モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

感情と合理性

 

ぼくら人間は悲しいもので、「自分はよくやってる」と思い込みたい生き物です。ありのままの自分をきちんと評価できない、だからこそストイックなほどモテることが証明されます。自分に課すハードルの基準が高い人間が人生というレースを征するのです。自分に厳しいぐらいで評価はちょうどいい。

これはどのステージに到達しても変わらず、きちんと自分を評価できず慢心してしまった瞬間に成長速度が急速に減少し、ピタッと進歩がなくなります。

年功序列しかり、

御用学者しかり、

解雇規制しかり、

大企業病しかり、

公務員一生安定しかり、

老害しかり、

ルサンチマンしかり、

これはそもそも構造としてそうで、痛みの伴う改革はできないから結局長い時間がかかりながらも市場原理にてじょじょに二極化され淘汰されていくのでしょうな。企業も行政も改善や成長が止まって人々(市場)から評価されなくなったら終わり。

いやー、これは人間も同じじゃないか。慢心してはいけない。

ぼくの友人のおばちゃんで、まあおばちゃん目線で聞いてもいないことをお節介にいろいろ人生相談的にレクチャーしてくれるのですが、その上からモノをいう感じ、やめてくれ。アクが強い性格を「これが私のカラー🎵」ぐらいに思ってるから、困ったものです、まったく。あんなおっさんにはなりたくない、年取ったら可愛いげのあるJJIとBBAにならなきゃ。人の振り見て 我が振り直す、うん。

さて、今日の講義いきましょうー。

 

「感情と合理性」のタイトルです。

いきなりですがこの二つは相容れます。それどころか、はまると凄まじいパワーを発揮します。要はバランスなんですよ、前にも言いましたけど。

残念ながら世の中にはこれを二元論的に分けたがる人々がいます。

右脳と左脳、

あなた理系わたしは文系、、的な。。

いやいや、もっと勉強してくれよ、と思う。

どちらかひとつに偏ると人間らしさが急激に失われていき、成功からはどんどん遠ざかります。

超合理的なサイコパスな人

超感情的なヒステリーな人

どうしょうもない。

イノベーションを起こした事例を研究するとそれは「新融合」で、人間成長においても、一皮むける、殻を破る、その瞬間はいつも何かと何かの掛け算で新しいものが生まれるのですから、二元論的に意味不明に棲み分けてしまうと「何も起こらない」どころか「変な人間」になってしまうのですよ。時間はぼくらの気持ちとは関係なくどんどん流れていきます。

これは自分の「らしさ」を伸ばす、何かを「突き詰める」、「強み」で勝負する、とはまったく次元の違う話です。全方位のスーパーマンにはなれないわけだから何か自分のブルーオーシャンを作るのはセオリーですが、バランスのよい感情・合理性からくる「らしさ」や「強み」などと、単純な二元論分離とは本質的に違う。

ラグビー日本代表が強さを求めて、他競技にヒントを探したり、精神論や伝統練習からいったん離れて科学的なアプローチを取り入れたり、まったく新しいユニークな練習で発見を試みたり、何かを突き詰めるには土台にバランス良い融合があってこそであることはだれにでもすぐわかります。 

この原理原則は、「感情」と「合理」という領域においても例外ではありません。両者が最高のバランスで高いレベルで融合されてはじめて「らしさ」が輝き、「突き詰める」ことの意味が理解でき、「勝負できる」土台が整う。そういう人はほとんどの分野で成功できます。本当です、不思議なことに。だって原理なのだから。

 

感情と合理の微妙な話をする前に言っておかなければいけないことがあります。ぼくはマインドセットという、結果が早くほしい人には受けの悪い、かつ到底理解されないものを信じていますが、同時に

「結果重視」

だということです。

 

結果を重視するということは、目の前の事実をありのままに受け止めるべきで、精神論に逃げて「結果は出なかったけどプロセスとしてがんばったよね」などと解釈を歪めるべきでないことを意味します。マインドを重視すると「結果を追い求めるとなぜか結果はつかめない、逆説的だがだからこそプロセスを丁寧にこなすべきだ」ということがだんだん見えてきますが、かといって結果に無頓着でいいことにはなりません。『評価としては』言い訳すべきではないのです。結果が出なかったなら、そのプロセスに問題があることは明らかなのですから、それゆえに真摯に向き合ってPlanなのか、Doなのか、結果の手前の部分を強く改善しなくてはいけない。

善き、そして良きプロセスの末に結果がセットで立ち現れるわけですが、もし結果が出ないならそのプロセスの妥当性を疑う、これがPDCAの当たり前の取り組みです。プロセスは間違っているのに、「がんばったよね」、というのはぼくが語りたいマインドセットではない。結果がいつまでたっても出ないなら、いつの日か、「がんばったよね」では済まされない時代が来て、最終的には自分自身が困るだけなのですから。

 

では、結果を出すうえで、いわゆる「合理性」はどの程度有用なのか?

このアジェンダにぼくらは向かわなければいけません。緻密な目標値設定、厳格な計画遂行、結果評価。これらすべてははっきり言ってしまうと、初歩レベルにいる人間の戦略になります。そうです、最初の段階なのですよ。

数字は非常に有効なツールです。ベンチマークという言葉があるように、社内の評価もスポーツの順位付けも偏差値教育もそう、そういう視える化で何かを測らなければいけません。そのように順位付けされ実力評価され、学生ならば社会へと招集されていく。なぜなら「そうする以外に方法がない」からです。個人の好みで偉そうに評価するわけにもいきませんね。

しかし「そうする以外に方法がない」ということは、やむをえず、ということなのですから、数字がすべてと考えると危険です。「社内の評価があなたの人間性そのもの」「あなたのお子さんの偏差値が将来のすべてを決定する」わけではありませんね。数字で表現される評価は非常に低いところに限界があるということをけっして忘れてはいけません。数字がすべてではない。「実力」。これはとてもむずかしい概念です。それを数値化するとなると、どうなるでしょうか?

どのポイントをどのように評価し加点するのか?

結局そこは個人の感覚に依存してしまい、恣意性が存在してしまいます。ここが難しいんですよ。スポーツの祭典でもいろいろな微細なルール変更や採点方式の変更がこれまでなされてきました。そういうものが変更されればその枠内で競技する選手の評価は変動します。個人の持っている「実力」や発揮したものは変わらずとも、評価は変わってしまう。これはどう解釈すれば良いのでしょうか?このことは実力を数字評価することがそもそも無理だということを雄弁に教えてくれていませんか?そしてその評価の中に恣意性が存在することもスポーツの歴史が教えてくれているのです。

とくに審判による採点ではそうで、例えばフィギュアスケートなどでは、金メダルを取るために大技を封印して安全な技で演技を構成するほうが金メダルへの近道という方針をとった選手やコーチがいて、実際に彼らは金を取りました。こうなると、「実力」が測れているのかがますます不明です。大技を繰り出せる身体能力のポテンシャル、それを本番で発揮する精神力、そこへチャレンジするロマン、スポーツマンシップもろもろを評価できたと言えるのか?もちろん、この試合が観客としてつまらない試合になったこと、結果に対して残念な気持ちしか残らなかったことは想像に難くありません。

 

「数字では測れないものが世の中に多い」

これは、世の中がどう変化してもそうである、覚えておきましょう。

さらに、経済学の前提。合理的な人間をモデルとしたゴリゴリの数学計算。数値ですべてが量れるという考え方で、必死にグラフをいじったり数学を解いたりしてきました。が、そしてこの限界は簡単に明らかになったのです。 → そこから行動経済学が生まれました。ダン・アリエリーなど有名ですね。「予想通りに不合理」のあの人です。合理的な人間などいない。経済学ですら人間心理と切り離して考えることはできないことは常識です。今時、行動経済学の基礎をすっ飛ばして経済を語る人などいないんじゃないかなー。この絡みで行くと、金融政策のリフレ派なども非常に怪しい。数字だけを見てそれを絶対視して難問を解こうとすると、それは一見合理的なようですが実は明後日の方向に走っているのです。これは後のほうになってようやく理解される。多くの人はそこに気づくことすらなく人生を終えるのが現状ではないでしょうか。

さて、数字がすべてではないことが腑に落ちると、

収入を指標にしたがる下品な成金や、ゲットした女の数を自慢するナンパ師をなぜかダサいとぼくらが直感的に考えるのもうねずけますね。それはごくごく自然なことで、数字ですべてを量ろうとしていることへの本能的な反発なのですよ。

以前、ヘレン・フィッシャーのTEDトークから論じたことがありましたが、人間はそもそもそういう生き物で、さらに恋愛ほど「感情」が決め手になる勝負も他にないでしょう。

「なぜこの人か?」という問い、つまり恋愛相手の選択などは決して言語化できない、それはその道の科学者も認めています。どんなにスペックが高い異性が表れても恋にフォール(落ちる)ことがないのは往々にしてありえます。

bit.ly

 

ここを間違えると恋愛戦略がすべておじゃんになります。

ぼくら自身もフォール(落ちる)する生き物だし、理詰めな男によって女が恋に落ちるということはなくて、むしろドン引きですから、論理や数字は取り扱い注意ですね。

 

理詰めな男はキモい、感情的な男もキモい。

感情的になって、例えばサンクコストバイアスに縛られるのもアホで、心の弱い男のすることで、そこはサクサクと合理的に決断を下していかなければなりません。感情を殺して難しい決断を下さなければならないことも多々あるでしょう。

 

しかし、何から何まで緻密な計画でうまくいくほど人間は単純ではないし、人生はイージーではない。感性を無視することは決してできません。心の声です。「スペックは高いけど本当にこの女はいい女だろうか?」そんな時がありますか?「この仕事は向いているのだろうか?」そう思う瞬間に出会いましたか?そのように「あれっ」と感じる瞬間にぼくたちは何回も遭遇するはずです。これがじつはとてつもなく重要なのですよ。世にいう「気づき」というやつです。

 

「感情と合理性」

 

この二つの間で葛藤する、そんな時がたくさんあるでしょう。PDCAサイクルどれも重要で難しいのですが、今日の講義は「C」に注目してきました。できるだけ正確に自分を評価したいが、「数字に固執してマニュアル人間みたいにはなりたくない」「直感やオーラや影響力など言語化できないものも捨てるべきではない」と感じる自分もいる。「今の自分は成長しているのだろうか?明確な数字として結果が出ていない。。」「結果が出ているとは、数字だけじゃないなら何で判断すべきなのか」「成長している気もするが、思い込みではないか。このままこの方向に走り続けていいのか??」と。

 

これを解決するのが、

「できるだけ正確に自分を評価したい」

この素直な謙虚な気持ち、そして事実に基づく真摯な努力、これがとてもとても大切です。

 

何らかの数値目標を設定し努力しクリアしても、その目標が「ゲットした女何人?」とか、その目標自体がじつはナンセンスである可能性も大です。スタートアップ的な目標設定としてはいいかもしれませんが、そんなちんけなものをいつまでも目標にしているのならそうとうなアホですよ。いくら女の人数ベンチマークをクリアしても、そもそも明後日の方向に走ってるわけですからこいつはいつの日か成功するのでしょうか?

じつにおかしな話じゃないでしょうか。

 

もう一度、結論は、素直さなのです。 

オレはモテたいんだ、と素直に認める、

オレはモテてない非モテです、と勇気をもって謙虚に努力する、

モテようとする男をバカにしない、

女に相手にされないからと言ってスネず腐らず、彼女たちを理解するようがんばる、

 

幸せの美しい女神は、そういう男にしか微笑みません。

今日慢心して女に非モテとみなされたら、昨日女をゲットしたそのがんばりや成功はまったくの水の泡に帰します。「なんて見る目がない女だ」と毒づいてみてもなんら事実は変わらないのです。

そして、感性を大事にして、それを豊かにする。

結局、自分に正直に自己評価・自己内省し、愚直に努力することが世間で言われる「努力」の土台にあります。PDCAのcheckが雑なら人間としても改善は見ないのです。そして残念なことにこの評価基準を歪めるのが、「おれはよくやっている」バイアスなのです。

自分にきびしく、ストイックに。

謙虚で愚直な男が、モテの領域におけるなにがしかの満足、学者や思想家が言うところの自己実現に達するのでしょうね。

 

◎やじろべえ◎

 

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