モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

久しぶりに帰国して、また人生を考えたよ。

 

ぼくのライフスタイル上、海外と日本を定期的に往復し、今回も帰国しているわけですが、帰国するたびに場所の差異というか年代の差異(帰国先が田舎で年齢層が高い)があり、そういう帰国前後によるもろもろのギャップを感じそこから大きな発見があります。

人とは住む場所次第でこんなにも違うものへ変化するのか、と。

まさに、環境が人間に作用する力の大きさよ、と生きたエビデンスを前にその確信を強めていました。環境の影響力からは逃れられないんだと、だからまずは人間関係を整理しないと、本を読んでINPUTの質を向上させないと、運動して環境をうまく利用しないと、と言っているのです。

そしていったん形成されたその固定観念や狭い価値観や人生観の外に対して、人は想像力が遠く及びません。そして排他的になる。

だからマイルドヤンキーには、ぼくのこういう生き方が、社会不適合で、不安定で、つかみどころのないものに映るでしょう。もちろんこういう生き方をする人間はマイルドヤンキーのコミュニティーではなんだか異質なものとして敬遠されます。

なるほど、現在世界で見られる右傾化は、トランプに右へ倣えの政治的パフォーマンスの側面もありつつも、

本質的には、人間とは他者理解ができず構造理解がない、自分の価値観がすべて、と考えてしまう悲しい生き物である、これを如実に国際政治へと投影しているんじゃないかと感じました。

ぼく個人としては、弱い者は支えるべきで、勝ったものが次もイージーに勝ち続けるゲームは決して好きではありませんが、「SelfHelp(自助努力)」というのはそもそも生きる上での根本にあるべきだ、という考えの人間です。

弱者も弱者のままで甘んじることなく、人生に一花咲かせてほしい、と願っています。

まったくあなたが弱者なんて誰が決めたんだ、その定義はどこから来たんだよ。

自助なのですから、自分が何者かを決めるのは、

「最終的には、自分なんだ」

という強い気持ちで自分をアップデートしてほしいと心から思います。

この「アップデート」という作業をするとき、自分の狭い殻に閉じこもるのは足を引っ張るマイナス要素でしかありません。

自分の狭い生活圏の外へ飛び出さないといけない、飛び出してはじめて見える新鮮な世界がそこには広がっているんだ、ぼくはそう思ってこれまでフラフラと自分の生まれた土地の価値観にとって不適合な生き方をしてきたわけですが、まったく後悔はありません。

そして、この「久しぶりに帰国して」、外側から生まれ育った場所を見るととても大きな発見がある、というわけです。

そして人生とは何かを考えるきっかけになりました。

これはけっして田舎やマイルドヤンキーをバカにしているのではなく、人生についての真面目な考察です。

では、どうぞ。

 

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帰国して、さらに地元へ高速バスで帰ってくると、予約していたタクシーが高速バス降り場で待ってくれていた。

乗り込む。

しばらく乗りながら話が弾んで、タクシー運転手の一言

「定年してもやることが無いから、(退職者は)みんな戻ってくるんだよ」

つまり、念願の退職(いやな人間関係、キツイキタナイキケンの3Kな仕事を辞めれた、退職金ももらったぞ)を果たして会社のためではなく自分のため、そのために余生を過ごすことが可能な段階にきて、、はたと、「今自分は何もすべきこと、したいことが無いぞ」と気づく、だから今まで何年と続けていた仕事をするべくまた戻っていくんだよ、と。

ぼくはそんなおじさんの一言に衝撃を受けた。

「やることが無い!?」

(…確かに田舎のおじさんたちの趣味は、パチンコ、酒飲みぐらいだが。)

俺なんかやるべきこと=やりたいこと、が多すぎるから「おじさんの時間くれよ」と思った。

 

(趣味が無いのがマイルドヤンキーの高齢者の特徴)

パチンコは週末にすればいいし(やり過ぎても金がなくなる)、酒は毎晩晩酌してるし(昼から飲むわけにもいかない、アル中になる)、じゃあ何するよ...

「また働かしてくだせえ、給料安くていいですから」

となるのが、この衝撃の一言をくれたタクシードライバーのおっちゃんの同世代おじさんの現状なのだ。

 

これが地方独特の現象なのかはわからない。

都会のおじさんも前の職場に舞い戻るのか、彼らにも定年後のやりたいことはないのか、それは不明だ。

 

だが地方にはそんなおじさんたちが大勢いる、ほとんどがそうだ、ということが話の中から推察される。

衝撃だ。

 

世の中の構造に気付くことなく、現在このおじさんのような現役を過ごしているとぼくの同世代(ある意味安泰の中で暮らしているぼくの同世代)は、将来このおじさんみたいになるのだ。

このおじさんが幸せかはわからない、今の僕のようにやるべきこと・やりたいことに追われるよりはこういうスローライフの方がいいという人もいるだろうし、それをぼくの価値観でバサッと決めつけるわけにもいかないのは重々わかっている。

ただ、やりたいことがない、という状態はあらゆる研究で人としての幸福度が下がることが明らかにされているし、さらに時代がAI化ロボット化の方向へ進むと、やりたいことがない人はロボットに置き換えられるわけだから、

なぜなら、タクシー運転は自動運転としてロボットがやってくれるのだから、「おっさん要らないですよ」という存在になる。

そうであれば安泰なスローライフがそもそも消滅するということを今の30代は強く認識しないといけない。 

どう考えても幸せから遠ざかっている気が、ぼくにはする。

 

まあぼくのこんな話、おじさんには関係ないけど。

 

さて、人が「やることがない」という状態になってしまうのは、経済学的にいうと分業による副産物だ。

これはけっして良い方の副産物ではない。悪い方の副産物である。

 

例えば、かばんを販売するとしよう。

かばんをデザインするデザイナー

材料を調達する人

工場でそれを作るパートさん

店舗に発送するドライバー

店舗に陳列する店員

かばんの広告を作る広告マン

この一連の流れがあって購買に至るが、この過程を全部一人でする人はいない。

 

前半部分の製造か、後半の販売をまとめて引き受ける人はいるだろうが、分業したほうがいいので産業革命以後は徹底的に分業して、効率化を図り、コストを削減するようになった。工場内でもさらに部分的に分業する。

そうしないとコスト削減が実現できないからだ、そうやって「規模の経済」と「範囲の経済」を達成する、これが経済学のセオリーなのだ。

ちなみに、このセオリーを達成できないときは、そのぶんのコストを販売価格に上乗せしないといけない。

他のかばん屋が安く商売してるのに、同じものを高い値段で売っていたらだれも買ってくれない。

「おたくのかばんは高いんですね、ほかの店のかばんとどう違うんですか?」

「同じですよ」

「?」

これでは、ほかの店で買ったほうがお得ですね、といっているアホな経営者だ。

だから現代の商売の基本はコストの削減、と言われている。

もう一つの戦略は、高くてもお客様が買ってくれるデザイナーや職人のブランドがある、というひたすら付加価値を上げて単価を高くするやり方だが、ほとんどは採算が合わないのでコストカットに舵がきられて、低価格競争になる。

ブランドを確立するのは時間がかかるから企業の体力が持たない。

ブランドの確立に時間がかかるのは、いい男と同じだよ。

 

さて、経済学の理論では効率化は大きな意味を持つが、この製造販売プロセスにひとりの人間を当てはめてみるとどうなるか?

ここからが今日の重要なポイントである人生の考察の話だ

この製造プロセスにやじろべえがスッポリ入ったとしよう。

当然やじろべえはその工場の専門家になるのでその作業に最適化され、それと代償としてにそれ以外の能力がどんどん失われてしまい、工場の流れ作業以外何もできない人間になる。

この瞬間クリエイティブな感覚も失われて行き、現役の時に身についてしまった生活のパターンがその人自身になり、「やりたいことがわからない」というぼくがタクシーの中で見たあの現象が起きるのだ。

 

一生懸命仕事して会社からの解放を待ちわびつつ、いざ自由が与えられると会社以外では生きづらいような生き物になってしまうのだ。

そういうのが前時代的な生涯雇用・一生安泰な人生観の、負の側面である。

 

ぼくは衝撃とともに非常に悲しい気持ちになったのだ。

おじさん自身の人生なのに、勝手に同情してしまったよ。

そして僕と同世代の30代にも、それとは知らず現在進行形でこの歩みをしている人々がいる、いやいや上司に我慢して、理不尽な出張を命じられて、お小遣い制で、昼飯は吉牛で、30年後の定年を夢見て走り続けてやっとたどりついたら、そこに自分のやりたいことはもう存在していない。

上述したような、現役を安泰レーンで全うして引退後にはじめて矛盾に出くわすならまだしも、

今では、タクシードライバーのおっちゃんと違って、この安泰レーンの現役生活を全うできるのかすらはなはだ疑問で、その途上で「安泰レーンなんてなかったんだよ」とカミングアウトされ、はハシゴを外される危険性は現実のものだ。

だから、悲しい気持ちやら同情やら危機感やらが僕の中にある。 

 

このような、社会と個人の人生、この間の矛盾は、海外から帰国することで、つまり外側から中を覗いたから感じることができた違和感であり、発見できる構造である。 いうまでもなくずっとその狭い箱の中にいたら違和感は感じないわけだからそういう構造を一生認識することはできない。外の話をされても内の人にはおとぎ話でしかないだろう。

ぼくは根っからの社会不適合者だからこそ、そういう会社に勤める人々にある種の敬意を感じるわけだが、

モテの観点からはっきり言ってしまえば、勤めるという生き方はかなり代償が大きいと言わざるを得ない。

 

さてここからが本題だ。

これまでモテをいろいろな角度から論じてきたわけだが、

そのコンセプトの中で、

「ありもまま」「自然体」

というものがある

これは、感覚的にわかりそうな要素であるし、大体の人生論でもそういう風なニュアンスで語られることが多々ある。 

しかし、多くの人がなぜそういう

「ありのままで、そして成功する」 

二度おいしい生き方ができないのかというと、さっき言った「やりたいこと、やるべきことが無い」という根本問題が個人の人生の土台に大きく横たわっていることを、そもそも理解していないからだ。

やりたいことがないのに、ありのままでいる、

などと言うのは大きな矛盾がある。

やりたいことが何もない、そんなぽっかり穴が空いた状態でいったいどうやって自分らしくいられるのか。

啓発本を手に取る前に、そういう原理的な部分を問わなければいけない。

 

やりたいことをやっている少年、例えば野球少年サッカー少年などは時が過ぎるのを忘れるほど、没頭し、練習している。あけてもくれても、ボールを触っている。

フロー状態だから、打ち込んでいるその姿にはへんな打算や見栄張りがなくてとても好感が持てる。 

さらに本人にとって、この集中状態がグリッドにまで昇華したとき、とてつもない結果が生じ得るわけだから、「好きなことで生きていく」という今流行りの生き方が成るべくして達成されるというのが、その理論的根拠でもあるのだ。

さて、周りからかっこよく評され、自分も没頭できるほど打ち込んで楽しい、おまけに結果も出す、こういう人生の出発点が

「最低限、やりたいことがあるのか」

ここにあるのだ。

周りを見回しても、モテている男はどうにかして努力によりこの最低限を取り戻し、やりたいことをやる、それが人生の軸にあるのではないだろうか。そういう男こそ独特な人間的輝きを放っているのではないだろうか。

本当にやりたいことがあり、それに打ち込んで人並み以上の水準に達したなら、胸を張って生きていける。

やりたいことがあるというユニーク性、

そこから人並み以上へと到達するための継続的努力、

そうなれば他者と比較してどうこうというつまらない大衆感はそこにはみじんもない。

他人と比べて「おれはダメなやつだ」といつもビクビクすることももちろんない。

やりたいこと、それをきっちりやってきたこと、これが歴史として自分の中にデカデカと存在しているのだから。

他人を気にしない、という状態は、「ありのまま・自然体」と同義である、コインの裏表だ、と言える。

 

ということは、安泰という生き方は、生まれ持った興味ややりたいことという素直な感覚をどんどん無くしていくトレードオフの生き方であり、モテにおいて成功からドンドン遠ざかる生き方なのだ、ということがわかるんではないだろうか。

 

僕が出会ったタクシーおじさんは幸せだろうか、そう、十分幸せだろう。

現状に特に不満もない。

五体満足で心身ともに大きな問題もない。

自分の生きている間に社会保障制度が大きく改変されることも、まずないだろう。

現状で、いいのだ。

 

しかし、モテは幸せに不可欠で重要な要素、おっさんになってからもかっこよくいたい、というのが幸せな歳の重ね方だと信じて疑わないぼくにとっては、こういう生き方はできない。

モテから遠ざかる生き方を、自ら進んで選ぶことなど断じてできないのだ。

 

ぼく自身も安泰という生き方に魅力を感じないわけではない。

やるべきことに追われない生き方、

南の島でバカンスを楽しむ生き方、

そういうものが誘惑として襲ってくることがある。

 

ぼくはひたすらモテについて考えてきたわけだが、モテるための進化それがそもそも生き方の問題であって、マイルドヤンキー的な生き方の対極にあるもの、そういう生き方をある種のリスクを承知で選ぶからこそ達成できるものなのだ、ということが改めて自覚させられた。

フライト代と時間と労力を使って地方の実家に帰ってきたのも、けっして無駄ではなかったわけだ。 

 

人にはそれぞれの人生観がある。

だがぼくはやっぱり男としてはかっこよくあるべきと思うのだ。

女から認められるというのは、男としての認知欲求を満たし、自己肯定感を高め、仕事への意欲を与え、人生を彩ってくれる重要なイベントである。

そしてそれを獲得するのも自助努力だ。

人生は何のために生きるのか?

最もシンプルに表現すれば、

「自分らしく生きるため、そのプロセスを完成するため」

なのだ。

 

あのタクシーのおっちゃんの一言で、人生を改めて考えさせられたよ。

おじちゃんありがとう。

故郷、ありがとう。 

 

 

やじろべー

 

 

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