ぼくが菜食をやめた理由
というサイトが話題を集めているようですね。
ゴリゴリのベジタリアンがどんな体験をして、それをやめるに至ったのか興味深く書き綴られています。今では断糖肉食をされているとのこと。
わたしも小さい頃から喘息持ちでいろいろな健康法を試してきた口なので
今回の菜食肉食論争に見える本質部分と、そこを踏まえたうえでの自分を持つことの意味を書いていきたいと思います。
ちなみに父と母はぜんぜん食生活が違うタイプ、
父は肉米酒、母は魚野菜の健康志向。そしてぼくは母寄りの食タイプ、健康思想でしたから。
母と一緒になって、健康本を読みまくり、アレがいいらしよー、コレがいいってよーと良いと言われるものは片っ端から試してきましたから、おかげさまで昔の虚弱体質は改善されました。
ところがこう見ると、母は母でああゆう健康食に落ち着いて、父は肉大好きで、元気。今でこそ親父は年をとって魚野菜にシフトしてきましたが、20代の頃はひたすら肉肉肉、同僚が残したステーキまで片付けていたとか。
「若いころあんだけ肉を食ってきたから、おれは今もってるんだろうなあ」とボソッと。
ぼくは完全に母の食生活に賛同しておりましたから、この親父の発言は軽く流しましたが、こうやって我が家を見ても、食習慣の違いが実はそれぞれの健康を支えていたことが、よくよく目を凝らしてみるとわかるわけです。
今回の「ぼく菜食やめ」のサイトをみていながらも、菜食で体を壊し肉食で回復した人、何十年菜食ですこぶる調子がいい人、肉が食べられない人、「良い」とされるやり方はバラバラ、そのさまざまな意見も参考に見てながら、さらにぼく自身もいいと思った方法で体調不良ということも経験済みだったわけで、そのような人による違いはどこから来るのかなーと思ったわけですが、
結局、同じものを食べて結果が違うのは食べてる人が違うからで、その人の身体が、体質がそれぞれ異なるからだってことをようやく認めることができました。
同じ人を見ても印象がバラバラなのと同じく、それぞれ違うから違うアウトプットになるだけなのですね。
ところが、藁にもすがる思いで健康について学び、食の重要性にたどり着いた。
そこで出会った根拠のようなものが理論立てて記述してあるとそれが万人に共通する答えだと思ってしまう。自分はこれで改善した、悩めるあの子にもきっと役立つはず!と針がブーンと大きく触れてしまうのです。
いいと思った音楽や映画をすすめても友達はそうかな~と、ウケが悪いあのズレた感じ。
そう、結局、
人それぞれの身体であり、考えがあり、人生がある
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ということ。
物事には人それぞれ違う部分と、人類みな共通部分があるはずですが、ぼくのフィルターでは共通部分を広くとりすぎていたのかもしれません。
菜食の体は軽いけど、パワーが出ない、あの感じは、
実はぼく、体質的には母親でなく、親父寄りの肉肉肉の方だったんじゃないかと、
振り返っているんですよ。
親父ほどのハチャメチャはできないけど、母親ほどの菜食だとしんどい。
そんな中庸かと。
もはや、ぼくオリジナルの食習慣の開発に取り掛からなければなりませんね。
指紋やDNAといっしょで自分だけの「ちょうど良さ」が身体を形成していて、さらに病は気からを真とすれば、マインドを形成する環境も人それぞれ。
だから、ゼロベースからの「開発」になるわけです。
健康法は、「あの人はこういった」「この人はこう言ってる」を、自分の身体で確かめてその経過を観察しながら、”自分にオーダーメイドな”成功法則として作り上げるべきでしょう。
さて、今「成功法則」という言葉を使ったのも意味があって、
そういう健康という問題にとどまらず、人間全体としてみたときあらゆるものは「自分モノ」にカスタマイズされるべきと考えられます。
ぼくの健康法だけじゃなく、ぼくの自由、僕の恋愛論、ぼく的成功などなど。
人の悩みはお金(仕事)、人間関係(恋愛)、健康(ダイエット、美容)と言われていますが、その分野においても「自分の成功法則」があってはじめて、自分らしく生きられるからです。
人が言ったこと、本に書いてあること、それをやれば基礎を作ることはできますが、「成功」することができるか、例えば望む健康が手に入るのかはまた別の話になります。その情報発信者の気質に沿ったその方法も、自分の気質に合わない部分がじょじょに出てくるからです。結果、細かいディテールを詰めることができないのです。
神は細部に宿る、その細部がお粗末だと成功はできないのです、当然ながら。
詰めのあまい男になってしまう可能性が高い、いい人なんだけどなーおしい、と。
そしてその細部はほかでもない自分が作っていくものです。
それは情報が確かなすごい人の発言、確かな名著の引用であってもです。
なんか違うような気がしてきたけど、、、でもあの人が言ってたから、あの本が言ってるから、科学的に証明されてるみたいだし・・論理が確立されているようだぞ・・
続けよう。
そうやってどんどん成功から遠ざかっていく。
ぼくらは何かうまくいくとそれを誰かに伝えたい、誰かを助けたい育てたい、と思う優しい積極的な生き物です。そういう社会的なつながりの中でなんらかの貢献をすべき生き物でしょう。
でも何をどのように、誰にどれだけ伝えるべきかのさじ加減は実はかなり難しい。
相手のことを念頭に伝えようとすれば、自分の方法の確かさだけでは足りなくて、相手とのマッチングに細かな配慮が、かなり求められます。
相手をどれだけ知っているか?やる本をどれだけ理解しているのか?
その二つが揃ってはじめて必要十分条件になるのです。
そのため、相手を一人に絞れないようなより多くに伝える状況下では、それを形にして言葉にして語ろうとすればするほど、抽象度が上がり本質的アドバイスしかできなくなります。万人共通を突き詰めるとそうなってしまう。
人がいるステージ、基礎力、やるべき順序、伸びる時期、などがバラバラなのだから当然ですね。
これはアドバイスを受ける側、これから自分の成功法則を作る側から見ても重要で、そういう本質的な当たり前のアドバイスを具体的に落とし込み細かいディテールを詰めていくのも、その本人にしかできない作業ということになるのです。
なぜならやる本人にしかわからないことがあるはずだから。
成功法則とはアドバイスとはそういう性質だとわかった上で、少し長い目みながら自分で試行錯誤しながら確立していくものです。
失敗は成功のもとなどと先人たちが格言を残したのも、リスクをとらないとリターンはないと本に書かれてあるのも、自分自身の成功法則には先例がなく試行錯誤が前提にある、試行錯誤なのだからときにリスク的行動もやむを得ないと理解できたとき、当たり前のものとして認識され行動に移せるようになるのです。
「自分の物差しを作るのは自分なんだ」と。
主体的じゃないと自分らしい人生を歩めないと言われるのもそういう理屈です。
この二つの条件の片手落ち状態が、肉食菜食論争に火をつけたのではないかと思っています。理論の正しさなんてどっちでもいいんですよ、個々がその理論を運用する段階で「合うか合わないか」が最も重要。自分の体と相談して調子が良ければいいんじゃない。
このなんとも曖昧な位置づけが、難しいんでしょうね。
何らかの根拠が欲しくなる、そうじゃないと不安。この曖昧な状態にどれだけ耐えられるか、ここから「自分」がスタートするのです。
テレビではときどき地域再生がテーマとして取り上げられますが、これとほぼ同じ構造があると言えるでしょう。今ここに、ここにしかない特産がある、ここにしかないリソースが。でもどうすればこれを広めて認知され、人を集めて売るか、今ここを再生するかが地元の人にはわからない。
こんないいものがあるのに。
そこへ大都市で確立されたノウハウを〇〇コンサルタントが引っさげてやって来ました。いくつもの地方を再生した自信をも引っさげて。
そういう場合、
その地方にある良いものをクローズアップさせようとするとき、中央の大都市で成功した手法をそのまんま画一的に適用することはできません。できるのは本質を伝えることだけ。
地方の人としても、いいなり都市から来たビジネスマンがやって来てあーだこーだ指示されたらイラッとするでしょう?
「この地域の」特産を、歴史を、人々を、何を知っているんだと。
たくさんのデータを持っていて、洗練されたノウハウを持っているけど、マッチングが下手なのです。
あくまでもそのモデルを提案することしかできず、何をどう具体的に進めるかは地元の人の知識経験をじっくり聞きながらニーズを汲み取るのがいいコンサルで、いいデザイナーだったりするわけで、そういう正しいやり方を取るとき、その確立されたノウハウは当たり前のモデルであるにも関わらず、地方の色が際立って結果を残せたりします。
このコンサルー地方の構図は、自分の成功法則を作り上げていくプロセスでどのように最大公約数的な巷の法則と付き合っていくかと同じものです。
お互いがお互いを了解して作り上げていく過程、これは本人が自分と相談しながらやっていくしかない。自分が世間で言われるセオリーを了解し、自分自身を了解し、この二つをマッチングさせるべく試行錯誤するしかないのです。
まあ失敗してもまたやり直せばいいだけなので自由にやるべきでしょう。
アプリなんかすべてそうですからね。
ユーザのニーズを汲んでアップデートする、この繰り返しです。一発で完成形が出来上がるはずがないのです。
ところが、健康法に限らず、恋愛、ビジネス、人間関係においてもセオリーと言われるものを鵜呑みにして「はい、はい、」と右へ倣えな人がほとんどです。自分らしさが死んでいる。「この人が言ってるんだからうまくいくはずだ、その通りにやれば成功できるはずだ、へへへ」という、地方の人もビックリなほどの鵜呑み。
自分再生という人生に関わる問題なのに。
そんな他人任せな場合望むものはほぼやって来ず、やがて不満ばかりが募りルサンチマンになってしまう。
まずもってそういうスタンスでいる限り、自分を持ての意味を悟ることはできないでしょう。
「自分を持つ」とは自分の意見が言えるとか、自分で決めれるとかそういう表面的な話ではありません。それは結果論に過ぎない。
本質的な法則を自分流にカスタマイズした過程が、ほかでもない「あなた」を作り、他人からあの人は自分があるねとそう見えているだけなのです。そういう人が喋るとどういうわけか説得力があるねと、結果が付いてきたにすぎません。
じゃあ最適なマッチングとは何なのか?自分流カスタマイズの方法はとは?
まず最適発見を自分の歴史の蓄積の結果として捉えたとき、より長い視野で自分の変化を観察することが必要ですし、自分のリソースがトランスフォーメーションするまでにたくさんの「なぜ」を問いかける必要が出てきます。
自分に合うか合わないかの取捨選択の目がすこしづつ養われてはじめて、あまりに自分らしい自分が確固として浮かび上がるからです。
「なぜ?」のフィルターを通して理論と自分自身を見る、
「成功法則はコレです♪」「万能健康法はコレ」という理論だけと対話するんじゃない、結局『自分と』対話するのです。
なぜ自分はこれをやっているんだろうか?
そこになんらかの自分なりの答えがあれば〇
世間の成功法則は参考資料に過ぎません。
そういう材料を一通り準備したら、自分だけのフルコースを創作するべきなのです。
すべての素材がすばらしい、でも今自分が作ろうとしているコンセプトに合うものは何か、選ぶということ。
コンセプトがなければ「これいいよ」と言われた材料をフル投下して、なんか流行りのフライパンと料理法でごちゃまぜにしたものが完成。これが自分が作りたかったものなのか??・・・
火を見るより明らかです。
そういえば、自分を持つこと、なぜの重要性、自分ものカスタマイズ、そのさきにある「自分の哲学」ということを書き連ねていて、思い出したことがあります。
あるドキュメンタリーの一コマに出ていたイタリア・フィレンツェのスーツ職人、
「アントニオ・リベラーノ」について。
業界では生きる伝説と言われていて、75歳を越えた今でもサルトとして工房に立っている。キャリアは65年、彼の仕立てるスーツこそフィレンツェスタイルと称される。
「65年以上スーツを作り続けて、生地に何万回とはさみを入れ続けてきましたが、未だに満足できたものが作れたとは思っていません。上手く出来たと思ってももっと何かできたはずかと思うのです。」
そういう伝説的人物は口を揃えてこういう名言を残しますが、彼もそう。
これが”試行錯誤”ということです。
自分はどんなスーツを作るべきか、なぜなのか、
そういうなぜの問いかけが自分から発するものを精錬させるのです。
リベラーノはその高いレベルに達しながらも、何かの答えを知っているとは思っていません。いまだに模索を続けているのです。自分だけの最高の何かを。
『我々を信頼してください、最高のものをお作りしますから。』
これが彼らのスタンスで、商売哲学です。
「お金を積めば何でもつくるわけではない、
リヴェラーノのスーツ哲学に沿わないものは作れない、そんなときはお断りする可能性もある、信頼関係なしに最高のスーツを仕立てることはできないのだから。」
と。
リヴェラーノのスーツを購入して研究する同業者が後を絶ちませんが、バラバラにして型をとっても絶対に真似できないそうです。
非常に興味深い。
だからこそ客に媚びない・靡かない、命をかけて針を縫えるのです。
そして今日も生地にハサミを入れ続ける。
(AM8:00~PM7:00まで工房に立ちっぱなし、工房人が休みでも自分は仕立てる)
ちなみにリヴェラーノさんは伝統的フィレンツェスーツを守りながらも、ミラノファッション、パリコレなどにも足を運び見ているそうです。そうやっていろんなテイストを自分の中に入れて今日もリヴェラーノスタイルの仕立てをしているのです。なぜの試行錯誤をしながら。
色々と書きましたが、イメージはつかめましたでしょうか?
Q;異性のどんなファッション、髪型が好き?
A;その人自身に合っていればなんでもいいかな。
よくありがちな、なんとも具体性が見えてこないこの回答は実は本質を突いていて、
自分を「よくわかっている人」がする自己表現が、ファッションやヘアスタイルに表面化している状態、ということを彼女たちが感じ取っていることを示しています。
なんらかのセオリーらしいものの「外に」ある自己スタイルこそ、なぜか人を惹きつける。そういうものです。
「これ合わないな。」「これは使える!」
を自分の意思で分けていき、また自分なりに応用しながら、瞬間瞬間で判断しながら””自分””を作っていきましょう。
最後にオルテガの言葉で締めたいと思います。
「じっさいの生は、一瞬ごとにためらい、同じ場所で足踏みし、いくつもの可能性の中のどれにすべきかを迷っている。この形而上学のためらいが、生と関係のあるすべてのものに、不安と戦慄という、まぎれもない特徴を与えるのである。」
どれにすべきか?なぜそうすべきか?
その不安から逃げず、ときにためらいながらも、瞬間瞬間に自分で判断を下した人が成功できると、そう言っています。
ぼくは人間らしくあるべき普遍的なものがあると思っていますが、その大きな枠組みの中で自由に自分らしい何かを一生探し続けるのだと考えています。
菜食でも肉食でもいいじゃない、あなたに合っていれば。
問題を複雑にしてもしょうがない、
自分との対話の中で見えてくる「おれってほんとダメだなー」になぜを問いかけて自分を作っていく。
今日もひとつ、自分の嫌なとこと向き合いました。
なんとか改善できそうです。
これでいい。
人のことあーだこーだ言ってる暇はない、
素敵な人生のために。
◇やじろべえ◇