モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

久しぶりに帰国して、また人生を考えたよ2

 

前回書いて、自分の頭が整理されたのもあり、せっかく日本にいるのだからと、感じたことを書き連ねて続きモノになりました。

パート2です。

 

前回はタクシーのおやじでしたが、

今回は、スーパーのおやじ。

帰国の際、タクシーにスーパーに寄ってもらって夕食の惣菜を買い込んだとき、レジでせっせと接客会計をしていたおやじから学んだことです。

このスーパーには実家にいる時はちょくちょく買い出しに行っていたので、「いい接客をするおっさんだなあ」とこのおやじには好印象を持っていましたが、今回の帰国でまた暖かな気持ちにしてくれました。

だから、帰国して実家にたどり着いたあの日、あの夕方の帰り道、人生を考える出来事が2シーンあったわけですね。

このおやじが今日の記事の主役です。

では、一緒に人生を考える旅へー

 

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このおやじ。

人がいい、サービスもよく説明も丁寧、勤勉に業務をこなしている。

こういういい人、頑張っている人には幸せになってほしい、と自然とそう思う。

頑張りに応じて、払った努力の分だけ報酬を得てほしい、とそう思う。

「働かざる者食うべからず」

おっちゃんは一生懸命なんだから相応の利益便益を手にして当然だよな。自助努力の精神だ。

 

さて、ここでまたいらんことを考えてしまうんだが、このおやじは本当に人生が満足充実しているのだろうか。幸福だろうか。と。

他人のことじゃないか、ほっとけやい、と外野からはやじが飛んできそうだが、これまたナチュラルにそう感じてしまったのだからしょうがない。

まったく、いいやつだな、やじろべえは。

幸せなはずない、などとあ勝手な押し付けが心の根底にあったことをぼくは否定しない。

 

でも、身を粉にして働いてきて、粉になったおっちゃんにはいったい何が残っているだろうか?現在社会において自分の自己実現をがんばりながら自分の家族やら部下やらコミュニティに責任を持つのが難しいというのは重々承知している。

「家族のため、自分の身を粉にして働く、それが大人」

というのが、伝統的価値観だ。

自分の幸せと周りの幸せは両立しえない。

どちらかを選べ、と。

これが一般的な見方だ。

このおっちゃんのような世のため人のため人生か、自分のしたいようにしてそれ以外は知らんという新自由主義的な人生か、その両極端の二択をドンと提示され選択を迫られるように感じる。

これが大卒のみんなの現状だね。

おれはどうすべきか、どういう人生を選ぶべきか、友達はみんな就活してんなあ、と悶々とするキャンパスライフだ。

 

人生は、バランスを取りながら、模索しながら、関わる全てを満足させる営み。

 

さっき提示した二択。

田舎に戻ってきてほとんどそう思うのだが、マイルドヤンキーというのはこの前者、家族が第一、コミュニティのために貢献しよう、この社会に模範的であれ、そういう目的があるように思う。そういう立派な価値観に感化されるのは自由だが、しかしそのウラには自己犠牲という概念がピッタリくっついているということを覚えておかなければいけない。

つまり、「(自分を粉にしながら)、家族のために、共同体のために働く。」というかっこが付いているのだ。

なぜこう言えるだろうか?

それは経済学における二説の対立構造という原因があるが、ほかならぬケインズとハイエクの対立なのだ。

以前にも紹介したことがある。

 

www.youtube.com

 

この闘い、ラウンド2もあるんで探してみてみてほしい。

 

世界的に先進国というのは、ソ連崩壊を境に、国家介入を是とし大きな政府を志向していったケインズ主義から規制を取っ払って個人の活動領域を増やす新自由主義に転換していった。

ハイエクの政府の介入を否定するのは、もはや経済というより思想とか信念が先に先立っている気がする。

この世界の流れの中で、ハイエクのそれを先進的というのなら、善悪は別にして、

日本はこの点で、先進ではない。

日本とは大きな政府であり、福祉が非常に充実している国家だ。

これが「世界でもっとも成功した社会主義」と言われるゆえんだ。アメリカなんか医療も完全にビジネスとしてやっていて、金が無いやつは病院に来るなという態度が普通だから、自由主義もたいへんだ。

さて、戦後システムにおいて官僚主導の開発主義、計画と市場の混合という日本型社会主義を採用した日本。世界からはこの経済成長を成功と評されているが、ということはつまり、全体主義的なのだ。

個人より全体の調和が重んじられる。

個人の自由は多少制限されても、みんなで仲良くやろうよ。

それが日本文化で美徳だ、と。

世界が評しているように、また実質的にも、この制度で経済が成長していった日本、アメリカとはまったく異なる制度が採用されたのに、経済大国1,2位を独占した栄光の時代があった。アメリカが脅威を感じて貿易摩擦を引き起こすほどの経済的栄光だった。

という、この2つの全く異なるモデルでどうして両者とも成功できたのか、このことは、まったく同じ条件の下でも、異なるシステムが十分機能し成功へ導かれるのだというゲーム理論の複数均衡で多くの日本の経済学者が証明してくれている。

結局、どちらを採っても正しく運用すればうまくいくんだ、と。

 

問題は、

どちらのシステムが「個人として」輝けるのか?

という点なのだ。

 

さて、日本が自由にかじを切ったのは小泉構造改革の時だが、こういう改革の波というのは当然中央から始まり徐々に地方に流れてくる。その意味で地方は最後の最後であるから、田舎は相対的に最も伝統であり保守的なのだ。

あの改革から10年ちょっとしか経っていないのだから。そういうものが伝統としてガッチリ残っているということになる。 

さてこういう一連の歴史の流れと社会の制度が、ひとりの人間の人生にどういう意味を持つかということを考えなければいけない。 

ぼくが言ったように、個人の自己実現をあきらめても家族のためコミュニティのため、世のため人様のために働くという生き方は、田舎の象徴している。

自分が前に出ない。意見はなるべくもたず調和をいつも意識する。

でも、今となっては、YouYuberが小学生の将来なりたい職業一位になる時代。

そういう姿を見て個人のルネサンスに目ざめ、その実現のために邁進したいと刺激を受けるわけだが、きみが住んでいるのは地方。心は都会にあっても肉体は地方に在籍しているわけだよ。

当然、認知不協和が起きるよね。

あの二択がきみに選択を迫ってくる。

東京では、話題のホリエモン、ZOZOの前澤社長、2ちゃんのひろゆき、落合陽一のような新しい人種がボンボン出てきている。「きみもこっち側来なよ、自由で楽しいよ~、自分らしくいこうよ!」 そう呼びかけているように感じるだろうか。

おれも自己実現したい! そう感じるのは人間の自然な欲求だと、アリストテレスも言っている。

問題は、地方にいてはそれが実現するのが難しいということだ。

無理とは言わない、難しいという確率の問題だ。それかオレの力不足の問題だろう。少なくとも、海外へ飛び出す前はそういう葛藤-認知不協和-を抱えていた若かりし頃のぼくも、確かにそこにいた。

 

ぼくは新自由主義者ではない。

あの人たちのようにそこまでラディカルになれない。

昔より丸くなって、秩序正しいのも心地よいなと感じるようになったほどだ。

でも、自由主義がどうかはべつにして、ココ(地方)にいては自己実現はできないと強く感じたんだ。なぜなら、そういう自由に自己を追究するシステムや文化や価値観がそもそもココには存在していない、旧態依然とした旧日本のシステムがそっくりそのまま残っている。

それが地方だからだ。

やりたいことをやろう、自分らしい自分でいよう、とすると、必ず全体調和とバッティングする。

どうすりゃいんだよ。

そう思っていた。

 

でも、よくよく考えてみたらまた違う視点があることに気づいたんだ。

あ、ここからが今日の本題(汗)

ぼくはマイルドヤンキーなほどコミュニティのために貢献することはできないが、新自由主義者になるほど尖ることもできない。そういう中途半端な男だよ。

でも世の中にはWIN―WINという概念があるじゃないか、うん。

まず自己を追究し、その自己をもって他者のために何かGIVEできる生き方。

人生とは、バランスを取りながら、模索しながら、自分に関わる人モノ全てを満足させる営み、そう言えないだろうか。

これがぼくが歩くべき道じゃないだろうか。

いろいろ悩みもあったが、これが現時点でのぼくの一番しっくりくる人生観だと落ち着いている。スーパーのおじさんを見ながら、これまた人生をあれこれ考えることができた。

 

人生には何種類かの道があるのだろう。

おっちゃんのスーパーで生き生きと接客して、サービス業に貢献して地元に根ざしたスーパーやコミュニティを盛り上げていくのも、それも人生だ。

しかし、もし仮にぼくがおっちゃんのようにスーパーでレジをしていたら、今のぼくはあっただろうか、こうやっていろいろ勉強して、モテを研究して、みんなに発信して、という今の自分は。自分を捨て一生懸命その仕事に打ち込みさえすれば自己実現できたのだろうか。

できるはずがない、と今のぼくははっきり答えるよ。

 

自分を無にして他者ファーストで生きれるほど聖人でもないし、

自分のしたいように自由に生きるだけで、喜びや充実に到達できるとも思えない。他者のことをやっぱり考えていたいとも感じる。

あー、まったく中途ハンパ。 

でも、人間味のある、いいやつなんだ。

 

そういう生き方をしてはじめてぼくは輝ける。それがぼくの人生。

自分と自分の関係各位の両方を幸せにできる人生を追求して、一番いい人生だ。

 

そういう自分の人生観をもつことがとても重要だ。

ココの部分、人生観を間違うと、どんなに努力してもまったく報われない。

どんなに必死に努力してもだ。

ハシゴの掛け違い、ボタンの掛け違いで、

いわゆる戦略のビジョンの領域の話で、努力量の話ではないのだから。

どんなに利己的に/自己犠牲的に努力に努力を重ねても、後にはなんにも残らない。

なぜならそれは、「ぼくの」歩くべき人生ではないのだから。

 

おじさんは自分の納得できる人生だろうか。

あの日、夕食を買うために立ち寄ったスーパーでおじさんと出会った(おじさんはおれのこと知らない、おれが勝手に妄想しておっちゃんの人生をストーリー仕立てにしてる)。

おじさんをみて(自分勝手に)同情するとともに、(失礼にも)こんな人生を送るわけにはいかん!おれはオレのやりたいことを達成するんじゃ、とまた自分に喝を入れ直したよ。

 

おじさんの仕事姿から自分の人生を考えたよ。おじさんがいい人だからぼくは気づけたんだ。

おじさんありがとう。

 

 

人生とモテはつながっている。

 

「いい人だけ」では、モテない。

これは大事な教訓だ。

 

 

ーやじろべえー

 

 

 

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