モテるのは、マインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

2018年、「美しく」ある。

新しい一年が始まり一か月が過ぎました。

いかが御過ごしでしょう?

。。

。。

。。

 

だれしもが「今年はいい年に」と思いますから、その始まりは非常に大事ですね。あるいは、今年「こそ」は、、という意気込みかもしれません。

 

新しいことにチャレンジしたい、

このつまらない生活からなんとか脱出したい、

今年こそはダメダメな自分を変えるんだ、

などなど。

 

「脱サラして起業する、にもう3年経ちました」なんてフレーズもあるくらいですから、人は、本当は現状に満足できない、変わりたい、デカくなりたい、という気持ちを持っていて、実際に先を見据えて計画も立てた、なのに自分で決めたタイムリミットに迫っていてハッとしたという経験はだれでもあるでしょう。

 

これでは、「今年”こそ”」という気持ちが一年一年強まるのも無理ありません。

 

気持ちだけが自分を責めるわけですが、その都度、じゃあスタートダッシュでやれよと周りにも自分にも言いたかったりしますが、 

しかし、「変化」がいかに難しいものであるかは、周知の事実。

それも自分だけではない。ダイエットとか、起業とか、資格とか、そういう美容系、お金儲け系、勉強系、などの人が自分を変えるために投資するビジネスの市場がデカいことを考えると、人は皆そうだということがよくわかります。

これ系の題材は、もともとの人の欲求がこの方面で強いこともさることながら、いったん手を伸ばしても続かず、変化できず、元の木阿弥に戻り、これじゃいかんとしてまた違うサロンやらノウハウ本に手を出す、そういうことがぐるぐるループしているからこそ、この市場は儲かっているんじゃないでしょうかね。

 

ライザップで痩せることに成功し、かつそれをキープできていれば、別の欲求やら課題がポンと出てくるはずで、金儲けとか、ナンパとか、なにがしかの研究調査やら、世界一周やら、とにかく「痩せる」という課題から別のフィールドへと進んでいきながらステージを上げるべきですが、ずーっと同じとこにとどまっているから、ライザップが(または同じダイエット業界の別の会社が)儲かり続ける。

 

変化は難しい

 

本当にそう。

 

だからこそ、何度もそういう失敗経験が刷り込まれてしまえば、ちょっとやそっとの刺激では、「よしやるぞ!」とはなかなかならず、やっとチャレンジへの重い腰が上がるのは結局、「キッカケ」が背中を押したときに限定されます。

それが年始という区切りなんですね。

人間はそういうもんなんだから、ぼくもこの時期にそういう背中を押す系の、一年のスパンを見据えた少し大きめのなにがしかを論じるわけですよ。

年始の力は大きい。

 

さて、今記事は「美しい」という、身も心もマッチョ志向なぼくらには一見相反するキーワードが掲げられましたが、世間がイメージする「美」と比べると、著名な人々が研究して記した「美」はその質がまったく別物で、奥の深さが尋常ではなく、さらに人生の成功とも密接に関係しています。もちろん、マインドセットともつながっている。

「美学」

というワードがありますが、自分の中にこれを持っている人は言うまでもなく、人として輝くことになります。これは、みてくれの美容的な輝きではなく、今言ったように「人として」、その生き様が他者を惹きつけ魅了するという意味においてキラキラと異彩を放っているということです。

 

「あの人は、自分の美学がある、哲学がある、スタイルがある」とか言いますね。

これは美しい人への感嘆の思いで、賞賛のことばで、憧れでもあります。

 

美学がある人は、日常的に「生き方としてかっこよくなければならない」「いつも美しくあるべき」というプレッシャーを自分に課していますから、「楽して稼ごう」「目的達成のためなら人を踏み台にする、手段は選ばないよ」「表ではきれいごとを大口たたくけど、裏ではコソコソ汚いことしてる」という、この世のいたる所にあふれるドロドロした人間の醜い部分に決して染まらない人々で、そういう楽な方向に流れようよという世間の空気や誘惑を、キッパリとシカトできる人々です。

 

だって、そんなのかっこわるいじゃん、やだよ

とナチュラルに、本能で感じる人々です。

 

そういう美しい生き方をしている人が、少数ながら、いる。

 

一方で、生き方はもちろん高尚なのだけれど加えて「美しさとは何か?」「人はなぜ美しさを求めるのか?」「人は美しさをどのように認識しているのか?」という美そのものの不思議の解明に挑んだ天才たちが過去にいました。

彼らは膨大な資料を集め、分析し、思索し、体系化してそれが「美学」と呼ばれ、今では一つの学問の領域を構成しています。

 

「美学」の創始者バウムガルテンは、美しさを感じる能力とは感覚的なものであり、それを論理力(彼は論理力を重視していたが。)と切り分け、その対極にあるものだとしました。カントはこの流れを汲みつつ美に関する探究をより前にすすめ、人間を論じるとき、「これは好き、あれは嫌い」「これはきれいだ」という感情は「理性」では十分に説明できないとして、「判断力批判」をまとめました。

この天才たちの壮大な思索を前にして導き出された美の結論は、

このように確かに人間には美的感覚が具わっているし、どういうプロセスで美を認識するかもわかったんだか、じゃあこの世の中に「普遍的な美しさを持つ何か」「美しさを作る法則」があるのかというと、そんなものはないんだ。

という事実です。

 

美の法則や秘密の条件が存在していて、それに符合する何かを人が目で見て、認識して、「わあきれい!」という感情が発生していると一般的には考えがちですが、そんな「普遍的で絶対的な美しいイデア」はどこにもなく、ただ、美を感じる『美的判断力』人にがあって、そしてそれには個人差もあるしそれぞれ各人が「主観で」美しいを判断している、ということです。

カントは、美の法則を見出しわけではなく、人間の美の認知プロセスを解き明かしたのです。

 

ということは、、、

100人に聞いて、100人が美しいと答える普遍のモノや法則が解明されたわけではありません。

花にしても、

風景にしても、

建造物にしても、

工芸品にしても、

もちろん、人間にしても、

「好き嫌い」がそれぞれにあるように、何が美しくてそうじゃないかの判断は(ある程度収れんするとはいえ)、人によるバラツキがあるのです。

 

「何が美しいかはひとそれぞれ」

このようななんとも煮え切らない天才たちからのレポートですが、一つだけ見落としてはいけない点を記述してくれました。

 

それは、

『美と道徳は不可分』

という原理原則です。

 

つまり、「人は道徳的に善き行為を、たいへん美しいと認識する。」

ということ。

 

じゃあ何が道徳的に「善」なのですか?と問われると天才たちでも答えるのが苦しいのですが、

上記の「と人は認識する。」というところが決定的に重要であって、なぜかぼくたちは「ああすごい」と感じることができる、しかも心がマヒしていなければほとんどの人間は、道徳的に善い行為を「見た瞬間」にああ美しいの感情が沸き上がるということをカントは言っています。

だからこその、「あいつは美学があるな」という評価なのです。

決してそれは、ルックスや身だしなみという静的な美ではなく、行為や生きざまとしての動的な美、そこに対してぼくらは評価をしているのです。

 

反対にどうでしょうか、卑怯な行為や女々しい行動や打算的でひ弱な判断を、反射的にぼくらは嫌いますよね。そう、「反射的」にです。

そしてやっぱりこの感覚も人類共通のもののようにも思いますが、いづれにしてもそういう美をうんぬんする判断力が生まれながらに具わっている。

 

この、人間の「美」、カントが「純粋理性批判と実践理性批判は大作だけど、これだけでは人間を語れないな」と結論した通り、美的感覚が人間の営みの中で占めているウエイトは決して小さくありません。

であれば、この美の視点から自己実現を考え、戦略を構築できれば、

「新年の抱負→3か月後の停滞→半年後の放棄」

人が陥りがちな年間の負のループも避けられるとぼくは強く感じています。

 

ある意味で、そもそも目標の立て方、大戦略の設定が間違っているのだ、

だから「美しくある」。これが戦略なのだ、と。

そういうメッセージなのです。

 

美しい人(=生き方に美学がある、徳のある人)は、今まで考えてきた理屈に沿うと、人間的にますます成長し器の大きな人間になりつつ、周りの人から好かれ尊敬の対象になるでしょう。

美的感覚を持っているぼくらは、美しいものに引き寄せられ、幸せを感じます。

単純に考えれば、女性はいつまでもきれいでいたいし、ヘアスタイルやファッションに気を使うし、かっこいい車おしゃれな家具に囲まれて生活したいなあ、、と思うのと同じです。家を建てる、仕事を選ぶ、友人を選ぶ、そのときにも自分のセンスを発揮して、デキるオレ、イケてるオレを思い描いているでしょう。

美しいものを、求める。

 

自分が人間性としての「美」を発信できる力があるなら、人生何倍も何十倍も輝けるはずです。その美を目指す過程の中で、少しづつ人は変わっていくというのが「今年”こそ”は」を解決する正攻法と言っていいでしょう。

 

さて、ぼくはいつも「成功」という難題についていくつかの異なったアプローチを試みますが、今話した美も成功を語る上では外せないポイントです。

そして別な要点として、世の中の現状を見ると、成功者はいつの時代も少数だという普遍の真理が見い出せます。

これに関しては、「少数だからそれを成功と定義できる、もし成功が世の中にあふれたらそれはもう成功とは呼べない」という意見もあります。コモディティでは成功は定義できないんだ、と。

これはこれでツッコミどころがたくさんあるわけですが、成功を目標達成という観点で見るとやはり多数の人は自分で掲げた目標へ到達できないわけですから、これも一理ある。

これは冒頭で話した、変化の難しさ、ダイエット金儲け市場の肥大化によくあらわれていて、「成功者は少数」という真理が、目標を達成できない人々がたくさんいますよね、という現実より裏付けられます。

成功者は少ないならば、「本質的に美しい人」はこの世の中に稀少です。

美しい手段、美しい目的、美しいプロセス、美しい生き方、こういうものに忠実に動けばそれは成功へのルートを歩いていることになるでしょう。しかしそれは非常に険しく困難な道のりです。だからこういう人は価値がある。

 

オルテガが「大衆」に関して書いているように多くの人は、右へ倣え、赤信号みんなで渡れば怖くない、というのが彼らの行動原理です。そこに美しさというポリシー(=方向性、指針)は存在していません。

さきほどの「成功者非コモディティ理論」からすると、「右へ倣え」と「美しさ」は両立しえません。大衆と同じある意味安心のルートを選ぶのか、美しいけど困難な道を選ぶのか、ふたつにひとつしかありません。

 

ここに、敢えて難しい道を選ぶ「ストイック」で「ドМ」な人々の不思議な生き方が理解できますね。

 

「美学」「稀少」「厳しい道」というキーワードが出揃いました。

 

例えば、「大相撲日馬富士暴行事件と貴乃花親方の理事解任」があります。

相撲の業界の暴行事件というのはある意味伝統的で、縦社会的で怒号が飛び交う高圧的なトレーニングはスポーツの世界よくある話ですが、そのスポーツの中でも相撲は特に保守的で伝統的です。そうなると、「かわいがり」という名の体罰もごくごく普通のこととして業界内に存在します。

血気盛んな男たちが集まると、暴行事件にまで発展する。「暴行事件」は過去においても一度や二度ではないですが、今回はそれが大きく明るみに出た、そして大事に発展したという点でニュースバリューがありました。

 

一方暴行事件の被害力士の親方である貴乃花。

彼はこの事件を受けて、相撲協会で常識とされていたその村の掟とは全く違う対処をとりました。

ここに「二つの道のバッティング」が生じました。

そして日馬富士をはじめとしたモンゴル力士のゴタゴタと、貴乃花の理事解任が一直線でつながるポイントがあり、貴乃花なりの「美しさ」の体現があります。

残念ながら相撲業界のパラダイムやルールや慣行は、貴乃花の美学とはまったく反するものでした、それゆえに彼は多勢に無勢な困難な道を選ぶことになります。

貴乃花は現役の時代から相撲道への献身があり、美学を持っていましたから、「汚いことが大嫌い」でした。正々堂々と、正しく、王道を行く。そういう美しい生き方です。しかしそれは業界のルールに従わなければ当然「あいつは面倒だ、黙らせろ」と、なんらかの報復を受けることになりますが、今回はそれが空気や待遇という無言の圧力に始まり、「理事解任」という実力行使で今に至っています。

 

横綱とはどういうものか?という質問に貴乃花は、

「相撲は神事であり、横綱とは神聖なもの」という存在を語り、

「生き様で、他の力士に力士道を見せるもの」という使命を語り、

「相撲するときは必ず受けるもの(エルボーや立ち合い変化などもってのほか)」という取り組みを語っています。

横綱について、単に力士最上位という位をレクチャーするわけでなく、歴史や存在意義までを包摂した横綱像をメッセージしているわけですから、相撲道に対して相当な造詣と熱い想いがある。

そういう美学は、一個人の取り組みスタイルだけでなく、相撲道を全体を作ったり運営する相撲協会の在り方にまで及びました。

賭博、八百長、暴力事件、などの不祥事はすべて美しくないから生じるわけで、神事である相撲、公益団体である相撲協会が元来どうあるべきか、そこを彼は本来の姿に戻したいと願っていたのです。

 

貴乃花も今回ある意味で暴行事件の当事者になり、いよいよ改革へと立ち上がりました。

しかし、ここで大衆とぶつかります。

それは、ニュースを見た一般大衆という意味ではなく、

「今のままでいいじゃないか(右へ倣えで変化しない)」「俺の邪魔をするんじゃねえ(既得権)」「まず俺に報告せい(隠ぺい体質)」という大衆的なる性質を濃厚に持っている旧態依然とした相撲協会とぶつかったのでした。

 

まったく、美しく生きるのは、本当に険しく困難な道なのですね。

 

世間では、貴乃花の態度や行動に対して、「独善的」や「非協力的」「組織不適合」「頑固すぎる」「裏切者」

との批判も出ていました。

和を尊ぶことを美徳とする日本人は、どうしてもこういう和を乱す人を冷ややかな白い目で見て、悪者扱いすることが多いように思います。その和が、旧態依然としているかは関係ありません。残念ながら日本人は改革や差別化やイノベーションとは遠い場所にいる人種なのかもしれませんね。

 

批判の最たるものとして「貴乃花は理事長の座がほしいだけだ」という権力欲を噂する人もいましたが、これは見当外れだなーとぼくは感じています。

ぼくらは他人の心を開いて中身を覗くことはできませんが、人の内面はどこに現れるかというと「生きざま」に現れるのですよ。

聖書にもマタイ伝の中で、「木が良ければその実も良いとし、木 が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」とはるか昔にキリスト様が言っている通り、INSIDEOUTが今では常識じゃないですか。

 

現役時代の貴乃花の取り組みに対する熱烈なファンがいて、引退してある期間が過ぎた後も「平成の大横綱」と称されているのは、彼が横綱にふさわしい力士道を歩んだからです。

彼は早熟で最年少記録を次々に塗り替えましたが、引退時の記録だけを見ると、彼より優勝回数が多い、彼より生涯白星が多い、連勝記録が勝っている横綱はたくさんいます。

当時は、大相撲ブームでハワイ出身の大型外国人力士が多く、日本人力士も今とは比較にならないくらい層が厚かった。猛者が上位に入り乱れる角界で勝ち続けるのはおろか、怪我をせず関取として留まるのも厳しい時代だったのです。そういうわけで記録だけ見ると貴乃花が突出して際立っているわけではありません。しかし、

「平成を代表するのは貴乃花」

これが、個性豊かで、強く、巧い力士が多いレッドオーシャンの中での、彼に対する世間の評価でした。

まさに、記録ではなく記憶に残った人物。

怪我に泣かされ惜しまれつつ去って行った力士が多い中、彼はガチンコ相撲を貫きました。

 

「ガチンコ相撲を貫く」、この意味を考えなければなりません。

ガチンコとは「手を抜かない」という当たり前な意味ですが、これは体重150キロの大男が全力でぶつかり合うわけですから、かなりの怪我のリスクがあり、それを甘んじて背負うことを意味しています。力士同士のぶつかりの衝撃は2トン、軽トラックが時速20キロで突っ込んできたほどの威力があると言われています。

相撲を生で観戦した人が言うには、そのぶつかったときのドゴッ!という衝撃に鳥肌が立つようで、もはや人の為せる業ではないと。

そのへんはYouTubeにも映像がありますから、少しは素人の僕らもその過酷さを理解することができるでしょうが、相撲寿命も、さらに人生の寿命さえあまり長くないことを総合的に考えると力士が、さらには横綱が、「神事を為し神聖な存在でいる」のはほんとうにしんどい。当人が、動機が善く、美しくなければできない業なのです。

 

ここで、美しくない人がパッと考えるのが、「手を抜く」ということです。

「大変だから、少しラクをするために星を融通しよう」

という発想が出てきてしまうのです。

そこで、「八百長」という問題が発生するのでした。

 

相撲を神事ととらえる貴乃花には、八百長で相撲を汚す、精進することなく賭博に興じている、そんあ相撲業界全体が嫌でしょうがなかった、内部にいて直にそういう醜い部分を見させられるのだからなおさらです。

貴乃花は昇進伝達式で、大関の時のみならず、さらに横綱にあがった時も、

「今後も『不撓不屈』の精神で、力士として相撲道に『不惜身命』を貫く」

と同じ決意を述べました。

「相撲の世界にいれば、辛いこと、逆境に遭うことなんて、当たり前じゃないか。そんなの全部引き受けて、相撲にすべて身を捧げるのが関取の生き様じゃないか」

という想いです。

 

そこに権力欲など私利私欲など、入る余地はありません。

 

求めているのは、美しさ、美しい相撲道、そこに回帰し後世へ伝えていくこと、そうやって人生を全うするんだ、ということだったのです。

 

貴乃花の今後、理事会がどうとか、立候補や改選がどうとか、事態の進展をみると世の中のドロドロの現状、それに対して美しいとは何なのかが見えてくるかもしれません。

 

美しい道を主体的に選ぶと、大きな困難がセットでついてくることは避けようがありません。美しさとは、一般に考えられるようにポップで華やかな何かではなく、力強い崇高な生き様そのものであるので、そんなものが「片手間で」「ほったらかしで」「コピペ」で手に入るわけがありません。

ある人が、「ネットで稼いでいる人は、その額は大きいのだけれど、実際に会ってみると覇気がなくて弱弱しいと感じさせる人ばかりだ。」と毒づいていましたが、その理由がなんとなくわかる気がしますね。

 

つまり、ぼくが発している「モテるには~」というのも、人生という視点を通していて、壮大な男としての理想を視野に入れているわけで、決してチャラい即席裏技を語っているわけではないということを声を大にして言いたいところです。

だから、ナンパの具体的なテクニックを前面に押し出すことはないし、女の数を自慢することもありません。それはすべて、「勝てばかち上げでも、エルボーでもなんでもいいんだ」「星を譲り合ってみんなで昇進したほうが合理的で、健康的じゃないか」「横綱は偉いのだから、暴行も多少アリ、文句言うな」という美しくない行為と同列のザンネンな思想だからです。

つまるところ、これはぼく個人の美学であり、理念でもあるのですが、

哲学者カントが記録してくれた「人間の本質」や「人生」ともしっかり合致しているのではないでしょうか。 

 

2018年に、「美しく」を意識するということは、今まで以上に大きな飛躍を目論んでのことですが、同時になんらかの大きなリスクを引き受けることをも覚悟しないといけません。いづれにしても一年間という長いスパンを見据えてここに取り組まないといけない。

 

人生は、究極的にはトレードオフですから、今ここで美しくあることを選べば最後には大きなお釣りがくるんじゃないかと思っていますし、やるなら早いほうがいい。

 

こういう人生観があれば、世界が変わって見えるはずです。

そういう「フレーム」が大事というのは、前回にも通ずる話なので、ぜひ合わせてみてみてください。

 

では。

 

 

〇やじろB 

 

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モテるために男たちが真剣にする努力の数々を、僕は素直にかっこいいと思う。というフレーム

 

みなさま、こんにちは。

年越し、年明けをいかがお過ごしでしょうか?

 

例にもれず、できる男のみなさまはスタートダッシュをすでに切っておられることでしょう。うん、ぼくが言及するまでもなく。Twitterでフォローしている筋肉クラスタの大物は「年末年始は、割り切って食べたり飲んだりしよう、そして4日ぐらいからしっかり筋トレしてくれよ!でもぼくは12/30~1/3も筋トレで追い込むよ」とつぶやいておおられました。

全く同感。

「ちょっとぐらい抜いてもいいじゃないか、いままで走り続けてきたのだから。」という優しさ、

と、

「でも、自分は年末年始もやるよ」というのは厳しさ。

この厳しさは、「やりたいから」「やらないと不安だから」という内発的モチベーションから動かされたものですね。ロサダラインの通りに彼の日常が動いているにすぎません。

こういう人は成功するわけですが、そのように真に成功した人が「人に優しく自分に厳しく」行動している、エエ男や。そのように周りから見えるのは当然のことでしょう。

 

男はストイックなほどモテることの証明。 - モテるのは、マインドセットがすべて、それを証明しよう。

 

 

もうすでに読者の皆様は、「努力」というものを意識しなくても普通にやっている状態でしょう。逆に、ダラダラしてしまった日には罪悪感が襲ってくるはずです。笑 なんて無駄な一日を過ごしてしまったんだ。。無駄に命を削ってしまったと。。

Time is life  だからです。

正月の抗えないお休み気分に一瞬でも流されてしまったのなら、今日から正常なルーティーンに戻りましょう。

 

日常的に人々がよく言う「忙しい」と言うことばに対してぼくは「は?」と感じます。

よくよく聞いてみると、忙しいと嘆きながらもしっかりとテレビの時間スマホをいじる時間は確保されているではないですか。「休みの日いったい何やってんの?仕事が終わって帰宅してから君、何やってんの?」

と素朴に不思議です。

そう、本来、「努力」とは美しいもので、しかもそれを努力と思わないデフォルトモードだからこそ尊いのですね。

大の大人が「忙しい」を言い訳にしてはいけません。努力を努力と思わない人は同時に、あー忙しいなんて決して言いません。忙しいがデフォルトで忙しくないなんて怠惰で、恥ずかしいことだからです。この事例の本質は忙しいかどうかではなく、「忙しい」「努力」をどのような概念としてとらえているかであり、そこが分かれ道でしょう。

 

さて、わたしがnote のほうでフォローしているTK工房さんが興味深い話をアップしてくれてましたので、ご紹介します。けっこう以前の記事ですが、(例のごとく、許可とってませんので。ぜひTK工房さんを応援しましょう、うん、それがいい。) 

 

39歳独身OLの辛い話 | TK工房 | note

 

こういう経験談は、見る人にとって印象が違います。「自分と同じだ。。わかるわかる。辛いよな。。」となるのか、「人の不幸は蜜の味♪。おもしろい」なのか、はたはた「このタイプの人々の行動原理はまったくわからねー、不思議ー、」なのか。

共感、同情、苛立ち、慰め、

いろいろあるでしょうが、この類の人々に対してぼくは若干の同情があるとともに、大きな不思議を感じます。それは何なのか?

TK工房さんは鋭い口調でガツンと言ってしまっていますが、要点としてはまとめで言っている一言がすべてを表しています。つまり、

 

「努力しろよ」ということです。

 

これは、辛い人がいるとしてその人に「努力」を問うのはなぜ違うのかというのは、タイミングの問題で、いや今言ってもしょうがない、というのがあるのですが、人生には努力が必要、というのは古今東西普遍の真理であるのです。

ぼくらは辛い人を見て、同情したり批判したりといろいろな感情が沸き上がってくるわけですが、大事なのは原理を学ぶということで、このような経験談が積みあがってくるほど努力の土台である「マインド」が重要なわけですね。

 

さあ前置きはこれくらいにして、今日の講義、行きましょう!

 

「目標のある人間はかっこいい」

と世間でも言われており、合コン女子が男を評価する際によく知ったようなことを、上記のように言いますが、この意見自体にはには大多数の人が同意するでしょう。

目標ある人間、何かに一生懸命な人間、前向きな人間が輝いているというのは普遍的で、だれでも「感覚的に」わかっていることだと思います。

 

当人が能動的にその目標に向かって努力する過程では、本人の視点からは、真剣さ、充足感、自己成長感、を十分に感じることができ、そしてそれが雰囲気としてにじみ出まるので、だからかっこいいんだ、と周囲の目にも映ります。

向上心を持って何かに取り組むと何某かの結果を獲得できますが、万人を惹きつけるその向上心の魅力というのは、その結果にあるわけではなく、向上心を持って取り組んでいるまさにその姿なのである、と言えます。つまり結果ではなく途上なのです。

 

そのように、努力の重要性がだれの目にも明らかで小学生もわかるシンプルな理屈なのに、みなそれをしないのはなぜなのか?ぼくらは理解に苦しみますね。努力をしてきたぼくら「マインドセットファースト」のコミュニティは愚直に努力をしてきたから、今、こんなに男らしく立ち振る舞いに余裕が溢れているわけじゃないですか。

人間は楽なほうに流される生き物ですから、正月は筋トレ休もうよ、というのも理解できます。そもそも筋トレなんかしないで、飲んで食ってダラダラ楽しめればいいじゃんそれが人生、という人もいるでしょう。それはそれでいい。

しかし自分はそういう生き方を自分で選びながら、同時に彼らが努力している他人の足を引っ張るのはなぜでしょうか?

彼らには「努力している男はかっこいい」という素直な感覚はないのでしょうか?

 

さて、ぼくらはいったいどんな世界で生きているのか?つまり努力をどう見る環境で生きてきたのだろうか?ということを考えると、なぜ多くの人が努力を嫌い、努力している姿をどこか泥臭くて、地味で、ダサいと感じ、努力している人の足を引っ張ることにイキイキしてしまうのかという疑問が解けます。

それは、

『努力をダサい、努力しても夢はかなわないとするコミュニティの中で生きてきたから』

といえるでしょう。

あの「企業参謀」で有名な大前さんは、人が変わるための3つの方法の中で、その一つに「付き合う人を変える」というのを挙げました。それもそのはず、ぼくらもこういうふうにインターネット空間でそのコミュニティと交流を持つことで徐々に脳が思考パタ-ンが変わっていき、モテるようになったことを経験上知っていますし、「社会的な動物」と哲学者が言ったとおり良くも悪くも影響を受けて成長するわけですから「誰と付き合うのか」「どのコミュニティに属すのか」はとても重要なのです。

「子供は親を選べない」と言うように、親、家柄、それに付随する教育環境を人は選択できません。当たれば儲け、しかしほとんどの人はマイルドヤンキー的なる地方地域で生まれ育ち、そういう思想を身に着いて社会に出て来ます。「この何が問題なんですか?」というザンネンな質問が息を吐くように口から飛び出してしまったなら、「二極化」について書いた記事を復習してよ、とぼくは言ってしまいますが、とにかく大問題なのですよ。

そーゆー生まれた環境、地区の学校とクラスメート達という固定されたコミュニティで生きてきたわけですよ。

 

人が多く集うところにこそ盛んな文化の交流が発生し、価値観のぶつかり合いを経て新しい個性が許容される土壌ができる、そこからイノベーションが起きる、というイノベーションの原理原則を考えると、日本人のほとんどは地方でマイルドヤンキーの土壌で育った、ということができるでしょう。つまり価値観も多様じゃないしぶつからないし、個性を許容される風土もないない環境で学びの吸収率の高い幼少期を過ごしてしまっている。そしてそういうところで育てば、マイルドヤンキー的な価値観が幼いころから刷り込まれて育まれてしまうのは当然です。

つまり、「マイルドヤンキー一丁上がり」なのです。

こういう人々が「夢はかなう」というきれいごと聞いた瞬間どう脊髄反射するかは想像に難くありません。全否定なのです。親親戚はみなそう、そういう環境で育ったクラスメートもみんな右へならへのこの思想。学校へ行っても家に帰っても正月親戚と皆集まっても、どこへ行ってもそういう夢否定の壁にぶつかります。こりゃあもう、上京してAKBになるとか、金稼いでヒルズ族になるとか、口が裂けても言えません。

こういうマイルドヤンキーな集団にも彼ら自身にとっての目指すべきところはありますが、それは世間一般でいうところの学歴であり、大企業であり、生涯安定だからですが、まさに大衆的で「みんながそう言っているから、それがセオリー」というのが僕の周りの人たちの言説なわけですね。

となると、ぼくたちマイルドヤンキーに適さない特殊な人間に対して、そういう環境がみんながそう言ってるからセオリーを提示してきても、僕自身(あなた自身)はそういう気持ちがさらさら無いわけで、そのセオリーは本真の意味で僕の(あなたの)「目標」にはなりえません。当然ながら、そこに向かってがんばることもできません。「目標のある人はかっこいい」とか「頑張っている人は輝いている」とはまったくかけ離れた人生を歩くことになります。本当にやりたいことがどんどん忘れて去られていく日々を送り、男としての「かっこよくある」なんて価値観は漫画やゲームなどおとぎ話の世界になるでしょう。

 

努力で何かを成し遂げた人を偶然発生的に特別視し、自分は違う、悪いのは社会のせい学校のせい親のせいというルサンチマンに走る人は必ず世の中に一定数います。そういう人が子供を産んだら同じような子供に育ちますし、そのマイルドヤンキー環境の一端を担ってしまうという、要するにこのルサンチマン拡大再生産の過程を歴史はたどっているのです。

僕らが生きてきた、生きているのは、そういう世界だということをまず自覚しなければなりません。

 

そのなかで、何らかのきっかけや良い出会い(本とか人とか)、事故や不幸などに遭う、そしてそこで本人の意志の強さといくばくかの幸運が重なり合って一部の人たちは努力を肯定するようになり、そして自分も努力を土台に成功をつかんでいくようになるのでしょう。こうしてそのルサンチマンプロセスから幸運にも抜け出す人々も少なからずいます。

努力を肯定する、という「フレーム」を持つように初めてモテる人生の歯車が少しづつ回り始めたを言っていいでしょう。ほんの少しづつです。フレームを持っても努力を継続できるかはまた別の努力が要求されるので、話はまた別ですが、歯車が良い方向に回り出したことは確かでしょう。フレームがあって、努力を惜しまないようになる、当たり前のデフォルトになる、それを継続する。

このスパイラルの中心には必ず「努力」が存在しているのです。

 

やじろべえはいったい何の目的でこのブログを運営してんだ?、と内心感じている人に声を大にして言いたいのは、ぼくはこのブログがそういう「きっかけ」になるべく、あらゆる角度から持論を展開しているんですよ、ということです。

 

さて、このようなエントリーに刺激を受けて、「私はなにを努力すればいいでしょう?」などと切実に質問されても正直困るわけですが、何を努力すべきかは人それぞれバラバラで、その人にとって一番必要なことを努力しなければいけないのだから、それを発見して継続してくださいよ、という全く冷たい回答になってしまいます。だって、それが「努力」でしょ。

 

経済面であれ、健康であれ、趣味のマスターであれ、自分の人生戦略として自己実現に資することに真正面から取り組まなければなりませんが、最終的に「モテるための」努力は無視できません。

これはもしかすると、数ある努力の中で一番恥ずかしい努力なのかもしれませんね。

女にもてるために、合コンで修行してるとか、ナンパでトーク下手を克服するんだとか、ホワイトニングした脱毛したレーシックした、とかなかなか口外できません。もちろん、こっそりナンパ塾に入るし、モテテクの書籍もアマゾンでこっそり買うし、口の軽い友だちには決して話しません。

健康のために筋トレ始めましたとか、経済的自立のために副業始めましたとかとは、次元が違う努力なのです。これは「自分はモテない、超ダサい」を認めて、そこをスタートラインにしているから、恥ずかしいし、情けない。

でもいいのです。かっこよくなって、見返してやればいいのですから。

ぼくは、それこそが人生の意味なんじゃないかと本気で思っているほどガチですよ。努力のプロセス、男としての努力、そして人生をまっとうする。本当にかっこいい。 

 

世間的に「モテるのはいいことだが、もともとモテないやつがモテるために頑張ろう」という努力はディスられる風潮がありますね。モテないやつは一生モテない、がんばってモテようとすんな!という固定能力的な観念で物事をとらえている、ザンネンナ人々の思想です。いや、ええやん。努力ぐらい認めてやれよ、とぼくは思う。これは、金持ちは(陰で)うらやましがられるが、おおっぴらに金持になろうと頑張り始めると「あいつは金の亡者だ」と悪口を言われたり、足を引っ張られたりするのといっしょです。そういう足を引っ張るやつは実際は金持ちではない、そしてさしたる努力もしたことがない、というのはだいたいお決まりです。

人生でお金が一番大事ではないのは言うまでもありません、こんなことはわざわざ口に出して言うのも恥ずかしい、当たり前の話です。しかし口に出さないまでも、生きていくうえでお金は不可欠な存在であることは否定しようがありません。同じように、モテることを人生の最終ゴールだと考えているとしたら単なるアホですが、モテるためにする努力を全否定するのはもっと違う、これこそ最悪な大バカ野郎だといえるでしょう。言うまでもなくこういう大バカ野郎は=非モテです。それは会わなくてもわかります。彼らはモテた経験がないうえに、モテる努力をしたこともないからです。モテることの喜びやモテるまでの大変な過程、それによる男としての成長感・目標達成・情熱を感じたことがない。そしてモテることの大変さも知らず、モテようと努力するやつの気持ちがわからないからそもそも共感なんて感情が発生するわけもありません。つまりこういうやつはまったく、男に必要な要素を何一つ持っていないということになります。

人生がもったいない。

 

男がすべき努力は何かというと、「モテる」という問題意識を出発点とした「モテるためにしたすべてのアクション」です。なんのためにモテるのか?それは女を幸せにするためです。なぜなら原理的にモテる男しか女を幸せにできないからです。そして女を幸せにするのは男の義務です。(幸せにできないなら、せめて非モテを脱して、彼女たちを不快にさせないでほしい、と願うばかり。)

モテる男しか女を幸せにできない。これは生物学的に、そして人の感情という観点から見ても、明らかだ、そう言うことができるでしょう。

男はストイックなほどモテることの証明。 - モテるのは、マインドセットがすべて、それを証明しよう。

禁欲はモテる?モテない?ーギャリー博士の明確な解答 - モテるのは、マインドセットがすべて、それを証明しよう。

読者コメント~ オナ禁や筋トレで テストステロンを増やすことで自信が付きそしてモテるという観点~ - モテるのは、マインドセットがすべて、それを証明しよう。

イケてる男は、例外なくどこかアグレッシヴな一面を持っている。 - モテるのは、マインドセットがすべて、それを証明しよう。

女という生き物は、わからんな - モテるのは、マインドセットがすべて、それを証明しよう。

モテる男は、ジェンダーフリーの逆を行く - モテるのは、マインドセットがすべて、それを証明しよう。

ストーリーテリングーいわゆるコミュニケーションの根幹を理解する。そして女は魅了される。 - モテるのは、マインドセットがすべて、それを証明しよう。

 

そのための構成要素として、モテという「主題」の下に、習慣とか、筋トレとか、英語とか、コミュニケーションとか、ナンパとか、そういう「見出し」が、つまり枝葉のようなものがあることになります。

 

 

 

さて、なぜぼくが上のような(説教臭い)記事を書くかというと、モテたいけどモテない、そういう悶々と押した日々を送っている諸君の眠っている可能性を発揮してほしいからですよ。そのためにはマイナス的で、卑屈で、どこかあきらめ感が漂う思想を、このブログで主張している思想へ上書きしなければなりません。

モテることは素晴らしい、モテるための努力は魅力的だとまず肯定し主体的にエネルギッシュに生きてる男と、モテるために努力するなんて恥ずかしい.....と考え、まったく煮え切らない男、そのメンタリティと将来の可能性を天秤にかけると、いったいどちらが女性に魅力や安心や与えられるだろうか、そんなの火を見るより明らかでしょう。

 

すべては物事を見るフレーム 、モテる努力は素晴らしいというフレームを持っているかどうかにかかっているんですよ。

 

今年も頑張っていきましょう!

 

やじろべえ

 

 

PS.以前皆さんにアンケートをとりました。モテるということはもちろん、その他どんなことに興味を持っているのかと聞きましたね。

フィードバックありがとうございました。

現在、ブログは続けていきますが、メルマガと通して、もってモテについて語りたいなと構想しております。

まあ煮詰まったらお知らせしますが。

ではまた!

 

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「今年を振り返って」 ~まじめな話。~

今年も残すところあと数日になりました。

来年の目標やそれに付随する計画を立てる前に、やるべきことがあります。

それは、

「2017年の反省」

です(ドヤッ!)。

 

今日の記事はそれ系でいきましょう。

そして次回、バシッと来年の目標を打ち立てたいと思いますー。

 

抽象的な話からになりますが、今思うとぼくの2017年の目標は「りっぱな人間になる」ことだったように感じます。そしてそのためのKeyは「バランス」だということを、今年を振り返って痛感しています。総括はバランス、前からずーっとそう思って名前まで「やじろべえ」にしてんのに、フゥー。

自分がりっぱな人間になっているかどうか、プロセスをどう評価するか、またそもそもバランスのとれたりっぱな人間に至るためどのようにスタートを切るべきか、という問いをまず立てなければなりません。そしてその評価にはぼくの思うところである

「その男はモテているか?」

というひとつの判断基準があります。

これはぼくの「モテたい」という男として生き物としての自然な欲求からスタートしたわけですが、追求していくと非常に奥が深いことがわかります。男としての価値を測るのにも重要な指標だというのが今の結論です。どんなに美辞麗句を並べてもモテてない男は、価値はありません。(モテるとはどういう状態か?、これもまた深いわけだが。)そしてこの原始的な欲求を満たすには、各々がそれ相応に「がんばらなければ」いけません。

自然界をみてください。

シカは生まれ持った角を使って意中のメスを獲得するべく、決闘します、角と角をガツン!と突き合わせて。そこには常に角で突かれる怖さがあり、痛い怪我をするするかもしれず、「あの新人シカ、身の程知らずにもキングに闘いを挑んだんだってよ、馬鹿だな」と鹿の村社会で陰口をたたかれるリスクを負っています。

クジャクの対決は美しさです。クジャクはメスの面前で自慢のきれいな羽を広げて求愛し、このキレイ度を競いそれに勝ったオスが大好きなメスをゲットするわけですよ。

よく自然は弱肉強食で、かつそのメカニズムにより自然淘汰される、と表現されますが、それが自然節理のすべてではないとはいえ、「自然は努力を求めている」と考えるのは理にかなっているでしょう。

鹿も孔雀も、動物たちはみな自然というシステムの中で競争して、そして「努力して」何かを獲得しているのですから、人間はその当たり前の努力をすべきで、モテるという目的があるなら、それを単なる願望で終わらせるのはまったく残念です。達成すべくして達成するべきで、そのロジックは彼ら動物さんたちをみればすぐにわかることなんですよ。まさに、「蟻のところにいって勤勉さを学べ」ですよ。

これが、自然の摂理です。

ここから、モテるには努力する、ということになりますが、こういうことを文字に書き起こして、ブログで発信すると、「やれきれいごとが」「やれ精神論が」「自己啓発臭い」など言われ、とにかく受けが悪いわけですが、そのたびに僕は「モテるには、マインドセットがすべてだな」と思うわけですよ。

 

さて、「りっぱな人間はモテる」と言えますが、「モテている(ように見える)人間がみんなりっぱか?」というとそうではありません。

「逆は真ならず」です。

しかしよく言及するモテるための要素が、りっぱな人間を目指すプロセスにおいて獲得されていく、そういう種類のエッセンスであればあるほど、立派さに付随してモテにモテます、原理的にそうなのですよ。そういうステージを目指さなければなりません。そういうモテ方、そういうプロセス、それが「りっぱな人間はモテる」というきれいごとを字で行く方法です。マインドはどうしても外せませんね。

 

さて、ただ単なる人としていい人で終わらず、異性からもモテる人とはいったいどういう人でしょうか?人として立派であるだけでなく、生き物として魅力のある男、なおかつ社会において有用な男でいるためには何が必要でしょうか?

それを今年の反省として一緒に考えてみましょう。

 

冒頭で「大事なのはバランス」と述べました。これはぼくの、体調を崩していた今年の反省です。モテてもすぐに風邪をひくから寝るのがプライオリティの上位に来てしまったり、あー今日は頭いてーなーとぼやきながらブログ書いたり、鼻水をすすりながら本読んでインプットがんばってみても、QOLはけっして高くありません。モテやマネタイズがそれなりの仕上がりになってもやはり本人は辛い。。健康的に圧倒的な結果を残して人生を謳歌するのがQOLが高い人生ですね。人生の悩みは人間関係ですが、人間関係に強い人、それがうまい人というのは能力でもなんでもなくて、健康な人・元気な人です。めんどくさいことをひょいと乗り越える軽さがある。彼らはメンタルが強いというより、心が軽いんですよ。一方で人間関係でけ躓く人は健康面でまず改善を図る必要がある人です。嫌われる勇気を読む前に、運動しろ、食事に気を遣え、早寝早起きしろ、youtubeばっか見てないで勉強しろ、オナ禁しろ、と言いたい。メンタルはフィジカルからスタートしているからです。

前回の記事で生物学的な観点からダラダラと論理立てて考えましたが、そういう精神的な領域を身体を整えるという方向からとらえると、当然ながら生物学的にモテます。そして賢いのに男らしい、地頭がいいのにリーダーシップもとれる、人間性として軸があるのに寛容でユーモアのセンスに溢れる、という具合に人間として男として大人としてあらゆる側面が同時に鍛えられます。いい人なのにダサいとか、女の扱いがうまいけど本質は薄っぺらい、という片手落ちな状態はどこか、努力の方向性や方法論が間違っている。一流のF1レーサーがポンコツの軽自動車を運転しても、その能力がまったく発揮できず苦しいのと同じ原理で、ポンコツな身体に高尚な思想やメンタリティを宿してもなんにも発揮できません、苦しいだけなのです。その苦しさというのは、yahoo!ニュースをみればすぐに発見できて、ツイッターで流れてくる苦しそうな人々がするネガティブ発言から明らかです。そういう事例を見るたびに「まずは身体でしょ!」と鼻水をすすりながらツッコんでいる次第です。そういうポンコツ軽自動車専門自称F1レーサーの人々に贈りたいのは、「嫌われる勇気」を読んでもマジで嫌われるだけで苦しいだけだよ、という現実的な言葉になってしまう。そう、強く思いながら、ぼくは来年のステージアップを練っています。

身体を十分にケアしてあげたら、いよいよマインドの出番です。頭がスッキリして知的好奇心を満たすものを欲しはじめエネルギーにあふれ目標がクリアになり闘争本能むき出しでありながら人にやさしくできる、そういう土台がすでに整っているのです。

よく「金持ちになったら暇になって、社会のために何かするようになった」というエピソードを聞いたりします。ビルゲイツとかピーターティールとか、ホリエモンとかもその類でしょう。自分を満足させるために豪邸を購入したり、プライベートジェットを所有したり、豪華客船を貸し切ってパーティーしたり、金が有り余ってたからそうゆう風に使ってたけどそういうのにすっかり飽きてしまい、慈善事業したり、社会を変えるようなテクノロジーに莫大な金額を投資したり、思想家としてひっそり執筆活動はじめたり、政治に足を突っ込んでみたりと、自分の能力やカネや人脈の使い道を大きく転換するようになったという話です。

こういうストーリーが教えてくれる教訓は、現象としては健康→思想や実践という順番と根本的に同じ構造で、健康体が実現され体力やエネルギーが余るゆえに、身体的知的好奇心の分配先が利己的なものから→もっと長期的に意味が残るもの、世のため人のためになるものへ転換され、ステージをアップしていくということなんだとぼくは理解しています。これをなぜステージアップと表現するのかは、マズローの欲求段階説で説明できて下層が満たされれば自然と段階が上がっていく(ステージアップ)わけですよ。健康という生存と安全を満たして初めて社会性や自己実現のためには何をするべきかという問題を自分に投げかけることができる。マズローがそんな風に人間を描いたように、これは何も金持ちのサクセスストーリーに限りません。

筋トレyoutuberが自分のジムを持ち、経営しはじめ、事業家と教育者と文筆家始めました。というのとまったく同じ現象です。そのプロセスは健康になり人間関係から酸いも甘いも経験し、社会というものを知り、結果的に人間的にも大きくなっていきた、そこに残ったのは「男らしい自分」なのです。 

 

さて、「今年を振り返って」思うことは、健康には気をつけろよ、という大変単純で当たり前でまじめな話になってしまいました。(;´・ω・)

 

それではあんまりなので、もう一つお話ししましょう。

健康が整ってからはじめて、脳みそが回りだすと話しました。しかしもっとツッコんで考えると、これは、「禁欲してエネルギーが溜まらないと大戦略が定まらない」と言い換えることができます。つまり、禁欲がいい女を獲得しようという原動力になり、そのエネルギーの源になるということです。

大戦略、これは地図を広げてどの領域をどのように攻略するか、どの国とどのように同盟関係を作るか、という地政学の概念ですが、要するに射程の話なのです。エネルギーがたくさん溜まってからはじめて非モテの自分では到底届かなかったとびっきりのいい女も射程に入るようになってきて、そこからどのように彼女にアプローチして信頼と男性性をアピールして、ハートをゲットするかという各戦術を細かく構築することができる。大戦略の失敗はすなわち戦術の優位をすべてひっくり返され負けを確定されてしまうことを意味していますので、ぼくらにとっては禁欲なくば大戦略無し、射程が短いままでは、戦術も、選ぶ女のレベルもお粗末。これでは人生がオセロのようにひっくり返り年取ってから負けが確定してしまい、「もう遅い」となってしまうのです。

 

世間の雰囲気的にもそうですし、ブログでも何回か言及してきましたが、あらゆる所で二極化が進むよ、これが歴史からのメッセージです。世界を見ると経済的な二極化だけでなく、知識グローバル化においても二極化が進み、モテるという領域でも二極化がするんでいます。日本でもこのスピードは速いんじゃないかなーと思っていますが、結局のところ二極化とは何なのかというと、「脱大衆」と「大衆のまま」のそれぞれ2集団の分離に過ぎません。結果がすべてというこの世の残酷な現実に立つと、結果を出すために努力して、結果が出ないなら努力の仕方を変えてパラダイムを変えて優先順位を変えて環境を変えて、また努力する。

オルテガはこう言いました、

~優れた人間とは、自分自身に多くを課す者のことであり、凡俗な人間とは、自分自身に何も課さず、現在あるがままのもので満足し、自分自身に陶酔(とうすい)している者である。~

 

こういう「優れた生き方」は文章でながめるとすばらしく気持ちいいものですが、実際にこのように生きようとするととても辛い。誰もができることではありません。「人はみな楽な道に流れる生き物」として生まれてくるわけですが、脱大衆を達成できるのはほんの一握りの人々だけでしょう。これがエリートと呼ばれる由来です。エリート(フランス語: élite)とは、世間が批評するエリート像とは全く違い、本来学歴ともステータスとも権力とも差別とも関係ない。エリートとは精神構造のことで生き様のことだったわけです。当然エリートと大衆では時間がたてばそれだけ結果に差が開いてきます。二極化が醸成されるのはある意味歴史の自然な流れで、熱が温度の高いほうから低いほうへ移動するるのと同じなんですね。

 

恋愛の二極化も、こう考えると大衆構造が恋愛の分野で現れただけに過ぎません。ぼくらはその二極化をうんぬんする必要もなく、より魅力的な男になるために「自らに何らかを課す」ことしかできないんですね。

 

ブログでは一貫してストイックであることを布教しているわけですが、それは単なる美学ではなくそれが大事な大事な成功法則であるからです。それは自然界を見ても明らかだし、成功者の人生を客観的に見ても明らかだし、歴史の天才たちの見解も一致してるし、科学的に分析しても反論できないくらい明白だからですね。

そして今年一年を振り返って、無理すべきところはがんばるべきで、休むべき時は休まなくてはいけないことがわかったわけですが、そういう時ですら時間を浪費するような愚痴飲み会やダラダラYouTube、その他無意味な活動を切り捨てて思い切って休むという徹底したストイックさが必要だなと感じたわけです。

今年もストイックでしたが、上に行くために来年はもっとメリハリのきいたストイックさで、ストイックなほどモテることを身を以って証明しようと思っております。

 

今年も一年間ありがとうございました!

来年もよろしくお願いいたします!!

 

 

やじろべえ。

読者コメント~ オナ禁や筋トレで テストステロンを増やすことで自信が付きそしてモテるという観点~

前回、コメント返しすると告知いたしました。

そして今回。

書きましたよ。僕の持論。

では、コメントをおさらいしてみましょう。

と言って、

「は?いつの話だよ」

と感じる読者も多いことでしょう。すいませんでした。そうです、書く書く詐欺もようやくここにきて実現を見ました。読者から貴重なコメントをもらって2か月がたちました。ここに、ようやく上納する次第です。

 

まずは、コメントのおさらい。

 「人間の根本的な所から解説されていて、今までにない視点で、とても興味を持って読ませていただきました。
自信を持てるようになるために、 オナ禁や筋トレで テストステロンを増やすことで自信が付きそしてモテる という観点についても記事が読めるととても嬉しいです。 自分はいまオナ禁30日目で、自信が高まり余裕を持てていることを実感してます。 また同時にモテ効果も日々高まってるように感じます。」

 

この読者の感想を超訳すると、筋トレやオナ禁など、ネットで話題のモテるために男がすべきことを実践したところ確かにモテるようになったという実感がある。このモテ効果が高まっているのは、どういう仕組みなのか?と。

うれしい結果報告と、そしてそのブラックボックスを開けてほしいという要望だろう。あるいは、やじろべえさん的なる斬新で画期的な視点や秀逸な文章術で記述してほしいっす、というっことだと勝手に解釈しています。。

 

これに対しぼくとしては、

「自信を持つための方法論としては、すでに相場は決まっていて、あなたのやり方で結果が出ていれば、それは正しいのだから突き詰めてください。」

とアドバイスするだけになります。

常常明言している通り成功するのに一番近い生き方は「結果主義」だからです。努力は裏切らないのだから、結果が出ていないのなら何かがおかしい、結果が出てないのに正当化するのはダメ、と言いました。逆からみると、結果が出てるならそれをやめる必要もとりあえずはないとも言えます。良い結果の集合が成功への歩みだからです。

 

さて、問題はその目の前のいい結果が単発的なそして短期的なものか、それとも長期的なものでステージアップのプロセスなのか、それを金儲けで例えるなら、短期的な一時的な小金稼ぎ(一発屋)なのか、安定収入の初期段階(実力も伴う)なのか。今目の前にある結果からその性質、そこがよくわからない、という疑問でしょう。そのような微細な疑問や不安がよぎった瞬間、あれこれ考え始めて突き進めなくなるのが弱き人間です。そして、ほとんどの人が早く結果を期待したり、確実な結果の保証を求め始める。典型的なダメな例です。

 

では、何が結果の質を分けるのか?

もちろん、その見分け方は「本質」かどうかにかかっていますよ。というわけですが、ときどきブログ内でゆるく言及する「成功」とは本質の道を選択しその道を歩き続け「突き詰めたとき」にのみ現れる状態です。

真っ暗なトンネルを歩いていて光が近づいているようにも見えるけど、先落とし穴があるかもしれない、わからない、、だからブラックボックスを開けてください。ということだと解釈していますが、結局その答え合わせはいつも「本質かどうか」になります。

筋トレ、オナ禁をすればテストステロンが出る

→ だから、筋トレ・オナ禁をしている

  → 現に自信を実感している

    → モテ効果も確かにある

この一連の流れは、ビジネス的に言えばこれがテストマーケティングの結果ですから、この結果をスルーして全く新しいことをやる必要もありません。

「それをそのまま継続してください」

としか言えないのです。

 でもそれではあんまりだから、わたしの仕事である「意味づけ」をして、論題をクリアにしてみたいを思います。

 では、行ってみましょうー。

 

筋トレ 

今さっき言及したように、「本質」を追求したいならば、現象を忠実に観測しそれらを的確に解釈しなければいけません。筋トレには、筋トレクラスタの間で定説化されている理論と各ビルダーが独自に編み出した方法論、それぞれがあるわけですが、そういう風にストイックに方法論をこなし続ければどうしてマッチョになれるのか?という部分で避けて通れないのが一つの大切な概念「男性ホルモン」の作用です。

「テストステロン」

・ 筋トレすればモテる

・ 筋トレすれば男らしくなる

・ 筋トレすれば健康になりエネルギーにあふれる

こういう「筋トレ モテる」で検索すればズラーっと出てくるようなつまらないサイトがする説明もほとんどが、テストステロンの作用で説明できます。

「テストステロン。このホルモンは骨格の発達、筋肉の増大、あとはひげとか声とか性器とか男性を特徴付ける部分に働きかけます。」一般的にはこのように簡潔に説明されていることと思いますが、つまり、すべて男らしいといわれる身体的特徴に揃いも揃って作用するわけですね。

そしてミクロ的に筋トレの側面から語ると、テストステロンが筋肥大に貢献するポイントは、「たんぱく質の合成」においてです。ビルダーは筋トレで刺激を加えて、たんぱく質を摂取します。しかし体内ではたくさん鶏肉を食ったからといってそれが自動的に消化されて吸収され、筋肉になるわけではありません。ホルモンが作用して初めて筋肉へと変化する、筋肉形成のこの最終段階がホルモンの出番でありタンパク合成に不可欠な要素なのです。このようにテストステロンが触媒のように作用して筋肉が徐々に成長してマッチョへの道を歩んでいくわけです。

このような筋肥大プロセスに注目して、テストステロンブースターというサプリが開発されました。テストステロンの分泌を補助するという働きです(外部からテストステロンをぶち込むわけではない)。筋トレも大事(負荷で刺激を加えて「ココ筋肉必要だよ」と認識させる)、食事も大事(筋肉の材料を補充する)、でもホルモンも同じように重要な働きがあってはじめてマッチョが達成される、僕らが知らぬうちに体内ではこういう仕事がせっせとこなされてるわけです。

 

さて、筋トレすれば男性ホルモンが分泌される、という前提条件はよーくわかりました。なぜなら「必要」だからです。体力や筋力を要する大きな仕事をする男は、その高負荷的な日々の生活に最適化されるべきでいわゆるゆるふわで生きている男よりも強い肉体が必要です。肉体仕事→必要だから筋肉を作ろうとする体内→それを使ってより大きな仕事を。こういう一連の循環で最適化されながら人間はマッチョ化していきます。男性ホルモンの分泌は、肉体労働において高負荷のダメージを受けたとき分泌され、傷ついた筋肉をより強く修復し、次に来るかもしれないデカい肉体労働に備えるというゴールを見据えているわけですが、

「この働き者のテストステロンは血流に乗って筋肥大だけでなく男らしさに寄与するあらゆる働きに作用する」

ここに、テストステロンが男を男たらしめる理由があるのです。

まさに、『男性ホルモン』なのですよ。

ホルモンというものはとても頼りになるやつで血中に流れて全身を行き渡り、必要部位に作用します。そしてその作用は男性性をより大きく強くするほうへ働きます。ということは、理屈では体内のテストステロンの濃度が高いほうがより男らしくなれるんじゃね?ということはすぐにわかるでしょう。そしてじゃあテストステロンをどう高めるか?という課題設定がナチュラルに想起され、ステロイド打つわけにもいかないのだから「筋トレしようよ」という選択になるわけです。これが人類史における人の営みを考えると、非常に合理的だなーと考えさせられるわけです。

「昔の人は動いていたから元気なんだよ」ということを聞きますが、そこに回帰して、動いて汗かくと気持ちいいし、酸素循環がいいと脳がすっきりするし、身体の熱量も高いから免疫も上がって、健康だという単純明快な答えに至ります。そして動く=筋肉を使う、という観点では、筋肉は使えば使うほど使いこなしやすくなりそして上記のホルモンの作用でより強く男らしくなります。このプロセスは古代人まで遡って考えても、彼らは狩りをするという本業において運動量がハンパじゃない男たち、「仕事ができる」男 ですから、思想や雰囲気においても体つきにおいても一級品の戦士へと成長していったであろうことは間違いありません。

バカを治すのは運動という脳科学の定説通り、身体は思考や精神とコネクトしているわけですから、動く男、筋肉があって身体が引き締まっている男には健全な魂、つまり闘う精神が宿り、いい男になるわけですよ。

「運動している男」は女から評価が高いものですが、女が口に出さずともその本音はマッチョが好き♡ということであって、ぼくはこれをただ単に見た目が色っぽいというだけにとどまらず、テストステロンの効果によって男性を男性たらしめる部分が十分に発達して、ゆえに女は本能的に運動習慣がある男/筋トレしている男に吸い込まれていくのだと解釈しています。 

 

 

オナ禁

さて、オナ禁文化はネットの2chをはじめ、少し前からあったわけですが、ここ最近の盛り上がりは「サウザーさんのブログ」であると思っています。理論と自身の実験・観察によって語られるストーリーは説得力がありますね。

戦場のオナニスト|これからの「カネと女」の話をしよう。

(サウザーさんに了解取ってません、勝手の乗せさせていただきます! Twitterで連絡を取ろうと思ったけど、やり方がわからん!)

 

何かが発生したならば 必ずその背後には何らかの原因があるわけですが、オナ禁して「なんかモテるようになった!?」のなら、その原因としては、身体の変化が先にあって、自分自身が変化したから、ゆえにそういう自分を以って生きると、その「変化」が外界へ波及し外界の人々にも何らかの変化を与えたのだと考えるのは、原理原則通りでしょう。

 

その変化の過程においてポイントになるのが、

「エネルギー総量」

とぼくは考えています。

 

エネルギー(energy)と言えば、中学校の頃物理で勉強したアレですが、仕事をする能力、それが転じて身体の活力という意味をWikipediaは教えてくれます。このエネルギーもいろいろな角度から解釈できて「位置エネルギー」とか「運動エネルギー」といいますが、物体が何らかの動きをして別のものに影響するには、もともとのその物体がエネルギーを保有している必要があります。それがあって初めて、モノを動かしたり、熱を発したり、電磁気に変換されたりと、いわゆる「仕事をする」わけですよ。

摩擦によってこの運動エネルギーが失われていくと、動いていた物体はピタッと止まります。「エネルギーがなくなった」からですが、こうなるとなーんにも外界への影響力が出ません。そりゃそうです。この物体は「仕事ができない」のです。

 

僕は唯物論的立場はとりませんが、シンプルに考えると人間も構造的にそうであり、そーゆーもろもろの物質で構成されており、ニュートン力学で説明できる範囲で生活していますから、「エネルギーがなくなったら、終わり」。だから人生の成功を語るときは究極的にはエネルギー分配で戦略を組む必要があります。余談ですが、エネルギーがゼロなった時を死と呼びます。

 

前々から、「仕事ができる人」は「モテる」と言ってきましたが、ようするにモテる人、外界に影響力を及ぼす力のある人というのは端的に

「エネルギーがある人」

なのですよ。「仕事ができない人」「モテない男」はエネルギーのない男なのです。

 

前置きが長くなりましたが、テストステロンについて少し調べるだけで、これらは「男性ホルモン」のひとつで人を男たらしめる物質であって、「男らしくある」という目的のためにマックス働くホルモンであることがわかります。男らしさを左右するキーになる物質なのですから、これがいわば男らしいエネルギーの源です。

テストステロンのミクロな作用は生物学者にお任せするとして、マクロ視点で見ると、さっき物理を復習したとおり、エネルギー戦略で説明できます。つまり、高いエネルギーを保持してそれゆえに生活を謳歌し、影響力を行使しながら、当然のごとくモテる、という流れを取る必要がある。テストステロンは男にとってエネルギーの塊のような物質ですから、①テストステロンを増大させて、②そして無駄に浪費しない、という戦略で「男らしい」高エネルギーを維持し自己実現へと走り出すべきなんです。

 

マクロ的と言っても基礎ぐらいは把握していないとお話になりませんから、ここでテストステロンの作用機序を確認するとして。それはまず生殖器の形成という一次性徴が起きます。これは胎児がお母さんのお腹の中で遺伝子によって決定された性差により精巣ができるとそこから自ら男性ホルモンを大量に分泌し(アンドロゲンシャワー)、生殖器形成や脳の男性化へ作用します。この胎児の生殖器形成を一次性徴と言います。

さて、赤ちゃんがオギャーと生まれてきました。男の子です。この男の子がぐんぐん成長し、思春期に達しました。ここから、「大人の階段のぼる」わけですよ。テストステロンの出番です。思春期にひげが生えてきたり、筋肉や骨格の発達したり、性欲を感じたり、という二次性徴が現れます。しかし、「男性化」において一番重要なのは生殖能力の持つことです。子孫を残すことですよ。一次性徴では外見的に性器が形成されますが生殖能力はありません。性器の成熟や精子製造が二次性徴の主要な働きです。ここで仮になんらかの障害で睾丸からこのような男性ホルモンが十分に放出されないと二次性徴が現れないと言われています。ひげとか、筋肉とか、変声とかそういう特徴が発現しません。ひどい場合には精子が健全に形成されないという状況も起こりえます。

まとめると、男が成長するプロセス(二次性徴)において男性ホルモンは、生殖機能の柱である性器の成熟・精子の形成と、男らしい特徴である変声・骨格筋肉・性欲・男らしい振舞い態度、この二つへ(※あとの文脈のためにぼくが勝手に分類しました。)作用するというこ理解できました。

 

ちなみにここで歴史の話をしましょう。中国史には「宦官」という男たちがいました。この宦官たちは宮廷で使える男で、去勢されたためにひげがなかったり、筋肉が発達せず四肢の長く痩せていたりと、男性的特徴がない男たちであったと記録されています。そしてこの去勢した男は性格も攻撃性がなく非常におとなしくて従順であったために権力者にとっては非常に扱いやすいやすかった。それゆえに異民族の捕虜には去勢をして奴隷にしていました。テストステロン、さらにはホルモンなどの人体の小宇宙を構成するもろもろの要素のことなんてぜんぜん知らない古代の人々も、「男らしさの源は睾丸にあり」ということを経験則的に知っていたことになります。男性の睾丸には精子の製造と男性ホルモンの分泌という役割がありますから、子供ができなくなるのはもちろん、男性ホルモンがゼロになってしまうため、男性的特徴が消えて女のようになってしまう。この2点、このような状態は皇帝にとって男どもを宮廷で妃に使えさせるには絶対の条件で、男たちに去勢を施すというのは適当な処置として慣例化しました。

このように、男性ホルモンの代表テストステロンには二次性徴的に男らしくするためのさまざまな可能性がぎっしり含まれているわけですから、逆に去勢してテストステロン(これだけではないが。)を取り去って男性的特徴がまったくない男は、宮廷でこきつかうには好都合だったのです。

 

 

さて、歴史と生物作用、こういう材料をテーブルに並べてガリガリ考えると、いかにテストステロンが男にとってカギとなるかがわかりませんか。そして第二次性徴のプロセスを追っていくと、大事なことが見えてきます。

 それは、

『テストステロンの作用機序があり、平たく言えば優先順位がある』

ということです。

 

身体としては、子孫を残すために生殖につながる一次性徴が「まず」先に来ますよね、そして二次性徴においても生殖能力の獲得と成長が最重要課題になります。ひげがなかったり、声が男らしくなかったり、マッチョじゃなくても、生殖能力の段階までを満たせば生殖は可能であり性交により子供を生み出すことができるからです。もう一度言いましょう。生殖器の発達や精子の造成が最優先です。そして、この過程が十分程度に完了したら 、はい次、と二次性徴の各々の作業へとテストステロンさんが駆り出されるわけですよ。男らしい声、男らしい身体、男らしい性格気質は女性を引き寄せるうえで有利に働くため、生殖器の成熟と造成が整えば次のステップ「男らしさ」へ進みます。こういう生物学的な背景はジェンダーとはまったく矛盾することなく、女がなぜそういう男らしい男を好むのかを生物学的観点からよく説明しています。

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さて、このときテストステロンさんが余っていない(ーつまり不足してい)たら、もろもろの微細な男らしい作用に至るまでこのホルモンが回らず、これらが充分に発動しないという事態になることは想像に難くないでしょう。体内でそういう分布になったら、起こるべき反応が発現しないわけですから外部の人々はぼくらの男らしさをほとんど認識できません。つまり裏を返すと、男らしい男というのはどういう男かというと、男性機能が十分に発達したあとに、さらにしっかり男らしさが発動するほどテストステロンが「余っている」男ということになります。

 

「男にとってこのテストステロンがエネルギーの源」

ここから、エネルギー戦略においてこのテストステロンが不足しないというのが漢であるための絶対条件で、テストステロンエネルギーが満ち溢れる男を目指すべきなのです。テストステロンが体内で溢れている男が「男らしく色気のある男」「闘う男」「頼れる男」「仕事ができる男」という生物学的解釈になりました。

 

生物学的な文脈で女の好みを論じてみましょう。テストステロンの作用がそもそも男の生殖を司るための最も中心的な物質だとすれば、テストステロンに満ち溢れている男は生殖力が高く子孫を残すのに有利な男だと言えて、女から見たらこういう生命力にあふれた男を求めるのもごくごく自然なことになります。テストステロンに溢れている男を探せ!これが生き物としての彼女たちの戦略になります。

しかし、恋愛こそが生きる目的である彼女たちにとって「いい男をつかまえなくちゃ♪」と街に繰り出したり、合コンに頻繁に顔を出したり、サークル巡りをしたりと必死なわけですが、生殖力の高い男をどのように見分けるのか?これが最大の壁になります。そしていちいち採血させてもらってテストステロン値を調べるわけにもいけません。そこで彼女たちは何を見ているかと言うと、テストステロンのもう一つの作用「男らしさ」に本能が注目しそれを嗅ぎ取り、そこでフィルタリングするわけですよ。女という生き物が「男らしい」「頼りがい」とか「仕事ができる」「頭がいい」「筋肉がある」とダラダラ並べる羅列はそもそも言語化できないwhyを司る脳領域が発言させているわけですから、男にとって本来何にも有益なステートメントは含まれていないはずなのですが、どういうわけか女という生き物が揃いも揃って選ぶのは上記の条件に収斂するように思えてなりません。というのも実はすごく真っ当ことなわけですよ。ルックスがいいという基準ですらそれぞれの女の好みで主観でありながらもwhyのfeelingがしゃべってもいますから生物学的文脈から語ればそテストステロン量が多い男、共通の原因としてテストステロンの作用で説明できるんじゃねーかと思っています。

テストステロンの作用順序に注目すると、色気があって男らしい男、それは生物学的にはテストステロンの量とか作用によってすでに生殖能力が高いという要求をクリアしている男なのですね。男らしい=私は(優秀な=生物として強い)子孫を残しやすいですよ、というシグナルを発している男と解釈できるのです。女が語る「男らしさ」はもこういう観点で見ていくとあながちバカにはできません。

 

テストステロンが男らしさにとても深い関係があることは周知の事実になっていますが、オナ禁もサウザーさんの理論と実証研究により明らかになってきましたが、

ではオナ禁とテストステロンの因果関係についてはどうか?というと、(ぼくは今論じたような論を信じているが、)論文が少ないのも事実です。

実験によると、オナ禁開始から7日後が一番血中テストステロン濃度が高くなってそこから下降するようです。だから、結果に忠実に解釈するとオナ禁効果は1週間がMAXという結論に至ったようですが、そんなわけはないでしょう。だって血中で増えたあと、その血の流れに乗っかって必要な身体の部位に運ばれ、細胞へと取り込まれ作用するわけですから一旦減るのは当然なのです。

サウザーさんのブログにも書いてありますけど、男の造精プロセスは精子の成熟とまで60日かかりますから、その長い過程でテストステロンが何度も作用するわけですよ、その各々の作用として発揮されるために。作用の結果として男らしさが醸し出されるのに、単に血中濃度がだけみてもしょうがないと思えるのはボクだけでしょうか。

たった1週間だけじゃなくてやはり、ストイックな“ほど”価値が上がるのです。

 

筋トレにしても、オナ禁にしても、生物学的にはテストステロンが分泌され、浪費することなく効率的に作用させることで男らしくなれる、これがごくごくナチュラルな身体反応であることが今回の簡単な説明でなんとかイメージできたのではないでしょうか。女が最終的には顔とかマッチョとか男らしさと言う背景には確かな理屈があり、ただ単に彼女たちの印象ではなく生物学的背景が土台としてドッシリかまえているのです。しかしながら巷に溢れている情報は「かっこいい男になりたい」「モテたい」というぼくらの自然な欲求に的確な答えを与えてくれないゴミのようなものばかりです。だからこそ草食の時代になるのは必然であり、時代がそうなれば正しく努力する人にはチャンスになります。僕らは日々「道」を追求しつつ勉強して実践してストイックに生きていくことでしか競争を優位にできないし、高尚な男らしさのステージには到達できないのです。

筋トレとかオナ禁という原因が確かにモテという結果へつながることは経験則からも理屈を考察してもよく理解できます。が、テストステロンという人体の物質、その背景にある反応、そして人類の歴史を通して、男らしさへ「なぜ?」を問いかけ続けるととても有意義な知的営みになりますね。

 

ぼく自身は以前も述べたことがありましたが、「それは本来的である」、これに集約されるんじゃないかなーと今でも思っております。

本来、人はそういう存在で、人類はそういう風に生きてきた歴史がある。その歴史を踏まえると、「それが人間らしい」といえる。人間らしい生き方をすると自然にメタゲーム的に勝ちを積み重ねていけるのではないかというのが今の暫定的なぼくの結論なのです。

 

“本来の“=ナチュラルに生きる、これは

「人は体を使い動かし、獲物をとったり、魚を獲ったり、野菜を作ったりしていた」

「エロ本やポルノ動画はなかった」

とか、そういうある種原始的な生き方、便利なテクノロジー時代に一部逆行したにな生き方になるでしょう。もちろん人にはそれぞれの生き方があるでしょうからこれが最高というつもりはありませんが、「モテるというゴール」を設定するなら、男らしく生きて男らしく死にたいという思想があるなら、これが王道でありながら最短な方法なんじゃないかなと自負しております。いろいろなしょうもないモテ情報に振り回されてきた人々にこのストイックな生き方を試してほしいと思っていますよ。そしてモテるための真実に早く気付いてほしい。

 

生き方なんて人それぞれの理想や思想がありますから、そういう他者の様々な生き方、僕にはできない生き様を客観的に見ると、ボクには出来ませんがそれもまた興味深い。うん、これが人間、これが人生、と思います。そういう異なる生き方が集合して「歴史」ができているのもまた、事実。

人生、おもしろく生きないと損ですよ。

そして、モテない男は本人にとっても社会にとっても大損なのです。

 

◎やじろべえ◎

 

 PS.

コメントいただいていた匿名希望さん、大変お待たせいたしました。今回の記事気に入っていただけると、うれしいです。ストイックに生きるのは時にしんどいですが、この記事が力になれば幸いです。がんばっていきましょう!

私も筋トレやりすぎて風邪ひきました。。

生物学に詳しい方、本記事に誤りがありましたら、ご指摘ください。まだまだ勉強していきたい次第でございます。よろしくお願いいたします。

 

 

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