モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

2018年、「美しく」ある。

新しい一年が始まり一か月が過ぎました。

いかが御過ごしでしょう?

。。

。。

。。

 

だれしもが「今年はいい年に」と思いますから、その始まりは非常に大事ですね。あるいは、今年「こそ」は、、という意気込みかもしれません。

 

新しいことにチャレンジしたい、

このつまらない生活からなんとか脱出したい、

今年こそはダメダメな自分を変えるんだ、

などなど。

 

「脱サラして起業する、にもう3年経ちました」なんてフレーズもあるくらいですから、人は、本当は現状に満足できない、変わりたい、デカくなりたい、という気持ちを持っていて、実際に先を見据えて計画も立てた、なのに自分で決めたタイムリミットに迫っていてハッとしたという経験はだれでもあるでしょう。

 

これでは、「今年”こそ”」という気持ちが一年一年強まるのも無理ありません。

 

気持ちだけが自分を責めるわけですが、その都度、じゃあスタートダッシュでやれよと周りにも自分にも言いたかったりしますが、 

しかし、「変化」がいかに難しいものであるかは、周知の事実。

それも自分だけではない。ダイエットとか、起業とか、資格とか、そういう美容系、お金儲け系、勉強系、などの人が自分を変えるために投資するビジネスの市場がデカいことを考えると、人は皆そうだということがよくわかります。

これ系の題材は、もともとの人の欲求がこの方面で強いこともさることながら、いったん手を伸ばしても続かず、変化できず、元の木阿弥に戻り、これじゃいかんとしてまた違うサロンやらノウハウ本に手を出す、そういうことがぐるぐるループしているからこそ、この市場は儲かっているんじゃないでしょうかね。

 

ライザップで痩せることに成功し、かつそれをキープできていれば、別の欲求やら課題がポンと出てくるはずで、金儲けとか、ナンパとか、なにがしかの研究調査やら、世界一周やら、とにかく「痩せる」という課題から別のフィールドへと進んでいきながらステージを上げるべきですが、ずーっと同じとこにとどまっているから、ライザップが(または同じダイエット業界の別の会社が)儲かり続ける。

 

変化は難しい

 

本当にそう。

 

だからこそ、何度もそういう失敗経験が刷り込まれてしまえば、ちょっとやそっとの刺激では、「よしやるぞ!」とはなかなかならず、やっとチャレンジへの重い腰が上がるのは結局、「キッカケ」が背中を押したときに限定されます。

それが年始という区切りなんですね。

人間はそういうもんなんだから、ぼくもこの時期にそういう背中を押す系の、一年のスパンを見据えた少し大きめのなにがしかを論じるわけですよ。

年始の力は大きい。

 

さて、今記事は「美しい」という、身も心もマッチョ志向なぼくらには一見相反するキーワードが掲げられましたが、世間がイメージする「美」と比べると、著名な人々が研究して記した「美」はその質がまったく別物で、奥の深さが尋常ではなく、さらに人生の成功とも密接に関係しています。もちろん、マインドセットともつながっている。

「美学」

というワードがありますが、自分の中にこれを持っている人は言うまでもなく、人として輝くことになります。これは、みてくれの美容的な輝きではなく、今言ったように「人として」、その生き様が他者を惹きつけ魅了するという意味においてキラキラと異彩を放っているということです。

 

「あの人は、自分の美学がある、哲学がある、スタイルがある」とか言いますね。

これは美しい人への感嘆の思いで、賞賛のことばで、憧れでもあります。

 

美学がある人は、日常的に「生き方としてかっこよくなければならない」「いつも美しくあるべき」というプレッシャーを自分に課していますから、「楽して稼ごう」「目的達成のためなら人を踏み台にする、手段は選ばないよ」「表ではきれいごとを大口たたくけど、裏ではコソコソ汚いことしてる」という、この世のいたる所にあふれるドロドロした人間の醜い部分に決して染まらない人々で、そういう楽な方向に流れようよという世間の空気や誘惑を、キッパリとシカトできる人々です。

 

だって、そんなのかっこわるいじゃん、やだよ

とナチュラルに、本能で感じる人々です。

 

そういう美しい生き方をしている人が、少数ながら、いる。

 

一方で、生き方はもちろん高尚なのだけれど加えて「美しさとは何か?」「人はなぜ美しさを求めるのか?」「人は美しさをどのように認識しているのか?」という美そのものの不思議の解明に挑んだ天才たちが過去にいました。

彼らは膨大な資料を集め、分析し、思索し、体系化してそれが「美学」と呼ばれ、今では一つの学問の領域を構成しています。

 

「美学」の創始者バウムガルテンは、美しさを感じる能力とは感覚的なものであり、それを論理力(彼は論理力を重視していたが。)と切り分け、その対極にあるものだとしました。カントはこの流れを汲みつつ美に関する探究をより前にすすめ、人間を論じるとき、「これは好き、あれは嫌い」「これはきれいだ」という感情は「理性」では十分に説明できないとして、「判断力批判」をまとめました。

この天才たちの壮大な思索を前にして導き出された美の結論は、

このように確かに人間には美的感覚が具わっているし、どういうプロセスで美を認識するかもわかったんだか、じゃあこの世の中に「普遍的な美しさを持つ何か」「美しさを作る法則」があるのかというと、そんなものはないんだ。

という事実です。

 

美の法則や秘密の条件が存在していて、それに符合する何かを人が目で見て、認識して、「わあきれい!」という感情が発生していると一般的には考えがちですが、そんな「普遍的で絶対的な美しいイデア」はどこにもなく、ただ、美を感じる『美的判断力』人にがあって、そしてそれには個人差もあるしそれぞれ各人が「主観で」美しいを判断している、ということです。

カントは、美の法則を見出しわけではなく、人間の美の認知プロセスを解き明かしたのです。

 

ということは、、、

100人に聞いて、100人が美しいと答える普遍のモノや法則が解明されたわけではありません。

花にしても、

風景にしても、

建造物にしても、

工芸品にしても、

もちろん、人間にしても、

「好き嫌い」がそれぞれにあるように、何が美しくてそうじゃないかの判断は(ある程度収れんするとはいえ)、人によるバラツキがあるのです。

 

「何が美しいかはひとそれぞれ」

このようななんとも煮え切らない天才たちからのレポートですが、一つだけ見落としてはいけない点を記述してくれました。

 

それは、

『美と道徳は不可分』

という原理原則です。

 

つまり、「人は道徳的に善き行為を、たいへん美しいと認識する。」

ということ。

 

じゃあ何が道徳的に「善」なのですか?と問われると天才たちでも答えるのが苦しいのですが、

上記の「と人は認識する。」というところが決定的に重要であって、なぜかぼくたちは「ああすごい」と感じることができる、しかも心がマヒしていなければほとんどの人間は、道徳的に善い行為を「見た瞬間」にああ美しいの感情が沸き上がるということをカントは言っています。

だからこその、「あいつは美学があるな」という評価なのです。

決してそれは、ルックスや身だしなみという静的な美ではなく、行為や生きざまとしての動的な美、そこに対してぼくらは評価をしているのです。

 

反対にどうでしょうか、卑怯な行為や女々しい行動や打算的でひ弱な判断を、反射的にぼくらは嫌いますよね。そう、「反射的」にです。

そしてやっぱりこの感覚も人類共通のもののようにも思いますが、いづれにしてもそういう美をうんぬんする判断力が生まれながらに具わっている。

 

この、人間の「美」、カントが「純粋理性批判と実践理性批判は大作だけど、これだけでは人間を語れないな」と結論した通り、美的感覚が人間の営みの中で占めているウエイトは決して小さくありません。

であれば、この美の視点から自己実現を考え、戦略を構築できれば、

「新年の抱負→3か月後の停滞→半年後の放棄」

人が陥りがちな年間の負のループも避けられるとぼくは強く感じています。

 

ある意味で、そもそも目標の立て方、大戦略の設定が間違っているのだ、

だから「美しくある」。これが戦略なのだ、と。

そういうメッセージなのです。

 

美しい人(=生き方に美学がある、徳のある人)は、今まで考えてきた理屈に沿うと、人間的にますます成長し器の大きな人間になりつつ、周りの人から好かれ尊敬の対象になるでしょう。

美的感覚を持っているぼくらは、美しいものに引き寄せられ、幸せを感じます。

単純に考えれば、女性はいつまでもきれいでいたいし、ヘアスタイルやファッションに気を使うし、かっこいい車おしゃれな家具に囲まれて生活したいなあ、、と思うのと同じです。家を建てる、仕事を選ぶ、友人を選ぶ、そのときにも自分のセンスを発揮して、デキるオレ、イケてるオレを思い描いているでしょう。

美しいものを、求める。

 

自分が人間性としての「美」を発信できる力があるなら、人生何倍も何十倍も輝けるはずです。その美を目指す過程の中で、少しづつ人は変わっていくというのが「今年”こそ”は」を解決する正攻法と言っていいでしょう。

 

さて、ぼくはいつも「成功」という難題についていくつかの異なったアプローチを試みますが、今話した美も成功を語る上では外せないポイントです。

そして別な要点として、世の中の現状を見ると、成功者はいつの時代も少数だという普遍の真理が見い出せます。

これに関しては、「少数だからそれを成功と定義できる、もし成功が世の中にあふれたらそれはもう成功とは呼べない」という意見もあります。コモディティでは成功は定義できないんだ、と。

これはこれでツッコミどころがたくさんあるわけですが、成功を目標達成という観点で見るとやはり多数の人は自分で掲げた目標へ到達できないわけですから、これも一理ある。

これは冒頭で話した、変化の難しさ、ダイエット金儲け市場の肥大化によくあらわれていて、「成功者は少数」という真理が、目標を達成できない人々がたくさんいますよね、という現実より裏付けられます。

成功者は少ないならば、「本質的に美しい人」はこの世の中に稀少です。

美しい手段、美しい目的、美しいプロセス、美しい生き方、こういうものに忠実に動けばそれは成功へのルートを歩いていることになるでしょう。しかしそれは非常に険しく困難な道のりです。だからこういう人は価値がある。

 

オルテガが「大衆」に関して書いているように多くの人は、右へ倣え、赤信号みんなで渡れば怖くない、というのが彼らの行動原理です。そこに美しさというポリシー(=方向性、指針)は存在していません。

さきほどの「成功者非コモディティ理論」からすると、「右へ倣え」と「美しさ」は両立しえません。大衆と同じある意味安心のルートを選ぶのか、美しいけど困難な道を選ぶのか、ふたつにひとつしかありません。

 

ここに、敢えて難しい道を選ぶ「ストイック」で「ドМ」な人々の不思議な生き方が理解できますね。

 

「美学」「稀少」「厳しい道」というキーワードが出揃いました。

 

例えば、「大相撲日馬富士暴行事件と貴乃花親方の理事解任」があります。

相撲の業界の暴行事件というのはある意味伝統的で、縦社会的で怒号が飛び交う高圧的なトレーニングはスポーツの世界よくある話ですが、そのスポーツの中でも相撲は特に保守的で伝統的です。そうなると、「かわいがり」という名の体罰もごくごく普通のこととして業界内に存在します。

血気盛んな男たちが集まると、暴行事件にまで発展する。「暴行事件」は過去においても一度や二度ではないですが、今回はそれが大きく明るみに出た、そして大事に発展したという点でニュースバリューがありました。

 

一方暴行事件の被害力士の親方である貴乃花。

彼はこの事件を受けて、相撲協会で常識とされていたその村の掟とは全く違う対処をとりました。

ここに「二つの道のバッティング」が生じました。

そして日馬富士をはじめとしたモンゴル力士のゴタゴタと、貴乃花の理事解任が一直線でつながるポイントがあり、貴乃花なりの「美しさ」の体現があります。

残念ながら相撲業界のパラダイムやルールや慣行は、貴乃花の美学とはまったく反するものでした、それゆえに彼は多勢に無勢な困難な道を選ぶことになります。

貴乃花は現役の時代から相撲道への献身があり、美学を持っていましたから、「汚いことが大嫌い」でした。正々堂々と、正しく、王道を行く。そういう美しい生き方です。しかしそれは業界のルールに従わなければ当然「あいつは面倒だ、黙らせろ」と、なんらかの報復を受けることになりますが、今回はそれが空気や待遇という無言の圧力に始まり、「理事解任」という実力行使で今に至っています。

 

横綱とはどういうものか?という質問に貴乃花は、

「相撲は神事であり、横綱とは神聖なもの」という存在を語り、

「生き様で、他の力士に力士道を見せるもの」という使命を語り、

「相撲するときは必ず受けるもの(エルボーや立ち合い変化などもってのほか)」という取り組みを語っています。

横綱について、単に力士最上位という位をレクチャーするわけでなく、歴史や存在意義までを包摂した横綱像をメッセージしているわけですから、相撲道に対して相当な造詣と熱い想いがある。

そういう美学は、一個人の取り組みスタイルだけでなく、相撲道を全体を作ったり運営する相撲協会の在り方にまで及びました。

賭博、八百長、暴力事件、などの不祥事はすべて美しくないから生じるわけで、神事である相撲、公益団体である相撲協会が元来どうあるべきか、そこを彼は本来の姿に戻したいと願っていたのです。

 

貴乃花も今回ある意味で暴行事件の当事者になり、いよいよ改革へと立ち上がりました。

しかし、ここで大衆とぶつかります。

それは、ニュースを見た一般大衆という意味ではなく、

「今のままでいいじゃないか(右へ倣えで変化しない)」「俺の邪魔をするんじゃねえ(既得権)」「まず俺に報告せい(隠ぺい体質)」という大衆的なる性質を濃厚に持っている旧態依然とした相撲協会とぶつかったのでした。

 

まったく、美しく生きるのは、本当に険しく困難な道なのですね。

 

世間では、貴乃花の態度や行動に対して、「独善的」や「非協力的」「組織不適合」「頑固すぎる」「裏切者」

との批判も出ていました。

和を尊ぶことを美徳とする日本人は、どうしてもこういう和を乱す人を冷ややかな白い目で見て、悪者扱いすることが多いように思います。その和が、旧態依然としているかは関係ありません。残念ながら日本人は改革や差別化やイノベーションとは遠い場所にいる人種なのかもしれませんね。

 

批判の最たるものとして「貴乃花は理事長の座がほしいだけだ」という権力欲を噂する人もいましたが、これは見当外れだなーとぼくは感じています。

ぼくらは他人の心を開いて中身を覗くことはできませんが、人の内面はどこに現れるかというと「生きざま」に現れるのですよ。

聖書にもマタイ伝の中で、「木が良ければその実も良いとし、木 が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」とはるか昔にキリスト様が言っている通り、INSIDEOUTが今では常識じゃないですか。

 

現役時代の貴乃花の取り組みに対する熱烈なファンがいて、引退してある期間が過ぎた後も「平成の大横綱」と称されているのは、彼が横綱にふさわしい力士道を歩んだからです。

彼は早熟で最年少記録を次々に塗り替えましたが、引退時の記録だけを見ると、彼より優勝回数が多い、彼より生涯白星が多い、連勝記録が勝っている横綱はたくさんいます。

当時は、大相撲ブームでハワイ出身の大型外国人力士が多く、日本人力士も今とは比較にならないくらい層が厚かった。猛者が上位に入り乱れる角界で勝ち続けるのはおろか、怪我をせず関取として留まるのも厳しい時代だったのです。そういうわけで記録だけ見ると貴乃花が突出して際立っているわけではありません。しかし、

「平成を代表するのは貴乃花」

これが、個性豊かで、強く、巧い力士が多いレッドオーシャンの中での、彼に対する世間の評価でした。

まさに、記録ではなく記憶に残った人物。

怪我に泣かされ惜しまれつつ去って行った力士が多い中、彼はガチンコ相撲を貫きました。

 

「ガチンコ相撲を貫く」、この意味を考えなければなりません。

ガチンコとは「手を抜かない」という当たり前な意味ですが、これは体重150キロの大男が全力でぶつかり合うわけですから、かなりの怪我のリスクがあり、それを甘んじて背負うことを意味しています。力士同士のぶつかりの衝撃は2トン、軽トラックが時速20キロで突っ込んできたほどの威力があると言われています。

相撲を生で観戦した人が言うには、そのぶつかったときのドゴッ!という衝撃に鳥肌が立つようで、もはや人の為せる業ではないと。

そのへんはYouTubeにも映像がありますから、少しは素人の僕らもその過酷さを理解することができるでしょうが、相撲寿命も、さらに人生の寿命さえあまり長くないことを総合的に考えると力士が、さらには横綱が、「神事を為し神聖な存在でいる」のはほんとうにしんどい。当人が、動機が善く、美しくなければできない業なのです。

 

ここで、美しくない人がパッと考えるのが、「手を抜く」ということです。

「大変だから、少しラクをするために星を融通しよう」

という発想が出てきてしまうのです。

そこで、「八百長」という問題が発生するのでした。

 

相撲を神事ととらえる貴乃花には、八百長で相撲を汚す、精進することなく賭博に興じている、そんあ相撲業界全体が嫌でしょうがなかった、内部にいて直にそういう醜い部分を見させられるのだからなおさらです。

貴乃花は昇進伝達式で、大関の時のみならず、さらに横綱にあがった時も、

「今後も『不撓不屈』の精神で、力士として相撲道に『不惜身命』を貫く」

と同じ決意を述べました。

「相撲の世界にいれば、辛いこと、逆境に遭うことなんて、当たり前じゃないか。そんなの全部引き受けて、相撲にすべて身を捧げるのが関取の生き様じゃないか」

という想いです。

 

そこに権力欲など私利私欲など、入る余地はありません。

 

求めているのは、美しさ、美しい相撲道、そこに回帰し後世へ伝えていくこと、そうやって人生を全うするんだ、ということだったのです。

 

貴乃花の今後、理事会がどうとか、立候補や改選がどうとか、事態の進展をみると世の中のドロドロの現状、それに対して美しいとは何なのかが見えてくるかもしれません。

 

美しい道を主体的に選ぶと、大きな困難がセットでついてくることは避けようがありません。美しさとは、一般に考えられるようにポップで華やかな何かではなく、力強い崇高な生き様そのものであるので、そんなものが「片手間で」「ほったらかしで」「コピペ」で手に入るわけがありません。

ある人が、「ネットで稼いでいる人は、その額は大きいのだけれど、実際に会ってみると覇気がなくて弱弱しいと感じさせる人ばかりだ。」と毒づいていましたが、その理由がなんとなくわかる気がしますね。

 

つまり、ぼくが発している「モテるには~」というのも、人生という視点を通していて、壮大な男としての理想を視野に入れているわけで、決してチャラい即席裏技を語っているわけではないということを声を大にして言いたいところです。

だから、ナンパの具体的なテクニックを前面に押し出すことはないし、女の数を自慢することもありません。それはすべて、「勝てばかち上げでも、エルボーでもなんでもいいんだ」「星を譲り合ってみんなで昇進したほうが合理的で、健康的じゃないか」「横綱は偉いのだから、暴行も多少アリ、文句言うな」という美しくない行為と同列のザンネンな思想だからです。

つまるところ、これはぼく個人の美学であり、理念でもあるのですが、

哲学者カントが記録してくれた「人間の本質」や「人生」ともしっかり合致しているのではないでしょうか。 

 

2018年に、「美しく」を意識するということは、今まで以上に大きな飛躍を目論んでのことですが、同時になんらかの大きなリスクを引き受けることをも覚悟しないといけません。いづれにしても一年間という長いスパンを見据えてここに取り組まないといけない。

 

人生は、究極的にはトレードオフですから、今ここで美しくあることを選べば最後には大きなお釣りがくるんじゃないかと思っていますし、やるなら早いほうがいい。

 

こういう人生観があれば、世界が変わって見えるはずです。

そういう「フレーム」が大事というのは、前回にも通ずる話なので、ぜひ合わせてみてみてください。

 

では。

 

 

〇やじろB 

 

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