論もくそもないですが、
でも答えは単純で、だってぼくらはできるかできないかのギリギリで勝負しながら訓練しているのだから、出来るときもあれば、力及ばずで出来ないときもあるよ、というだけのことなのです。
チャレンジというのはそういうもの、100%成功が保証されていないと一歩踏めないというなんとも低レベルな勝負をしているのではない。
その設定値は限界の2歩3歩奥を目指すのが理想で、それゆえに「やってみないとわからない」のです。
それゆえに、語る理想(きれいごと)も3歩先を行った、いつかのぼくの姿。
世の中のきれいごとのほとんどは小学校の道徳で教わる程度の、当たり前のことです。「男として」のテーマに絞ったとしてもだいたいが網羅されることでしょう。
これが現実的に見えずわきに脇に置かれるのは、①その方法論や達成過程の道筋が見えなくてボヤっとしているからと、②現状にいかに合わせるかの一捻りがないがしろにされて、きれいごとが一人歩きしているからなんですね。
だから魅力的な男にというテーマにも「きれいごとは」フレームワークになると思ったし、きれいごとを再構築したいと、思った。
きれいごとなのに不思議とその言葉に艶があって、力があって、説得力や影響力を及ぼしている男が確かにいるから。
「出来もしない」誰かにと言われても、そう言うあの人とぼくらは立ち位置が違うし、立っている舞台が違うし、住む世界が違う、ぐらい大きな隔たりがあります。
勝負しなければいけない人と、勝負なんてする必要のない人。まったく違うロジックで回っている2種類の人間。だからこそきれいごと批判にいちいち影響されて流されてしまうなんておかしなことですね。
ぜひ、きれいごとを語り、ダサい→かっこいいを実現していきましょう。
◇やじろべえ◇