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モテるのは、マインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

好きだけど、執着はしないよ2

 

 

好きだけど、執着しない、の絶妙なバランス感覚がダサい男から脱却するポイント、その後編、お待たせしました。

 

まず、おさらいしましょう。

好きなんだ、という自然な感情で突っ走ってしまい、周りが見えない、利己的な非モテにならないために必要なプロセスが

 

1.いろいろなことに忙しくある

2.真のフルコミットと引き際の哲学

でした。

 

今日は真のフルコミットを定義するとともに、一流スターがサッと引退するあの美しい引き際を哲学してみたいと思います。

執着という魔物に打ち克って正しくコミットすることは、好きなことを謳歌しながら同時にモテることを証明するのにどうしても必要ですから。

 

コミットとは、commitmentのことでフルを付けて強調しています。

日本語でコミットとしてビジネスや意識高い系で使われるとき、「集中しよう🎵」「注目する」「約束しましょう」などと、軽~く使われる文章が散見されますが、だからコミットしたはずなのにまたまたいい企画が出せなくておいしいところを同期のあいつに掻っ攫われたり、意識高く自分磨きしてるはずがなーんにも変わらない自分が今日も現れ、周囲から揶揄されるんですよ。

コミットしたはずが全くの口だけ番長で結果が出ない、これは完全な非モテコミットの症状ですが、そういうことが発生してしまうんですね。

いや、あんたコミットしてないよ。。と。

commitの語源を辿ると、もともとは「関わり」を意味しますが、その関わり方もフランクな友人関係ではなくシビアなビジネスの取引や、重要なプロジェクトの委託、という重い関わり方を指しています。

そのため、その関わりには約束や責任というものが関わったと同時に発生します。

約束した当人や責任を負った側にはその制約が生じて、関わりにおける目的を達成するまではそれに縛られてる状態ですね。

であれば、何かを追いかけるのであれば、自分はコミットすると決めるのであれば、そこには責任がセットで付いてくるのです。

それくらいの重みがある言語なんですよ。

当然軽々しく、「やる」、「集中する」、と使える単語ではありません。ましてや、そう理解してコミットコミットと叫んでいる人が成功するはずもありません。

結果にコミットする、となったとき結果を出せなければこれで終わり、ぐらいの縛られ感がなければ力は発揮できない。

本気度が試されているのです。

「背水の陣」は見事に人間の本質や成功のプロセスをたったの一言で表現しました。

四年に一度の世界大会のために、必死に練習して他の物を犠牲にして全てを注ぎ込んで目標が手にできなかったとき、次の四年目まで現役でいられるかわからない、そういうアスリートは、「今·ここ」コミットの仕方が違うでしょう。

減量が必至の格闘家は、減量に失敗すれば全てがオジャン、さらには勝ち続けなければ無名で終わる、なんの保障もない仕事で、結果が全てなのです。

そういうことを自覚して始めて責任の重さにブルッと震えて、コミットが可能になります。

 

さてさて、あの子のことが好きで好きでたまらず夜も眠れない、仕事も手につかずまたミスって空回り、そんなメンタルの弱い執着状態でコミットできるのでしょうか?

非モテコミットで入れ込んで、訳のわからないギャグで注意を引いたり、聞かれてもいない自慢話をベラベラと喋りだす男の頭の片隅に「責任」の二文字があるでしょうか?

もし負けたときは潔く散るという背水の陣マインドセットなのでしょうか?

答えはノーでしょう。

自由の裏には責任がある、とは小学校でも学ぶのでしょうが、責任を持つからこそ自由が許される、とも言えるわけで、だからこそそういう”責任ー自由“のシンプルルールに則って自由にやりたいことがやれるのです。

好きなことで生きていく(※youtube引用)が可能になるんですね。

好きだけど、執着しない、が達成されます。

 

 さて、最低限この前提を踏まえた上でさらにすすめると、真のフルコミットと引き際関係は、途上と終焉の関係と言えるでしょう。

そう、過程過程過程、そして終わり。

終わりよければ全てよし、という諺がありますが、まさにコレで、終わりがつまり引き際が美しいかで、過程までも全てが良しと肯定されるのです。

「いやいや、結果が全てじゃありませんよ。努力した過程こそ意味があるんです。」

という意見があることは百も承知ですが、ウサギと亀の競争の童話が示しているように、走る過程で精一杯努力していれば、それを怠った怠け者よりも結果は”付いてくる“はずなんですね。

童話は最強の綺麗事ですが、そこには真理が含まれている、努力のすれば報われるのは当然のことです。

ただ注意したいのが、

精一杯努力したのに、ほしい結果が目の前に現れないときは過程が間違っている、努力が足りないのか、努力の方向性が間違っているのか、弱点以外をせっせとトレーニングしてしまっているのか、いづれにしても過程に問題があるのです。

この理屈で考えると、結果が出たのならその過程は間違っていなかった、正しいやり方で正しい量頑張ったご褒美が当たり前のようにやって来た。

ビジネスは結果が全て、といわれますし、資本主義の中で生きていればそうなりますが、恋愛もモテも結果にコミットメントしたとき、それがうまくいっていないようなら過程が間違っているのです。

真のフルコミットという過程と真剣に向き合い、結果に執着しない態度が必要。

正しく女に対してフルコミットできないから執着してしまい女々しくなって後腐れが残る男はたくさんいます。

 

真にフルコミットすることがいかに大切かわかると思います。

 

わかりやすいのでぼくは度々スポーツ界を例にとりますが、

逆に言えば、引き際が美しいプロフェッショナルは現役時代ほぼ間違いなくコミットし、成功していたとも言えます。

貴乃花、落合博満、中田英寿、須藤元気、などなど、

彼らはそれぞれの業界で華々しい活躍をしましたが、引退するときも潔く、自分らしく、サッと引いていきました。

過去の栄光にすがり付く人々が覆い中でなぜそこに執着せずにいられるのか?

それはフルコミットしてきて選手生活において自分のできる最善を尽くしたから潮時にはスパッと終われるのです。

そして引き際が美しい人は、第二のスタートを切ってもやっぱり結果を残します。例えそれがまったく畑違いの分野へ移動したとしても。

現役でトップに立ち、サッと引退し、次の人生もやはりトップを取ってしまう人

結果的に、それこそ真のフルコミットを体現している人なのです。

モテる男になるのなら、このくらいのレベルを目指したい。「この女とは終わったな」と思うのならサッと身を引かなければいけない、自分はまだ気持ちがあったとしても、そうです。

終わりがきれいな男はかっこいいものですが、なぜそういう勇敢な決断ができるかというと現役時代、つまり燃えるような恋愛をしていたあの時代にきっちり(責任の伴う)フルコミットメントしていたからなのです。

 

さて、そういう真のフルコミットを体現し圧倒的な結果を得る人。

責任のうらの自由を謳歌して好きだけと執着しない人。

ゆえに“男らしい引き際”を飾ることなく演出できる人。

これらはどんな人かというと、「主体的な人」というのは相場が決まっています。

それが全てではないが、必要最低条件、です。

一流と言われた選手のトレーニングは、コーチから課されただけのものを淡々とルーティーンにこなすのではなく、独自の試行錯誤から生み出された自主トレです。

落合にしても、イチローにしても、室伏にしても、中田英にしても、ダルビッシュにしてもそう、自主トレの裏には独自の理論がありそれを構築するまでに”主体的に”練習を重ねてきたのです。

大活躍したラグビー代表のヘッドコーチ・エディが重視していたのも「選手自身が考えてプレイすること」でした。日本チームの弱いところは「指導者に何か言われれば『はい』と従順に答えるが実はわかっていない」ところ、そう言っていました。

そんな伝統的な日本代表が変われたのが、南アフリカ戦の最後のトライの場面。エディの指示はペナルティゴールで同点を狙いに行くことでしたが、選手たちはスクラムからのトライを狙いに行こうと自分達で決め、結果、逆転したのです。

『主体的であれ』

この真理のような法則性がラグビー日本代表のサクセスストーリーからもよく読み取れます。

そう、フルコミットメント=成功

とは誰もが知っていますが、その間には「主体性」という重要な要素が横たわっているのです。

真のフルコミットは主体的な人だけが体現できるのであり、誰でもできるものではないのです。

 

スティーブンコーヴィーは、依存ー自立ー相互依存の関係性のなかで「自立しなさい、そこからすべてがスタートする」と述べましたが、正にその通りなのです。

自立してなければスタート位置に立つことすらできない。

彼の著書はかなり売れて、業界では有名なので、それを手にし読んだ人は少なくないでしょうが、ん~自立とは何か?どんな状態か?をはっきり定義できる人は少ないでしょう。

自立してる人はどんな人か?と聞かれて、

あ~あの○○さんみたいな人だよねとはボヤッと思い浮かびますが、その人々の共通項を抽出してコアにまで理解を深めることは難しい。

何をもって、自立していると言えるのでしょうか?

 リーダーシップ?、嫌われる勇気?、打たれ強さ?、人脈やコミュニケーション?、地頭?、

各々が相互に絡み合って関係していますが、

 

ぼくは「判断力」を上げます。

ラグビー日本代表のサクセスストーリーをミクロによって見てみましょう。

彼らが「ここはトライを獲りに行くぞ」と決断したように、一流プレイヤーが自主トレメニューを組む時に必要不必要を取捨選択するように、主体性の中には必ず「判断」が伴うのです。

自分で判断し、決断し、自分の道を歩いていくには、自立していることが必要ですが、自立するためには最低限の判断力が具わっていないといけない、という互いを補完し合う関係があるでしょう。

自分で考え、判断し、実行し、時にはリスクや失敗を自ら引き受けるから、その人は「自立」しているんですね。

そうでなければ、SNSに流され、自己啓発に流され、トレンドに流され、上司や同僚におしきられ、

大事な判断力を発揮する場面などいつあるでしょうか。その資質が養われることもない。

判断できなければ主体的ではなく、真の意味でのコミットもできないから、何かを成し遂げることもできず、女性を幸せにすることもできない。

優柔不断な男が女から相手にされないのは、そういう男の位置付けが彼女たちにとって本能的に非モテプライオリティの上位にあるからでしょう。勝手に自動回避システムが作動するんだからしょうがない。

そういう構造なのです。

真のフルコミットを善用し、感情的に突っ走るキモさを防ぐカギは、日々の判断力にあったのです。

まずここに着手しましょう。

何を食べ、何を着て、誰と関わり、どんなビジネスを選択し、どんなメールをかき、誰をフォローし、どんな写真をアップし、どうコメントを返すか、どんな態度で仕事に向き合うか、

小さなことでもそのひとつひとつの決断のスピードとクオリティそしてその積み重ねが最終的な当人の実力や成功を分けるのです。

 

判断力について論じたら、それだけで一冊の本になるでしょうから、細かな点は話しません、だってカントだってあんだけ大作を作って英知を捻り出してるんですから、当然と言えば当然ですが、

とにかく判断力を強化しようと思ったら、いろんな要素が複雑に絡み合っているのです。

構造とか因果関係とか時系列とか反論とか、いろい代わりと言ってはなんですが、モテにおける判断力の大切さを最後に考えましょうか。

 

モテない男は「優柔不断」と言われますが、これも判断する力の不足が生き方に影響してるわけで、そういう生き方が非モテ臭をプンプン放っているわけですが、なぜ判断できないかといえば

”正しく見えていないから”なんですよ。

とにかくこれが大きい。

「これが最善選択」と確信できるほど、材料を収集して、精査して、判断する力がないし、そもそもその入り口である物事全体を「見る」ということができないからそもそも材料が集まらないのです。

「あいつは視野が狭い」という表現が示す通り、非モテ男のダメダメっぷりは、世界の見方が主な原因です。

同じ世界で生きて、同じ業界で仕事をしてきて、まあ、向き不向きもあるかもしれませんが、大きな差が生じるのは「判断力」の差です、

広い意味で無知で、全体の中での見るべきポイントが見えていない、ということなのです。

ミクロとマクロ。

これは、①まず見えてない、②見えていてもそれらを処理できない、そのために③確信が持てずあわわ..してしまう、という

知性的な理由から始まってメンタルの弱さ「わかっているけど決めれない。。」という状態までも総合的に包含しているのです。 

 

ただ、間違えてはいけないのは、

失敗するから確信が持てない、は真実なようで本質ではありません。

中田ヒデが、「間違うことはあるけど、わからないということはない」とインタビューで答えていたとおり、

非モテではない判断力抜群で主体的にガツガツいける男も、トータルで見れば失敗もするしニアミスもあります、

どんなにいいバッターも、あのイチローですら、三割ちょっとなんですよ。毎回完璧の選択を判断しないといけない、、、とビビって動けなくてフリーズしてどうすんですか。

注目したいのは、そういう男たちは確信が持てない、とか、優柔不断に陥るという心理状態が、結果がどうであれ彼らの中で発生していないという事実です。(だからこそ折れずに継続的に主体的でいられ、結果を残せるのですが。)

間違った失敗した、という過去は、次回の判断における優柔不断さには直接繋がりません。

そうではなく、今現在、(見えないのだから)何を選べばいいかがさっぱり見当がつかないから決めきれない、ええ、、間違ったらどうしようになるのです。

「見えていないから確信が持てない」

これが優柔不断男の原因です。

ゆえに、先程から論じているスポーツ界のフルコミッターたちは正しく見えるようなの自主トレを積んできてるから、自信があるんですね。

そう、彼らは見えている。

「わからないということはない」のです。

全くもってそれが考え得る一番いい選択と信じているのだから。

だって、自分で考え、自分で決めたのだから。

その最善を尽くす感覚があれば、決めきれないということにはならないのだ、と。

時に調子が悪い、イレギュラーが起こった、とかいう誤作動が生じても、それはそれ。次回の判断は見えている世界を元に判断するだけなのです。

「信じている」という表現を使いましたが、「間違えることはあっても、わからないことはない」という一定の余裕があって始めて人は前へ進める、ということです。

日々の判断に磨きをかける、ココで手を抜かないというコミットメントにより、世界がはっきり認識され、大きな判断にも自信が出てくる。ささいな失敗は気にならなくなります。

 

優柔不断の解決策は、”最善”が決まること(それが正しいか間違いかはその時点ではわからないし気にならない)であり、決まりさえすれば、最初の一歩が出るのです。

逆に、迷っているとき、脳が止まってるんで、気持ちを強く強く強く、、やってもどうも解せない、前に進まないんですね。

判断 → 行動  ;これが主体的  ;そしてこれがフルコミット

となると、おおもとには「判断」 がベースで、できる男を動かしているんですね。

 

だから自己啓発で言われる、行動しましょう行動しましょう、はうそで、行動できてりゃとっくに成功してるでしょ、となるのです。

行動する前の判断力がマストなわけで、判断して決断して→実行する。だから、判断力こそが味噌なのだから、走り出す前に草刈りして走路整えましょうよと、電車通す前に線路敷きましょうよ、と。

どんなにりっぱな馬力のあるの電車を造っても、線路なけりゃ走らないんだから。まず判断力を磨いて、そしてキミシダイ列車*が走り出してフルコミットして目的地へ向かうんですよ。

(*one ok rockから引用)

 

判断力に正解を求めてはいけません。理解に徹するのです。

見えていないのに真っ暗な道を歩いて行けるわけもないのですから。

全然見えない、決めかねてる、なのにエイっと見切り発車したらだいたいが失敗するのが感覚的にわかっているように、判断する力の無さは生き方、モテ方を左右します。

何を言えばリターンがあり、何をすればウィンウィンになり、どこに行けば彼女が喜こぶか、それを的確に判断するための状況把握をする、そして世界を微細に見る。

 

さてさて、そろそろまとめましょう。

真のフルコミットとは何か?

総括すると、それは単なる気持ちの強さではなく、人間の器の大きさといえるでしょう。それはフルコミットした成功者の生き方を見ていればわかることです。

判断、主体、がフルコミットには織り込まれているのですから、そこには単なる気持ちだけではなく人間としての全体が関係してくるのです。

だからこそ、真のフルコミットができるのは、選ばれた人間だけということになります。

マインドの弱い人間的器の小さいやつが強い気持ちを入れ込んでもダサい執着をしてしまうだけでしょう。

マインドセットの弱さ+感情的偏りの強さ ⇒ 依存

だからです。

これは自立とは正反対ですね。

非モテは依存であり、キモイんですよ。

 

日々をボーッと生きるんじゃなく、よく見て、判断して、主体的に生きて、責任を引き受けて、人生にも惚れた女にもフルコミットしましょう。

結局それが、好きだけど、執着しない、そのためのセオリーということが今のところの結論です。

 

 

 

 やじろべえ☆