モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

執着しない3

 
前回で執着しないシリーズを完結する予定だったんですが、気が付いたらあと一つ言うべきことが(いや、”言いたいこと“だな。)残ってました、本当に大事なことですよーー、と言いたい。
 
執着しないための要素。
 
強制的に手放すことを学ぶ、ということ。
 
~男なら、負けるとわかってても、玉砕覚悟で突っ込むことが時に必要、うん、それが仲間のためになるのなら~
 
経済学で定義されるところの、人間は合理的に振る舞う、という偉い人たちが考えるような理論に逆行する話ですね。損をするとわかっていながらあえてそれを選択することもある、だって男の子だもん。そしてなぜかそれを美しいと周りは感じるのです。

自分の利益を最大化するために行動するのが人間、とか、人間はちょっとだけ高度に進化した動物で行動原理はやっぱり動物なんだ、ということを聞きますが、人間はそういう単純なものでないというのは世界を観察すれば解るでしょう。
 
これがぼくの立場で、そういう話が展開されます。
 
感情に従って本能のまま突き進み、自分の利益を最大化しようとして非モテコミットしました。失敗しました。。。
 
そういう事例は身の周り腐るほどあるはずです。

しつこくいけばオトセる、誠実にねばればきっと振り向いてくれる、違うのです。

男は潔さにこそ色気が漂うのです。

だからこそ、
執着しない、あえて手放す、自分は身を引いて相手をたてる、という人間らしい本質を学び、そのエッセンスを享受して人生を楽しまなければいけないのです。
そういう人を感動させるストーリーや振る舞いは数値化したり定式化できないものですが、エモーショナルな側面は万国共通であり、実はモテに一番近いのです。
 
そういう多くのヒーローもののストーリー的な脚本を、一人一人が現実世界で演じきれるのかどうか。
 
後ろ髪引かれても、敢えて、手放す、「バイバイ、きっと、幸せになれよ。」
そして、二度と振り返らない、このマインドセットです。
 
これはかなりのメンタルの強さや成熟度、長期視野、悟りが求められますが、リターンもかなり大きい、確実に次のステージに行けますよ。
 
 
では、いってみましょう。
執着しない3つ目のポイントです。
 
 
執着してる男を見ると「なんてダサいヤツだ」という感情が自然と沸き起こる、間違ってもこんなやつと友達になんてなりたくない。
客観的にそのシチュエーションを見ていますから、なおのこと強く感じます。
 
幼稚だな、女々しいな、と。
 
執着とは、どんなにステータスがあって金を持っていても、すべてが台無しになるほど、大人として、男として、ふさわしくない言動なのです。
 
これは子供に置き換えればすぐわかることです。
 
デパートで子供がワーワー泣いている場面。どうやらあのガンダムのおもちゃがほしいんだな。ママはというと、毅然と買わない様子、バイバイー、置いてくよ、と。
 
欲しくてたまらない!、
えっ、買ってくれないの?
ヤダヤダヤダ~、
 
かわいいですね、3歳ですから、ママも大変だなー。
 
ところがこれをいい大人がやったらどうか?
 
完全にドン引きです。
 
3歳は、成長段階の最初の反抗期です、そうやって自我に目覚めていき、親離れする基礎が少しづつ発達していきます。
 
ところが、社会に出てからもまだ、ヤダヤダヤダ、と言っている。
 
何に対してか?
 
女に対してです。
 
えっ、もう僕に対する気持ちがない??なんで?なんで?なんで?
ワー、ヤダヤダヤダ。
 
なんでも君の言う通りにするから、
絶対別れない!
 
そして昨今はそういう非モテ執着男のわがままが女性に対する暴力事件として表面化する始末です。
 
そういう非モテの男たちは身体的には大人になってもメンタリティは3才児のまま。
 
ねえねえ、20年間何をやって来たの?とぼくは問いたい。
 
そういう非モテが僕らの周りにはたくさんいるという事実は社会的に大きな損失と言わざるをえません。
 
3才児の反抗やヤダヤダには成長期としての重要な意味があるわけですが、社会に出ても依然としてヤダヤダヤダと執着していては成功なんてできるわけがなく、社会や恋愛で自分の役割を果たし自分も幸せになるには「手放す」ということができなければならないのです。
 
そしてそれは自然と身に付くものでもなく
 
“学ぶべきもの”
 
なのです。
 
それは人生のどこかで学ばないといけませんが、早ければ早いほどいい。小学校という家庭以外のコミュニティに属するようになって少しづつ「自分の思い通りにはいかないんだ」ということを知り、思春期に入りつつ自分のやりたいことやるべきこと「自分ってなんだ?」が自覚されつつ、手放すことの意味を知ります。
社会に出てからも20歳そこそこの若造が仕事を通して、思い通りにいかない世界ー自分自身、の意味付けを学び、世の中の酸いと甘いを学ぶんですね。
結局マインドセットな訳で理念や価値観や意思決定の枠組みを作っていかなきゃいけないんですから大人の階段上る過程で繰り返し繰り返し学び、「美学」が形成されていく。そこを確立し強固にしていくには早く気付いたほうがいい。

これが、苦労は買ってでもしなさい、のありがたい教訓です。
 
だから贅沢に育てられたドラ息子が、世の中を生きる力が全くないのもこの部分が発端で、手放すということを学んでいない、悟っていない、自分は何でも手に入れて当たり前なんだ、とそういうマインドがセットされてしまっているからで、女からは見向きもされない。そういう自然な流れなのです。
 
人の本性が現れるのは、苦しい状況。とよく言われますが、いい男かどうか図られるのもまた、女との別れ方でしょう。
 
その悲しみに打ちのめされるときこそ、涙がこぼれないように、上を向いて歩かないといけない。
 
ところが、手放すことを知らない、世の中うまくいかないもんだという当たり前の感覚がないやつが女にフラれると、すさまじい認知不協和に陥り目の前の現実がありのままとして受け入れられない。この認知不協和を解決するために、執着して思い通りにしてやる!を選択してしまう。
 
こういうヤツは世の中のすべての事象に対して同じ態度で臨みますから、つまり3歳児マインドセットで取り組むので社会の中で成功しないんですね。仕事でもコミュニティ内でもとてもめんどくさいやつになります。
 
例えば、後輩に飯を奢っても「奢ってやった」に執着するし、新人に仕事を教えてやっても、「俺が教えたから今のお前があるんだぞ」という先輩風が止まらない。その新人がみるみる頭角を現してきたとき、「お前が新人の時は・・・、ワーワー」という過去のことを平気で持ち出す時代錯誤さ。
そういう本来利他的な行為が利己的な位置づけで他者への好意を手放していない、借金の借用書みたいに手元に置いておきたい精神的ベッタリだから、新人の台頭を勝手に脅威に感じてしまう。
 
そして次の恩を着せるターゲットを探そうとするのです。
 
見返りを求める愛。
 
執着とは、手放すべきものを、いつまでも離さないことであって、その矛盾は必ずブーメランのように返ってきて当人の人生を蝕みます。
 
こう考えると、女が男を見る際、あっさりしたさわやかな男なのか、精神的ベッタリの執着男なのかはとても重要なファクターなのです。「私の彼氏は成功する器なのか、将来成功するであろう男を選択できるか」が自分自身の成功に直結するからです。
 
だからキモい非モテの執着男には自動で拒否するよう本能が働くのです。(執着男が好きな女は、その女自身も執着タイプであることが多い、類は友を呼ぶ。)
 
執着をミクロに見ていくと、人が学習するとき脳内で何が起こっているかというと、ニューロン同士の結合です。一つのニューロンは複数のニューロンと同時結合が可能で、この結合が複雑なほど賢いとされますが、ではいかにニューロンを結合させまくるかというと、意識的な反復しかないことが確認されています。
 
社会勉強として「手放す」ことを学ぶ際も、主体的にそして前向きに手放す、そしてそれに自分なりに意味づけすることを繰り返して、そうやって執着しない脳になって、「大人らしく・男らしく」なっていくんですね。
 
比較的子供のころにあの「イヤイヤ」という感情に折り合いをつけるトレーニングがなされていればスッと大人の階段を登れるんですが、そのトレーニングをしていないとなると、脳は3歳児のまま、脳がお子様セットだとマインドセットも子供なんですね。
 
子どもからかっこいい大人へ、その過程で獲得するものは「感情のままに合理的に」とはまったく異なるものなのです。
 
どうして好き好んで損をしてまでアイツに花を持たせなきゃいけないのか、好きな女を諦める必要があるのか、儲け話を棒にフルのか、それは成熟した大人にしかできない芸当でそこに本当の人間が垣間見えるのです。
 
なぜなら、その生き方がモテる男の美学だからです。
 
「美学」もドライな言い方をしてしまえば習慣の賜物でそうやって生きてきて脳内がそうなって、今現在もそうやって生きてますよ。というだけです。
 
オギャーと生まれたときから美学があるわけもなく、それは教育や経験を通して少しづつ築いていくものですが、その中には認知不協和的なイヤな体験がたくさん含まれるわけで、その瞬間の潔い諦めが学びになり、美学になります。
 
「多少損をしてもお前に譲るよ、俺は手放すよ」それは美しく生きたいと思うからで、自分の美学に一致しないことはしない、とコミットしており、美しくいる方がプライオリティが高いから、呼吸をするようにそう決断しているのです。
 
これは、冒頭にも述べましたが、かなりのメンタルの強さや安定性が求められます。
 
普通は“執着しない“その感情の切り替えがうまくいきません。非モテは感情の切り替えエラーが頻繁に発生しています。
 
もう先がないな、とわかっているのに、内なる弱い自分がヤダヤダヤダ、と言っている。
これは誰でもそうなのです。マインドが常にセットされている強い男でもそのヤダヤダな自分は内部に存在していますが、折り合いをつけるのに非常に長けている。
 
デイトレなんかと同じで、いわば、基本になる指針を持ちながら忠実に損切りしなければならない。そしてそれにはある程度の先見の明と強いメンタリティが要されるのと一緒で、先がない恋愛関係をバシッと切るには美学的指針と、それを実行できるマインドセットが必要です。
デイトレなんかも損をしても次は取り返せる次は次は、というドツボにはまる状態が客観的には悲惨に見えても本人は必死で真面目なのと同じく、非モテの執着も、人として美しくあるためには絶対にやってはいけない禁じ手なのです。 そして、美学の強固さでヤダヤダ自分を打ち負かしていかないといけない。
 
そのステージの高い感情のせめぎあいが結果いい男にならせるし、いつか来るであろうチャンスをつかんで成功者にならせるのです。
 

さて、最後に読者の皆さんに成功ストーリーを送り、〆たいと思います。

成功したアスリートが晩年引退するときの状況を思い出してみましょうか。未練たらたら引退する選手はまずいません。

 
落合博満;「代打で始まった野球人生、最後も代打で終わりたい」
 
そう監督に語ったそうです。この言葉から読み取れるのは「最後」を受け入れている、そしてどう終えるかをわかっているということ、俺流なのです。
 
なにより、選手起用しやすいように監督を気遣っての言葉だったと言われています。
 
 
中田英寿;29歳の若さで現役引退、引退後は実業家として数々のイベントを企画成功させていて、慈善事業にも熱心。
 
中田が引退した最後の日本代表での大会は苦難の連続でした。チームメートに溶け込めない中田。後の本田との対談で、プレイスタイルや自分が描く強い日本代表において、自分の信念を通せなかったことを告白していましたが、29歳という若さでの引退は潔いと感じました。
 
サッカーに真剣に向き合ってきたから涙が出るほど悔しかったが、やり尽くしたんだと。
 
その太く精一杯駆け抜けてスパッと終える、そういうサッカー人生でした。
 
悔しさでピッチに泣き崩れるヒデも「もう終わり」と気持ちは決まっていたのでしょう。引退後は次の人生のステップへと足早に進んだのでした。
 
本番前の練習試合の段階でヒデは幾度も代表のゆるーい雰囲気にきつい言葉で警鐘を鳴らしていました、チームメートに嫌われてもいいんだ、メディアに批判されてもいいんだ、そういう気持ちで。彼はフルコミットしていた、だからこと、終わりも潔く引けたのですね。
 
 
 
このように、一流たちの引き際とそのあとの歩みを見ればわかるように、人生、それがサッカー人生か野球人生か格闘家としての人生かはわかりませんが、その人生がフルコミットしているほど、引き際が美しい。
 
そして手放した後は、決して振り返らない、より高い次のステージへと走り出すのです。
 
「サムライジャパン」などとよく形容されますが、僕らも武士のご先祖様の遺伝子を幾ばくか受け継いでいるでしょうか?少なくともそういう文化的素地がある環境で今生きているはずです。
 
潔く腹を切るのもまた、美しい人生の一コマ、桜のように散って、後世に名を残そうじゃないか。
 
そういう生き方が恋愛でも大成功する重要なファクターなんですね。
 
 
 
やじろべえ。



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