モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

本で振り返る 2018年

 

 

こんにちは、元号が変わりましたね。

こういう転機というのは、「ここから心機一転」、新しい気持ちで未来へ取り組んでいくスタートダッシュのきっかけになります。

だから目的はスタートダッシュであって、ダラダラと回想するのではありませんから、「平成はどういう時代だったか?」と過去を懐かしむのはほどほどにしましょう。

懐かしむ、という感情がジーンときた時点で、だいぶ過去に引っ張られて、ほとんど未来は見えていないはずです、爬虫類並みに未来がボンヤリしてしまい、現実の人生もぼんやりしてしまう。

平成を懐かしむのは5分ぐらいにして、さっと未来への設計図を再びデザインしてください。

 

さて、

ぼくはいつも、マインドをセットするポイントはINPUTだ、と言っています。

INPUT、何かを取り入れることがステージアップに直結しているんだ、というメッセージを常に出しているつもりでいます。

、、、と言って、前回は排出と言ってなかったっけ?

と感じる人もいるでしょう。

そのとおりです。

INPUTと排出はほぼ同じ、表裏一体、コインの表と裏なのです。

 

一向に変化しないダサい自分を振り返って、これではいかん、オレはいったい何をINPUTするべきだろうか?

という岐路に立ったときおそらくこの問いを突き詰めていくことになると思いますが、

そうするとどうなるのかと言うと、

INPUTが取捨選択され、洗練され、いいもの”だけ”をインプットするようになる

そうなります。

そうするとゴミをINPUTする余地がなくなり、おのずとINPUTの質が向上する、という理屈です。

 

とある健康マニアのIT系社長が、こんなことを言っていました。 

「砂糖は身体をザビさせる、だからダメだと思っていたけど、どうやら新説では大丈夫らしいんだよ、今は砂糖を少しづつ取り入れてるけど、今のところ身体は問題ないんだよ。

でも砂糖断ちをしたあの時、確かに体調は劇的によくなったような気がしたんだよな~。

あれはいったいなんだったんだろうか?」

と。

 

結局、彼はその理由をこう結論付けたのでした。

「砂糖断ちのつもりでガラッと一変した食事の中に、幸運にもグルテンとかマーガリンとかそういうものが入る余地がなかったからじゃないだろうか」

 

そうです。

つまり、

食生活を変えなきゃいけない、いいもの、いいもの、とそれを取り入れていくと、それに従って取り入れる食事が取捨選択され洗練されていき、特段ターゲットとしてはいなかったゴミ食品まで見事に排除されるようになり、

お腹は常に良いものでいっぱい、食欲もいい感じでストップし、ゴミを食べたい(間食したい)とは思いません。

「良質な食材でお腹の空腹をすみずみまで埋めていた」

というのが、例の社長の変化の要因であるとぼくは見ていて、INPUTと排出は表裏一体と述べたことの意味なのです。

こういう健康面での良い変化プロセスというはその分野に限ったことではありません。一事が万事でどの領域にも当てはまりますから、

ゴミをインプットしている限り、マインドはセットされない

→ モテない、男として華が咲かない

ということになる。

 

「だから、インプット」というのがぼくの主張で、ブログの中でも割と多数を占めているのではないでしょうか。

 

じゃあお前は何をインプットしているのか?

という質問を以前にもらっていたので、またまたここにサラッと記事を残しておきます。

 

興味ない人はスルーで。

 

なぜなら今回の記事は単なるぼくが最近読んだ本を紹介だからです。

 

では行ってみましょうー。

 

 

マクロ経済学

  

 

経済学というのは、文字通りそもそもがいったい何のことを指しているのか、経済学者とはいったい何を研究している人々なのかが、釈然としないのではないでしょうか。

一般的にも「経済を勉強してお金が稼げるの?なにそれおいしいの??」ぐらいに一般からは思われてる節がありますが、

これでは、ぜんぜんお金を稼げません。

動機も間違っているし、経済学に対する認識も間違っているからです。

いかにお金を稼ぐかというのなら金融を学ぶべきで、経済というのは「問題の解決」に主眼が置かれている学問です。

問題解決なら全体を理解してないと「対症療法」になってしまうわけだから、マクロにその全体をとらえようとするわけですね。

アダム・スミスもケインズもクルーグマンも、みんな目の前で起きている問題を解決するために全体像からその経済の本質を暴き出そうとしていたのであって、目先のお金欲しさに経済をやっていたわけではありません。

経済とは、目先目先の人間にはなんともめんどくさい学問で、どうもその学問の価値が量れないお勉強でしょうが、あらゆる要素を同時に考慮して意思決定する上でこれ以上ない時頭を鍛えるツールだと個人的には感じています。

さて、

今日紹介したい経済学の3冊。

1冊目は貿易理論をベースにしたグローバリゼーション擁護の本、2冊目は歴史学や社会学をベースにしてより良い経済制度を模索しようとする本で、反グローバリズムの立場から書かれています。

1冊目と2冊目は正反対の主張で、真逆のポジションから様々なデータや歴史背景や学者の論文や駆使しながら互いをディスっているわけです。

だから、『富国と強兵』における方法論というのは、反グローバリゼーションにより国力、つまり国家の総合的豊かさを生む原動力自体を増強すべき、という論陣で、国を閉じるから国力が増すんだとし、その前提で制度設計をしています。

これは、グロー

バルに規模を広げるから全体としてのパイが大きくなって、世界全体(これには自国も当然含まれますが)が豊かになるんだ、という理論とは真っ向から対立していますね。

だから著者の中野剛志氏は、「わたしはナショナリスト」と断言して憚らず、たびたび「国民国家とは」を中心に議論が展開しています。

この2冊とも分厚くてまあまあの値段がしますが、ポイントは(何度も言ってる気がしますが)、二つの真逆な主張を目の前に並べて比較しながら読み進めること、だから怯むこと無く(1冊でもしんどいですが、)2倍のつらさにチャレンジしてほしいと思います。

これが本当に理解が深まり世界が広がるのですよ。

そして、どちらも頭のいい人たちが書いているので、なんとも言えない納得感があります。

で、ぼくはいったいどちらが真実な経済学を描き出し、その二択のうちで進むべき正しい未来をぼくらに示してくれるのか、

これを探求し続けて来た結果、わかったのは

「単なる立場の違いにすぎない」

というシンプルな結論に回り回ってたどり着きました。

そこに真実があるわけでは決してない、

"自分が"どういう未来を理想とするか、どういうユートピアを描いているのか、に過ぎないんだ、と。

自分が、というのを強調したのには意味があって、何をもって「理想とする世界」なのかはまったく人それぞれで、あっちを立てればこっち立たずの現実の中にあってより良い(と個人が思える)選択をするしかないのです。

もう一度強調ですが、その「より良い」とは色濃く個人の思想を投影してるんですね。

経済学者は最適な資源の配分、世界の裕福さの底上げ、効率化、などを目標としていて、

一方、社会学者は社会のあるべき姿、強い国の作り方ということを目標としていて、

そもそも想定している着地点が違うのです。

本の題も「富国と強兵」なのですから、そもそも我が国の国力の成長が主たる目的であり、その他の国はぜんぜん考慮に入っていない、むしろ競争相手だから時として蹴落とす必要も生じてくるという認識で、

世界全体をどう底上げするか?をいつも考えている人々とは目標もそもそもの出発点もまったく違うわけですね。

これは、人間は性善説か性悪説か、というのと同じほど真逆の論理で、だけど人間はどちらの面も持っているし、両者が真実をついているとも言えますね。

結局は真実の探求を期待するということではなく、自分のユートピアを自分で決めないといけないということではないでしょうか。

ネトウヨにしてもホリエモンのような合理主義にしてもどちらも、結局は自分がどういう世界に住みたいか、どちらがよりマシか、という理念から出発して自らの考え方を構築しているに過ぎないわけですね。

それはハイエクが自由を重視し、ケインズが失業問題の解決から出発し、マルクスが平等を志向しても、「それぞれ」が経済学のクラシックになり、後世の土台になったのと同じなのですよ。

さて。

「自分のユートピアを自分で決める」にも、そもそも物事が見えていないなら、決めようがありません。

その中で、3冊目。

これはマクロ経済学のスタンダード本です。「世界のエリート」が学ぶのかどうかは知りませんが、全体性を過不足なく網羅してくれてマクロの名に恥じない仕上がりで、間違いなくわかりやすいです。「アウトプット」「金利」「期待」という経済を動かす諸要素を例え話を交えて語ってくれるところが知的エンタメとして脳内を刺激してくれて、とてもおもしろい一冊でした。

物事を自分で決められない人、というのが世の中にいますが、ぼくは原因の一端は、その物事が漠然としていて見えていない、

見えてないのに何を決めるの?失敗するんじゃないか、自信がない、、

という状況なんじゃないかと見ています。

そんなに詳細までも知る必要はないけど、最低限のことを過不足なく知る、自信をもって決断するには常に頭の中が対象する物事へジャストにフィットしていなければなりません。

その点でマクロ経済というのは、自己研鑽にとても役立ちます。

プラプラ自分探しなんてするよりよっぽどいい。 

マクロ経済学の全体像を、専門用語や複雑の数式なしで描いてくれてた本書。

一気に読めます。

 

 

ミクロ経済学

  

続いてミクロ経済。

1冊目にこの図解シリーズを持ってきましたが、このシリーズは非常にわかりやすいと思います。

ミクロ経済学もグラフや数式がゴリゴリに出てきて一気に読む気が失せるんですが、その中の理論一つ一つは僕らの生活の要所要所で力を発揮するでしょう。

そういう意味で巷の成功哲学よりも使えるんじゃないかと感じます、いづれにしてもそれさえ押さえておけば大失敗することはないでしょう。

だから読む気が失せるミクロ経済学本は多いわけですが、そこはがんばりたいところです。

まずはこういう図解シリーズの初心者向けから入って基礎を固めるといいですね。そしてその後その道の一流、スティグリッツ先生に教えてもらう、というやり方がいいんではないでしょうか。

何度も定期的に本棚から取り出して、時には2冊並べて並行しながら読むといいかと。

ところがこのスティグリッツの本は、値段を見て「高え」と思った人もいるかもしれませんが、驚くなかれ、700ページ越えと書籍の分厚さも飛びぬけています。

そんなに書くことあるのか、、、

読むのも大変なのに、700ページも書くなんて、

頭の作りが違うとはこういうことだと確信しました。

ドMな読者は挑戦してみてください。

 

ミクロ経済学とは何か?

と聞かれたら、ぼくはその本質を

「いつまでも、あると思うな親と金」

と言うでしょう。

要するに、「時間が過ぎてくのはあっという間だよ。だからやるべきこと(Something you have to do)をやりなさい、、」ということを、言っています。

こんなこと親から言われたらイラッとしますが、ミクロ経済学から科学的に言われたら、その重要性が心底わかります。

ここがはっきり理解されれば、ぼくが口酸っぱく言っている「人生の無駄を削れ!」「だらだらYouTubeを見るな」「運動しろ」「食事に気をつけろよ」「オナニーは百害あって一利なし」という言葉の欠片が、その断片たちがパズルのようにつながって見えてくるはずです。

「こんなこと、わざわざお前から言われるまでもない」とすら感じてしまうでしょう(泣)

なぜなら、ミクロ経済学とは個人における資源の最適配分だからです。それも有限な時間の中でどれだけのコスパを達成するかというのが命題なのですから。

こういうことを考えると、学者たちがミクロ経済学でゴリゴリ研究しているエッセンスは「死ぬ前に後悔しないために」「死ぬ前にしたい10のこと」なんていうまじめな人生論の科学版であり、それら耳の痛いことも立ちどころに現実味を帯びてきます。

死ぬ前にしたいこと、というものには、おそらく終わりがありません。どれだけ必死にひとつづつやっても新たに次から次に出てくるはずです。

なんでだか、それが人間なんですね。

一方で、それでも西郷どんのように潔い死に方をする人間もいます。

人生を全うしたように見える人ですね。

彼は志半ばで亡くなったことが知られているわけで、原理的には人生というのはどの時点でも志半ばなのですが、彼の死に際は本当に潔いものでした。

だから結局は気持ちの問題ということになりますが、ミクロ経済学的にコスパよく、自分の自己実現に向けて生きると、やりたいこと・達成したことで身の回り、マインド周りがポジティブに蓄積されていくわけです。

ここではじめて、志は半ばなのだけれど潔いというのが達成されるんではないかとぼくは思います。

残念ながら、この逆もあります。

これは「無駄を蓄積する生き方」で、世の中的にはこちらのほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。

このときの「無駄」とは、資源配分として浪費ばかりしてることを指しますから、「後悔」が最大化してしまうわけですね。

人生の時間は有限だよ、という観点を教えてくれるのがこの勉強なのです。

しんどいですがさっさと時間をかけてココを勉強して、有限の人生を充実させていきましょう。

 

 

行動経済学

   

 

実は、1冊目の『入門経済学』という本は行動経済学の本ではありません。そこはまずはっきりさせておかないといけないと思います。

じゃあなぜこの本をここにもってきたのかというと、ダントツにおすすめの経済学「入門」の本だからです。ぼくも「グラフ・数式のない教科書」というサブタイトルに引き寄せられ、手に取りましたが、スタンフォード大学で教鞭をとり、民間や政府機関のエコノミストとして公共政策に提言している著者だからこそ、文章だけでここまで経済の本質をあぶり出せるのだろうと思います。

マクロとミクロでそれぞれ基礎編、初心者向け、入門書というのはあるわけですが、『入門経済学』は、マクロミクロに限らず

「そもそも経済とはいったい何なのか」

という質問に答えてくれています。

我々はそれを一言で答えられるでしょうか? 

さっき「一体何を研究している人なんだろう、経済学者とは。。」とポロッと言いましたが、

その本質をつかむにはこの本一冊あれば十分だと思います。経済についてずっと前から知っていたかのようにしたり顔で語ることができる、「経済とは、企業や個人が学ぶお金儲けに関する学問」などという誤解にドヤ顔でレクチャーしてあげることができます。 

価格とは、お金とは経済学においてどういう役割を演じているのか?

なぜ国家の価格統制と企業による独占は経済学的に失敗するのか?

生産性と報酬の正しい理解とその関係は?

有害な規制とはどういう種類のものか?

時間とリスクは経済という文脈でどう役立つのか?

「非経済的」価値とは具体的に何を指すのか?

とマクロとミクロの経済を網羅的に記述しているのです。

なんだかブレストのようなことを言ってしまいましたが、それだけ多くのことが学べるコスパの良い本です。

著者もすごいけど、訳者もすごい、表現にうるさい僕でも、だからここまでわかりやすく説得力をもって書けるんだろうと納得、そんな「1冊で10学べる、しかもエキサイティングに」という書物もあまりないんじゃないかと思います。

電子版は無いじゃないか、とガッカリしましたが、こんな良書は紙で持っておくべきだなと、すぐ我に帰りました。はい。

以前、ZOZOの田端さんとソーシャルワーカーの藤田さんの対談について記事を書き、藤田さんをディスったのですが、なぜソーシャルワーカーの主張が現実味がなく、穴だらけで、感情論に終始してしまうのかが、この『入門経済学』を読めば一発でわかります。

それは

「裕福とか貧困というのは社会が作り出しているんだと解釈しているようだが、そんなの間違いで、経済の本質とは資源の分配に過ぎず、お金や価格というのは経済学的なコミュニケーション手段に過ぎないから」

となります。

お金に善悪が無くそれ自体は価値中立なように、社会は何らかの意図を持って操られているわけでもない、単なる現象なのです。

悪い人というのは世の中に常に存在していますが、(感情論的に)社会を変革しようとするともっと残酷な社会になってしまい常に大きな痛みを人類は経験してきました、その原因が「経済学の本質をわかっていない」、「その原理に対する無知」であるということが、この本を読んですっきりわかると思います。

だから、明後日の方向へ行かないでほしい、藤田さんをディスったわけですよ。

……という基本のキを押さえたらいよいよ行動経済学の出番です。(やっとかよ汗)

経済学のベーシックな枠組みというのは、需給バランスで価格が決まるという前提で構築されていて、その中に「人間は常に合理的に功利的に振る舞う」、というのもが重要なウエイトを占めています。

人間がそういうふうに意思決定するから、資源の最適分配が成り立つんだとも言えるでしょう。

マクロ的に見たらこれが経済を非常にシンプルに説明できるポイントなのです。

ところが、ぼくらが物を買うときというのは、需給のバランスから希少性を感じ取り購買しているわけでも、この商品はお金より価値があるから(モノとカネの総量バランス)、だから購入しようなどと合理的に決断しているわけでもありません。

なんだか欲しいという、ある種の衝動で購入し、そして買った後で後悔したり理由付けして正当化したりするのが人間、ということが、もうすでに種々の研究でわかっています。

うろ覚えなのですが、たしか、「オーナーがバイトに「半額で売っといて」といった商品に、バイトが間違って2倍の値札をつけてしまった、、が、なぜかその商品は飛ぶように売れていった」

という例があったような気がします。

物は同じなのになぜか高い方が価値があると人は感じてしまう、安いと粗悪品なんじゃないかと疑って財布のひもは閉まったまま、そういうことが普通にあるわけですね。

すべて感覚の世界で起きている出来事です。

伝統的な経済学の理論では、こういう事例は説明がつきません。

そもそも人は、経済の原則を頭に入れてモノを買っているわけでもなく、ただ単に心理的な感情や衝動でお金を払っているんだ、という「人の心」注目して、その行動をベースに経済理論を構築しよう試みたのがこの「行動経済学」なのですね。

この学問はわりと最近出てきて、伝統的な経済学をひっくり返そうとするもんだから、経済学界では異端とされて来ました。だから

『逆襲の行動経済学』

というキャッチーな題目をつけているのです。

どういう逆襲をしているのか、天才たちの苦悩がぎっしり詰まっている一冊です。 

 

 

国際関係論・戦略論

   

 

日本人がもっとも知らないとされる学問が、この「国際関係」です。

国際関係とは、そもそも国家同士がそれぞれどういう関係性なのか、これこそが政治(まつりごと)を決めるというほど重要な要素で、

現在、米中関係でバチバチ繰り広げられている貿易戦争においても、両国がかじを切る要因となっているのはこの「関係性」です。

なぜ中国と貿易戦争しているのか?

日朝首脳会談とは何だったのか?

アメリカが中東問題に口挟みたがるわけは?

その中東問題においてアメリカの敵は常にロシアと仲がいいのはなぜか?

トランプの「メキシコとの国境に壁を作る!」の意図は?

こういう課題において国に意思決定させているのはそれぞれの関係性なのです。

そしてこの関係性を作ってきたのは「地理と歴史」です。

だからこれは何も現代に始まった話ではなく、これまでずーっと存在していたことで、歴史的に経済も福祉も「戦争のために」を発端として発展してきた背景があります、そして現代社会を特徴づける平和な社会、福祉社会、グローバリゼーションなどなど、これらはすべて人類が戦争から学んだ教訓なのですね。

戦争というのは、敵国から自国を守るためにどうすんのか?武力行使するか?おう?と、そもそもが対外的なものです。大国は隣国の小国を侵略するし、小国はそれに対抗するために別の国に助けを求めて同盟を組もうとする、意識や課題は「常に外」で関係性の攻略·改善で、そのHOWが「戦略論」というものを発展させてきました。

大国が隣国を侵略するのは、為政者の征服欲なのか自己顕示欲なのかわかりませんが、実際はもっと戦略的でその土地にある資源、土地に付随する海域、大国同士の緩衝地帯、というように版図拡大という単純思想を隠れ蓑にした総合的な国力強化・覇権争いなのです。

米中関係も、核心はそう。

朝鮮戦争、印パ戦争、ベトナム戦争と記憶に新しいこれらの戦争はすべて隣人トラブルです。

日本の日中戦争、日露戦争も、緩衝地帯としての満州国の争奪戦でしたから、日本が遠く離れたアルゼンチンと戦争などしないわけで、その関係というのは多分に「地理」に依存している、それがさっき「地理が作った」といったのはそういう含みです。

だから、4つ紹介した本の中でその内の3つは「地政学」というテーマのもと語られているわけですよ。

んで。

まずは地政学本から読んでみましょう。

一冊目の著者高橋洋一さんは、テレビではあまり見ませんがネット界隈ではよく知られていて、金融・経済の分野で今の安倍政権の経済分野を支えている数量経済学者です。

この人、超頭がいい。

「数量経済学者」ですから完全に理系・数学系の脳みそで、その理系思考から経済問題に取り組んでいます。そのスタンスはリフレ派で、これまたネットの論破もので有名な上念司氏が「わたしの経済理論は全部高橋先生のパクリ」というほど、その方面の博識な人からも信頼されている学者です。

海外にもそっち系の知り合いが多く、海外の天才たちともバチバチ議論をしたりして知的交流をしているようです。

財務省官僚出身ですから頭の良さは折り紙付きですが、ネットでの発言や番組をみるとその精神性や生き方は反官僚的で非常におもしろい、財務省出身で反増税を声高に叫ぶ辺りがポジトークではなく経済的真理を探求している感じでいい。

こういう頭のいい人というのは、世界の出来事に対して興味の塊なので多方面に非常に造詣が深く、また世界経済というのは世界情勢に左右されますから、その辺の基本として地政学にも詳しいわけですね。

ここから「地政学」の本を書いてしまった、ということでしょう。

さて、2冊目の地政学本は予備校出身著者の一冊。

著者の茂木誠さんの専攻は世界史です。

だから、「世界史で学べ! 地政学」です。

国際関係は歴史と地理ですから、それを学ぶには世界史が一番いいわけですね。

しかし学校で学ぶ世界史というのは、出来事の羅列、それを善悪や理想論の文脈で語る、という、なんともつまらない、人を誤った方向に誘導しているという点で、たいへんいただけません。

だから、学齢期に一生懸命勉強しても大人になってから何にも残らないし、国際関係が見える日本人が日本にはほとんどいない、という事態になるのです。

学生時代の世界史は揃いも揃ってこういうものですから、リアルな国際関係は別の情報源から学ぶしかありません。

学校へ行って無駄な歴史の授業を10年以上も経験し、それ無駄だから、ていうか有害だから、もう一回リアルな世界史をやろうね、と今サラッと言ってたわけですが、

ここはぜひ気合い入れて学び直したいところです。

なぜそんなにがんばるのか?

なぜなら、学校で歴史を勉強しても残らないけど大人になっても何も困らないのでオッケーというのは大間違いで、世界情勢というのはステージの高い人の間では「それは適切に見えて当たり前」ぐらい重要な教養であり、その土台にあるのが「国際関係」なのです。

本物の教養が本当に身に着けば、生きているだけでどんどん人生の実利が追い付いて来るというのが自己実現ですから、これはマスト。

まずはこの2冊で地政学というものを学び世界をリアルに世界を見るようにしましょう。

土台が仕上がったら、満を持して古典、ルトワックの『戦略論』です。

これは戦略論を学ぶ上での重要なテキスト、ルトワックは世界における三大戦略家のひとりです。

この戦略論は、国家のかじを切るなら必ず知っておかなければいけない国際関係なわけですから、国家首脳はみなルトワックの『戦略論』を読まなければいけませんね。

ときたまルトワックも来日して各国首脳陣と会ったりしているようですが、

そのルトワックは「安倍首相は稀代の戦略家」と言ったそうで、では安部さんのどのへんに戦略家気質を見ているのかそのへんの理由もなんとなくわかるかもしれません。

ルトワックは中国本、日本本も出していて東アジアについての提言もしていますが、世の中には右から左まで提言が玉石混淆に溢れている中で、彼のそれは「戦略的」バックグラウンドから導き出されているわけですから、いったいその提案はどこから来たのかというと、この『戦略論』なのですね。

ぼく個人としては彼の概念の中で重要なのは、

・大戦略

・逆説の論理

だと思っていますが、こういう射程の広い理論は日常でも使えて、役に立つ、

訳が分かりづらいのが瑕でありますが、ぜひ読んでほしいと思います。

「私の目的は、あらゆる形態の戦争や、平時における諸国家の対立関係を条件づける普遍的な論理を明らかにすることにある。」ー『戦略論』エドワード・ルトワック

 

最後の4冊目は、内容として「こういう地政学的知見を活用して国防をやるとすれば具体的に何をすべきなの?」 ということを書いています、

著者は自衛隊上がりの軍人さんですから、ドンパチを想定したシミュレーションが盛りだくさん。

これを「地政学」と呼べるのかは微妙なところですが、わりと面白い読み物に仕上がっているのではないかと思います。 

 

社会学

 

日本でも「もしドラ」で有名になったので知っている人もいると思いますが、ドラッカー氏の書作です。

ドラッカーと言えば「マネジメント」「企業家」「イノベーション」「経営者」というイメージがあって、まあ実際にそういうテーマで本も出していますから、日本人にはドラッカー会社を経営する類の人かと思われている節がありますが、彼自身は社会学者で思想家です。

だから、

彼の書作は経営者上がりの作家が書く経営カテゴリの本より圧倒的に面白いわけです。

このネクストソサイエティという書名も「次に来る社会」という意味ですが、彼は社会学者(あるいは未来学者)として一歩目二歩目先にはどんな社会が想定されるかを常に意識した学者でした。

そしてその流れを現在から振り返ると彼の予測は圧倒的に正しい。

ぼくはこういう天才の思考のプロセスをなぞっていくと、「人間とは何か?」という普遍的な問いに少しでも近づけると思うのですよ。

なぜなら、社会を構成しているのは人間だからです。

人間の普遍的なる何か、その片鱗に少しでも触れることができれば「モテる」なんて簡単に解明できそうですよね。

モテるテクニック本をパラパラめくっただけで心がパタッと閉じてしまうのに、こういう時代の淘汰を生き残る古典はいつ読んでもストンと腑に落ちて納得してしまいます。

彼の作品が時代を越えるのは時代を意識していたからですが、執筆のモチベーションや内容のコアとなったのは「全体主義の防波堤として自由を守る」という壮大なもので、今テレビに出るような社会学者とは言ってることのスケールが違い過ぎて、マジでこういうお堅い本を時間かけて読んだほうが身になりますよ。

 

歴史

  

 

ぼくは、単純に好きだからという理由で歴史は定期的に読むんですが、この2冊も非常に楽しく読めました。

学生時代は圧倒的に歴史の成績だけがよかったぼくですが、いつになっても飽きません。なんで歴史をこんなに愛好するかは脳を開けてみないのでわかりませんが、こういう感覚を持っているということは本当にありがたいことです。

学生時代は「歴史」が学生にとってワーストをいく不人気科目なのはしょうがありません、学校教育というものを考えればそれはたいへんよく理解できることですが、大人になってからこそ歴史というのはますます重要なのです。

「なんで過去なんて勉強するんだ、未来を見ようぜ」などと自己啓発の二番煎じ三番煎じのようにわかった風なことを言う大人がいますが、だからいい年してお前には何の残ってないんだよという金言をぼくは送りたいと思います。

未来は大事ですが、過去を理解しない者の未来には打つ手がないのです。

自己実現という点では「歴史」という科目は本当に重要で、年を取れば取るほど歴史への理解の有無が如実に人生を左右します。

「歴史は繰り返す」

その背後には確かな理由やロジックがある。

さらに、時代に名を残す人々というのは歴史に対する造詣が深いということも付け加えておきましょう。

ぼくらは歴史に名を残す必要はありませんが、そこら中にいる「わかった風な男」になってはいけません。

過去を知らないと決して未来はわからないというのは、それは自分自身の未来をも含んだ未来の話なのです。 

学問というのが過去の蓄積だとすると、経済学でも脳科学でもテクノロジーでも、過去の事象を踏まえて次なる理論を打ち立てプロダクトを実現するなど

「過去から学び、現在の恩恵を達成する」=歴史学だと僕は捉えています。

「歴史」の語源はラテン語のhistoriaですから、

「事実の探求により得られる知識、探求、物語、歴史の説明」

ということで、事実を探求し真実に迫りたいのなら、歴史をさかのぼる作業は避けては通れません。

そして上記の「行動経済学」や「社会学」も、その分野で切り取った過去から現在に至る記述、ストーリーだと言えるでしょう。

では、一般に歴史と言ったときそれは何を切り取っているのかというと、

「国家の興り、発展、衰亡」

こういう範囲を、過去から現在において記述していて、国家というものがその中心になっています。

そして上の2冊は、ローマ帝国と大英帝国のストーリーです。

ぼくは、

国家とはいかに国家となりえたのか、そして国というものはいったいどこから力を得ているのか(国力の源泉)、国力がデカい大国と言われた国々が滅びていくのはなぜなのか、そこにはどんな一定のパターンがあるのか、

を知りたいと思いました。

特に、大国衰亡についてはあらゆる学説があり、直接的な要因から間接的な要因までいろいろ言われていますが、結局どんな大国もあっけなく次の覇権国に取って代わられてきました、そこには「あっけなさ」のパターンがあるのです。

「覇権国」

と聞いて勘のいい人はピンと来たと思いますが、そうです、これは昨今のニュースを賑わわせているキーワードではないですか。

目下、世界政治の最先端では米中貿易戦争がいまだに続いているわけですが、

「歴史は繰り返す」 

わけですから、こういう覇権を争う国家の歴史というのはいつの時代も螺旋的にぐるぐる進むわけで、だから国家中枢の首脳たちは歴史を研究し(中国共産党はソ連崩壊と日本経済のバブル崩壊を熱心に学者に研究させていると言われています)、国家衰亡のアキレス腱なるもの発見し、なんとかその衰亡パターン外の新ルートを発明して、栄枯盛衰の荒波を乗りきろうとするのですね(長い目で見るとその歴史の淘汰は誰にも止められませんでした、だから歴史を周期の波で解釈する説が出てきます)。

その覇権国家の栄枯盛衰は本質的には同じようなパターンをたどるはずで、今のアメリカはPax Romanaの終焉と似ているとか。

とすると、世界で起きている覇権回りのイベントはこの後どうなるかはだいたいおおまかな予測が立つということになりませんか。

さっき歴史に名を残す必要はないと言いましたが、同様に覇権世界の予測を通して何か国家的野望を打ち立てるなんてのはほとんどの人に必要ありません、

が、重要なのはそういう

「構造的出来事を視覚的に理解する」

ということで、そのパターンの中には一定の構造が存在するという事実なのです。

Aを押したらF(A) が出てくる仕組みが世の中のあらゆるところにあって、ぼくらもその一部である、人間自体もそうなんだ、ということを伝えたいのです。

ぼくは「モテる」なんてちゃらいブログを運営していますが、人間というのはどう生きれば幸福なのかを考えた時、幸福とは男女の関係を避けては通れないと感じたし、それには男がどうあるべきべきかということや男女とはそれぞれどういう生き物なのかということも含まれていて、男としての自己実現を非常に分かりやすい一言で表現したらそうなってしまったのですね。

モテるというのはそれもこれも、人間の幸せを考えてのことなのです。

男女関係におけるF(A)を獲得するには、Aを確実に押さないといけないし、そのAとは何か、Aはどこにあるのか、ということがわかってないといけません。

男女関係、その歴史はそれこそ一定のパターンですから、その構造を理解したら恋愛に苦しむこともない。

乙女心は複雑ですが、男女の関係性はそんなに複雑ではないことがこういう学問を包括的に学ぶと分かってきます。

政治学なんかはダイレクトに大衆の愚かさを反映しますが、歴史が繰り返すという事実も人間の良さと愚かさを世界に投影した姿に過ぎません。人間の本質は変わりませんから、歴史は繰り返すのです。

未来がどうなるかという予測は、歴史の螺旋の型が分かればだいたいわかる。

とにもかくにも、構造なのです。

みなさん、女を難しく考えすぎではないでしょうか。

人間、人間の幸せ、それだけでなく、今の世界情勢の中で、はて、これからどう動いていくかということについてももちろん、紹介しているこの2冊は役立つと思います。 

 

 

哲学

   

 

経済学でも同じことを言いましたが、

哲学についてもまたそうで、哲学者というのもいったい何をしている人たちなのか、判然としないところがありますね。

象牙の塔に代表されるように、難しい何かをゴリゴリ考えている、

「だけどそれって現実に役に立つの?」

「僕たちの生活をどう向上させてくれるの?」

というところをまったく意に介さない、空想の世界で空想力を競っているプラトン的なる人々の集団、その人々の特異な学問という感想がポーンと出てくるんではないでしょうか。

現実を生きる僕らとは全く違う世界の人々なんだ、と。

しかし、ぼくがこのブログで主張しているところの「バカじゃモテない」「センスのある男(思考のセンスも含め)になれ」「堂々たる風格は健全な精神からくる」「健全な精神性に勉強を加えろ」というのと、ここでつながって来るのですが、

一貫して、モテるのに頭のクオリティが問われてくるんだという事をずーっと言ってきました、そして頭の良さを鍛えるのに役に立つツールこそ「哲学」であると、ぼくは思っているのですね。

さて、このときの「頭の良さ」ということばを

「物事の本質に限りなく迫れる力」

というニュアンスでぼくは使っていますが、

本当に頭のいい男というのは、自分がなぜモテるのか(ある部分でなぜモテないのか)を本当によく分かっています。

「本質的にモテを決める要素とは何か?」

そういうものを感覚的にしっかりわかっていて、

「あればさらにいいけど、まあ無くても大ケガすることはないだろう要素」と、

「無ければお話にならないマストに持つべき要素」

その両者境目がはっきりわかり、取捨選択が精巧で、絶妙なバランスで日々を自由に生きているのです。

不要なものを削ぎ落していくとシンプルな何かが残りますが、これこそが本質で、無駄がありません。真理はいつもシンプルなのです。

ほとんどの人は「あれも、これも」

とがんばっていますが、本質を求める作業がなければ、その努力のほとんどは無駄な努力、成果として実らない浪費です。

がんばってもがんばっても空回るという男がいますが、こう考えるとなんとなく僕が言っている「頭の良さ」が分かるのではないでしょうか。

頭がいい、と言ってもモテる彼らの脳内では

これを計算してやっているわけではありません。

無意識のほう、ファストシンキングの感覚回路のほうでやっているのです。

だからこそ、自由が達成される。

自由気ままに、好き勝手に生きていながら、ものすごくモテている男があなたの周りにもいませんか?

自由な猫のように、マイペースな犬のように生きていながら、女心をつかんで離さない男たち。

一方で、女をヨイショしていながら全然それが実らない、見向きもされない石ころのような扱いを受ける男たちとはまったく真逆です。

この後者は、「連絡にマメであること」「女の変化に気づき、褒めること」「いっぱいプレゼントしてあげた」などと彼女中心に生きているはずなのに、猫や犬に負けてしまう、払った努力に成果が比例しない悲しさだけが後に残る、

モテるというのは確かに努力が必要ですが、間違った方向に努力するとこうなります。

モテの本質が分からないと例外なくその努力は的を外してしまい、精力と時間と資財と、時には健康もすり減らしながら、「元いた場所から一歩も進んでいない」ことに、ハタと気づくわけです。 

この点で「嫌われる勇気」なんかが典型的だと思うのですが、

現実は人類皆から好かれることはできません、そんな当たり前の事をわかっていながら嫌われることをものすごく気にしてしまう、そんなの止めていっそのこと振り切ってみなよ、「嫌われてもいいじゃないか」「自由に自分らしく生きよう」

そのためには

「あればさらにいいけど、まあ無くても大ケガしない要素」と「無ければお話にならない要素」のバランス感覚がないといけないのです。

全部を完璧に頑張るのではない、でもマストな部分は外さないように頑張るべき、

これが可能になったとき、自分の良さを殺すことなくステージアップでき、でも着実に掲げた目標に向けては進んでいる、そのプロセスも別に強迫観念で悩むわけでもない、実力が上がりさえすれば「心身ともに自由なんだ」ということがわかるのではないでしょうか。

そしてこの自由の境地に、すでに「嫌われる勇気」は包含されています。

自由にやって、それでいてモテる

というのは、モテない人には不思議でしょうがない境地です。もやは悟り。

しかし、「だからお前はモテない」と言えるでしょう。

ファストシンキングでモテることをナチュラルにやっている、=本人はとても自由

パラダイムがぜんぜん違うのです。

こういう部分が府に落ちたとき、何をまずやるか、何は思い切って捨てるか、そのプライオリティーが付く、そうやってやる努力というのは確実に一歩づつ歩を進めることができます。

おっと、

頭の良さ=「本質の抽出」

の話でしたね。

本質、本質と言ってきましたが、身もふたもない話、ぼくら人間にとって本質とはいつでも限定的なものであり、いわゆる絶対的で真理のような本質にたどり着くことは決してできません、だから「限りなく迫れる」ように”日々”努力しないといけない、と言いました。

1冊目。

『いま 世界の哲学者が 考えていること』は、全体的な哲学の流れやその思想の潮流を枝葉のように見える化してくれていています、それでいてそのルーツから流れてきた現代の新進気鋭の哲学者はいったい何を探求しているのかがわかるので、哲学書のマップみたいに使えます。

この1冊でまずはさらっと全体の流れをつかみましょう、そのあとは、

2冊目の『闘うための哲学書』

これは若手と言われる小川仁志氏と萱野稔人氏が会話形式で哲学を討論していたのを1冊の本にまとめた読み物です。

おもしろいのが、同じ哲学者という生き方を選んだ(奇怪な)二人ですが、その哲学する(philosophy的な)思考の前提基盤が違うということです。

小川氏は現実の世界でどう理想を達成するかという理想主義的な前提を強く持っていて、人間の性善説を信じたい、その可能性を開花させるべく哲学を活用するんだ、難しいってのはわかってるけど、あきらめるな、と。

一方で、萱野氏は人間というのは悪を行いがちな生き物だから、それを抑制する仕組みが必要ですよね、現にホッブズのリヴァイアサンなんか社会契約というストーリーまで持ち出して理論づけし、性悪説コントロールやってるじゃないですか、人間の性(さが)は歴史が証明していますよ、という前提に立っています。

こんな二人が議論したら、噛み合うはずがありません。

一方は「理想主義過ぎて、そんなの世界へ適用しようがない、何の役にも立たないじゃないか」、

もう一方は「理想を語らないなんて、そんなの智を愛していると言えるのか」と、

もう水掛け論、お互いの、遠い遠い土俵からワーワー言っているかのようです。

前提が違うのだから議論は噛み合わない、それだけでなく「具体的に何をするの?」という問題へのアプローチまで変わってきます。一つの問題に対して異なる方法を採用するわけだから、もちろん結果も全然違うものになるでしょう。

そして結果からぼくらが評価するべきことというのは、

この二つの、とちらが本質に近いのか?

ということなのです。

どちらがより近づいていたかは、後になってはじめてわかるのです、どちらが「より良い」「より現実にフィットした」アプローチだったかは。

ぼくはとしては、「より良い」というのは、より現実的なという解釈をしています、じゃなきゃ象牙の塔の人たちと同じになってしまうのだから。

前提が違う、とは結果的にこんなにも大きな差異を生むわけですね。

前提→アプローチ→結果→評価

ぼくはこういう思考訓練を繰り返し、理論と結果のPDCAの繰り返しを通して、もともとすべての人が大なり小なり抱えているフィルターの歪みを、少しづつ現実にフィットさせていくことが、より「本質に迫る」助けになるんじゃないかと思って、いつもいつも哲学を媒介として頭を動かすようにしてるんですよ。

最近では、ネットの普及により物事を多角的に見ることが出来るようになったと言われています。情報量か多いということは同時にフェイクニュースも多いことを意味していますが、それはただ一つの情報しかない環境に比べて、より「多」角的に見ることができます。

だから旧メディアが得意な、

まず(理想的なる)結論ありき、それをきれいにストーリー仕立てで化粧するのではなく、

結論はまずないんだ、そこからスタートして物事をちゃんと検討することで、現実的な結論を導くべきなんだ、ということが新メディアによって見える化されるようになったのです。 

結論ありきで化粧するというやり方は、残念ながら本質へたどり着きません。

すでに頭の中にある自分の希望的観測へ道筋をつけるために、現実を都合よく解釈して当てはめているに過ぎないのです。現実がどうであろうと、すでに必ず自分の希望する結論へ持っていくというやり方、

これで本質とつながるはずがない。

では、あなたの頭にあるその答えとやらはいったいどこからやって来たのか、と。

本質というのは、あーでもない、こーでもない、とあらゆる角度から比較検討する作業を通してやっと少しづつおぼろげに見えてくるものです。そして当然ながらそのときには結論などというものはまだ存在していません。

多くの人がこの作業をすっ飛ばして希望的観測として持ち出した意見に、本質などかすっているわけがないじゃないですか。

こう考えるとぼくの人間観というのは、萱野さんよりかも知れませんね。

西洋圏では、学生時代に二つの論陣でディベートする授業があります、

それによってひとつの事象を多角的にみる、いわゆる「頭の良さ」をトレーニングするわけですが、

自分の持っている思想は一旦脇において、ともかくどちらの論陣からも相応のロジックを展開できるよう、そうやって多角的に物事をみるよう頭を訓練する、それは、結論ありきで好き勝手に材料を取捨選択している頭では一生叶わない芸当です。

もう一度言いますが、こうやってはじめて本質に少しだけ迫ることが出来る。

人間は本来、自分が見たいものしか見ません。

そして見たいものに合致する材料を探して、都合の悪い出来事は無意識に(ときには意図的に)スルーします。 

これがバカの始まりなのです。

恋愛でセンスのない男は、恋愛でも同じバカなことをします。

自分のみたいものしか見ない、結果ありきで自分の型にはめて現実をみる、女のリアクションを都合よく解釈し、本質をどんどん外していく、そんな努力では女がどんどん離れていき、男はどんどんすり減っていく。

「女とはどんな生き物で」「お前(男として)は何者やねん」という各対象に対する多角的観察、無駄の排除、本質の抽出、そして現実的でクールな頭が、例のバランス感覚を養い、自由だけどモテるという状態を可能にするわけですよ。

モテる頭のいい男というのは、女に対しても造詣が深く、自分自身に対しても実直ですが、世の中のほとんどの男というのは、モテに対して真摯に向き合っていません。

すぐ、お手軽にモテるウルトラCやモテるショートカットルートを欲しがり、「こんだけやってるんですけどまだモテないんですが」などとぼくに安易に模範解答を求めてくる。

いったいどんだけやってるんだか。

ダメだこりゃ。

何度も強調したいですが、自分自身を内省するときも都合のいいことだけしか見ないというのは、自分が改善するべき部分▪努力するべき部分はごっそり抜け落としており、幾ばくかやってる努力とやらは拡大してみており、

これでは結局、すべてが水泡に帰すのです。 

哲学というのは人間の存在とか認識とかについて真実を探求する学問ですから、男女の別なく人間自体をどう見るのか、頭をどう使うべきか、という点で、とてもよい教材だと思うんですよね。

さて、今言ったように2冊目は哲学の系譜を叩き台に、二人の哲学者のよって頭の中をパックリのぞいたわけですが、

3冊目は、現在一番ホットなドイツの若手哲学者の書籍です。

ゴリゴリの専門書ではないのですが、超訳なんとかほど軽すぎもしない本、哲学カテゴリの中では稀にみるほど売れているようで、人間の世界認識をあーでもない、こーでもないと探索し、「なぜ世界は存在しないのか」というテーマを書き上げてしまいました。

毎日この世界であくせくぼくらは働いているのに、世界が存在しないなんて、いったいどういう風に頭を使っているのか、

日常のルーティーンでサビついた頭をメンテナンスするにはとてもいい本だと思います。

積読にもドヤ顔できるし、キンドルの本棚に並べてみて教養をブッてみるのもいいんじゃないでしょうか。

マルクスガブリエルはユーチューブにも日本旅行のドキュメンタリーが上がっていて、彼の興味関心、軌跡、思考を知るにはとても面白いと思います。

売れる本には理由がある、

売れっ子作家が人気なのには理由があるのです。

 

以上が、2018年のINPUTをお復習(おさらい)でした。

こう見るとぼくのINPUT、おもいっきり偏ってんな。

はい、文系なんです。

理系の本がほとんどない、あってもそれは物語。

でも、好きなんだからしょうがありません。

もうひとつ偏ってる点、

それは、海外の著者の翻訳本が多い、ということですね。

ぼくは日本人著者はこの人実力があるなと感じる人が数名いるものの、全体的になんだか名前だけが独り歩きしていて、そういう著者から出てきた作品というのはどうも読みごたえがないという状態に、かなりの確率で出会っています。そもそも目次で「あっ、これは面白いな」と思うか、「ないわ」と思ってそのままパタンと本やAmazonのページを閉じてしまうかがはっきり分かれる、その分かれ目は著者が海外人か日本人かであったりなかったり。

さらに、さっき言った思考のトレーニングの文化的背景もあるでしょう。

もちろん、売れる本、万人向けの本を出版しないと採算が合わないという日本の出版業界の事情もあるのでしょうか、やはり書き手の実力の問題へ還元されるべきなのです。

日本にはそんな本がない、というのはそれを書ける書き手がいないということですが、書き手が育たないという特有の教育土壌がある、

だから的確にwhyに答えている学術的+著者の鋭い感性や意見という本は日本にはあまりありません。

読者から、目次で足切りされ内容まで行き着いてもらえないというのは、作家としてはとても悲しい、残念ながら美人投票ですでに負けていて、その先の人となりとか内面へはまったく興味をもってもらえない、予選落ちだ、という状態なのです。

目次やその構成を見て、おもしろそうだ・手ごたえありそうだと感じさせる本は、だいたいが最後まで面白く、一気に読み進み、読後感もよいというのがぼくの経験上ありますが、そういう本は定期的に手に取っては内容を振り返っています。

こうやって良い物は残っていく。

そしてこういうものがぼく自身を作ってくれている良質なINPUTなのです。 

 

 今日の記事はまったく、宝がざっくざくでしたね。

 

 

編集後記====

最近は大学生とか高校生がよくこのブログを見てくれているみたいで、さらにやはりデジタルネイティヴなのでしょう、よくコメントを送ってくれます。

ネット上で交流できる、コメントをスッと送れる、そのハードルがおっさん世代に比べてとても低いのでしょう。

ぼくも、おっさんなのでブログ開設するのすらドキドキしたのを覚えています。。汗

もちろん、マインドがセットされる最終ピースというのは、どうしても実践が必要で、そのための実践の場が必要になってきます。

しかしその肝心な場はあなたのためにすでに用意されているわけではなく、そういう場をリサーチして、もろもろのリスクを引き受けて、心の準備をして、エイヤーッ!と一歩踏み出して飛び込まなければなりません。

主体性、勇気、行動力など、男として必要な資質が求められるのですね。

その場に入り込んでもおそらくコテンパンにやられてそこから長い旅が始まるのに、そこに飛び込むだけでもこんだけの資質を具えてないとそのスタートラインへ立つある種のパスポートすらもらえない、というわけです。

しかし、最近コメントをくれたこの高校生は、大学見学のために都会へ行くようですが、外人さんばかりのゲストハウスへ飛び込む運びなようですね。

もうドギマギしてテンパって、目はきょろきょろ、口はガタガタ、言葉も出てこず、気の利いたことは何も言えず、「あー、暗いジャパニーズボーイだぜ」と評され、存在感がゼロ、収穫できたものはただただ話のネタぐらいだと思います。

良くも悪くもそのくらい悲惨な現状なのです、日本男子というのは。

しかーし。

この「経験」がとても大きい。

これが何倍にもなって将来返ってくるでしょう。

その悔しさも日々生きる糧になります。

ぼくの高校時代は完全にマイルドヤンキーの路線でベルトコンベアーを上っていましたから、今からそのコテンパンな経験ができるとは本当にいいスタートだと思います。

本当にうらやましい。

今回のナイスガイたちとの稽古を通していっぱい将来の種を心にまいて帰ってきてください。

コメントありがとう。 

 

 

やじろべえ。

 

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