モテるのはマインドセットがすべて、それを証明しよう。

恋愛解明ゲーム、そしてぼくは人間になる。

非モテのトリセツ ー その根源は「7つの大罪」

 

こんばんは。

2018年も終わり、2019年が始まりましたね。

 

流行語大賞とか、今年亡くなった人々とか、一年を振り返るシーンを見ると、あー今年も終わったなーと年末は感じますね。

1年が終わるとき、常に来年を考えているぼくは、年末もなかなか日常を忘れてパリピになることができませんでした。忘年会などもたまーーに出向いても心ここにあらず、もう来年へ気持ちが走っています。

そしてそんな年始についてぐるぐる考えたことがブログとして出てきたところなのです。

それに加えて平成までも終わろうとしていますから、なかなかいろんなものが終わろうとしています。それは同時に新しいものの前触れでもありますが、ぼくらとしてはそのサイクルの中で「いい終わり方」「いいスタートの切り方」をきっちりやりきって、それをつねに繰り返していかなければなりません。

そうやってステージが上がっていくのです。

 

ただただなんとなく一年を振り返るシーンを見ながら、気づいたら2019年、

目的意識もなく、現状認識もない。

というのでは、その時の流れに必死で追随しているようなもので、後手後手ですので、なにか生産的な活動をしたり、その先の価値を生み出すことは、かなり難しい。

「必死」なんだけど、しょせん追随なのです。

これでは頑張ってるのに、いつまでたっても苦しいだけ、コスパ最悪です。

 

できる男は常に先手先手。

その先手のためには、流れの少なくとも「一歩先」にいなければなりません。

未来予測できるほど優秀であれ、とは言いませんが、ぼーっとせず、常に自分を俯瞰的に捉え次の一手二手を考えておく。これです。

未来なんだけど、その前に、自分なんだよ。ということが言いたい。

まず自分、という境地。

 

海外にいていろいろな人種と交流していると、例えばアジアの中だけに限定して話しても、人間のその雰囲気というか目力というか、ふとした仕草なんかには明らかに違いがあります。

中国、韓国、モンゴル、日本、、

欧米からすると全部アジアだろ一緒じゃん、と思うでしょうが、ぜんぜん違う。

ガイジンか日本人か、、ナニジンなのか、ぼくにはだいたいわかります。

その要因として真っ先に思い浮かぶのが、遺伝子とかの生物学的なものですが、ぼくとしては文化環境が作用すると信じたい人間です。

力強い目、キラキラした目、どっしりした視線、情のある眼差し、そういうものは精神とか内面の思想とかの発露であるわけです、目という小さな窓一つとってもインサイドアウト、そうである、

であれば内面全体が変革できれば、目だけでなく人間全体のそういう雰囲気がガラッと変わり、モテのかほりがプンプンするはずなのです。

それは顔面の造形うんぬんではなく、内発的何かなんだ、と。

そ-ゆー雰囲気というのは、一般には「雰囲気イケメン」とバカにされる印象がありますが、現実は第一印象で大部分がスクリーニングされ捨てられるわけですから、雰囲気というのはバカにされるものでもありません。

むしろ、

「あって当たり前」、「ないと話にならない」

というモノです。

文化環境は、主体的に生きてる人にはプラスにその人を成長させますが、受け身で生きてる人はただただ流されてるだけで後手後手で何も得るものがありません。

そういうことで、  

毎年言ってますが、来年こそはいい年にしましょう!

 

さて、趣味である人間観察を外へ出ていくとやってしまうわけですが、そこでやっぱり確信したことがありますので、今年の非モテ総括として、そして来年の非モテ脱却として、それをシェアしたいと思います。

 

「非モテとは、いったい何なのか?」

これがわかればモテに関するすべての問題は解決して、もう何もいらない、

ぼくのブログで語ることも無くなり、世界から非モテが大幅に減少するはずですので、ピースフルな世界が実現するのですが、

そうは問屋が卸しません。まったく、それは難しい問題です。

しかしながらそのチャレンジは大方のところ、ぼくの中でだいたい解明されています。

女子にとっては非モテとは、この世の悪のような嫌悪対象ですが、男から見ると非モテとは単なる「弱さ」でしかありません。逆に言うと強くなればモテる、と言うこともできると思います。

人としての総合値が「弱い」、閾値より大幅に低いもはや赤点なのだから異性からは非モテと認定されてしまう、

という理屈です。

その弱さが発現したとき、その大小様々な言動は、「キモイ!!」という反応を生んでしまう。

イスラム国のように残虐なことを白昼堂々やったり、裏社会を生業としている人々のように、そういうおぞましいことに何も感じない感覚がマヒしてる人々もいますが、

一般的に、多くのモテ非モテ問題においてやり玉に挙げられる人、大失敗してしまう人というはそういう極悪な悪いやつではなく、そもそもが生き物として弱いやつなんだ、という信念が僕の中にはあります。

女が思うような悪は存在しておらず、根本的には弱さなのです。

まあ、男女の関係を考えれば、弱い男こそ罪ではありますが。

 

では、今日は非モテのトリセツと題して、「7つの大罪」からその生態に迫っていきたいと思います。

七つの大罪、これはカトリック教会における人を罪に導く欲望や感情とされているものです。

そういう罪に至らないように人はこういう悪感情やみだらな欲望と闘わないといけない、負けてはいけない、と。

人間社会を見れば、会社のお金を横領したり、芸能人やスポーツ選手が薬物に手を出したり、そういうときに「自分の弱さに負けた」と謝罪しますね。

こういうのは弱さに負けた結果として、その大罪が露見するのですね。

この「弱さに負ける」というのは非モテにも共通する現象で、カトリックが想定した罪に比べれば軽いものですが男女関係、男の生き方に関して言うと相当に重い案件であります。

 

例えば、強欲。

これは金銭欲ともいわれますが、ようするにケチということです。

「あの人、顔がダメな上にケチよね、ブ男なのにケチだったら何のとりえもないじゃん」と女は思っている。

顔をうんぬんするのは完全に悪口ですから女に非がありますが、ケチなのは誰が見てもやっぱりイタい男です。

今の女子は、金持ち男=ATMと思っているらしいですから、「ケチだったらATMにもならないじゃない、最悪ね」と、悪というレッテルまで貼られてしまう。

こういう女の価値観はぶっ壊れていてどうしようもないですから、近づかないに越したことはないですが、ケチな男は何のとりえもないじゃないという主張はその通りで、男ががんばって直すべき弱点でしょう。

評価がそうとうに低い、ゴミ扱いされる男、こういう男はどういう背景から登場するのか、ということを考えてみると女が言う言説とはまったく別の視点か物事が見えてきます。

どうでしょうか、男は仕事ができてなんぼ、という説にはぼくもまったく同意ですが、それが経済的な成功とダイレクトにつながるかというとそうでもないでしょう。

男からしたらたまたまその時点で、何か経済的にいっぱいいっぱいなのかもしれない、起業仕立てでしんどくてもデートはしたいんだ、最近病気がちで費用がかさむから財布のひもが固いだけかもしれない、そういうある種の不安がこころの片隅に散らばっており、それが行動に出てきてしまっただけなのです。

その不安は、健康不安、将来不安、経済的不安定、人間関係、どれかわかりませんが、そういうもんがある。

ストレスが過多にかかるときはどうしても自分の中のバランスが崩れます。

本質的にケチなのが、その時の状況がそうでしかないのが、それはわかりません。

それが一気に飛躍して、「キモイ男の非モテな態度」と断罪されてしまって、なかなかいい女と付き合えません。

あ~、男はつらいよ。

 

さて、 次は怠惰。

怠惰な男は当然出世できません。

怠惰であると、アウトプットがそもそもとるに足りない程度の量しか排出されないからです。

さて、この出世というのは外資系大好き女、商社マンとしか合コンしません女にとってはパワーワードで、彼女たちが採用する値踏みの指標ですが、男からしても一応見落としてはいけない要素でしょう。

これを、

出世=ステージと置き換えて考えると、その重要性が際立つでしょう。

出世とは、属している集団におけるステージの度合いです。

ぼくのように会社ではなかなか自己実現しにくい社会不適合もいますし、そもそも本当に優秀な人材が日本でまともにステージアップしていける組織というのは本当に少ないでしょう。そういう社会構造的欠陥もあります。

しかし、そういうどの大企業に勤務してる?マウンティングや、会社の中での出世争いと捉えるのではなく、

出世とは、一義的には「社会での身分地位」と定義されていますから、会社内での昇進争いではなく、広い意味で人生におけるその人のステージレベルと解釈することもできるでしょう。

ステージが上がっていかない男。

価値を提供できないなら無価値である、という文字通り、アウトプットはとても重要なのですが、怠惰はその点において決定的にダメなのです。

怠惰では、出世できない。

さらに怠惰は、その人の持つ性質です。一事が万事、「あーめんどくせー」が口癖だと、自分を磨くことはもちろん、他者を理解しようとすることにも注意が向けられませんから、人間関係やコミュニケーションでもダメダメです。

これでは、生産性が無い、コミュニケーションもできない、女心もわからない。

女はこういう怠惰な男を見た瞬間、すべての心の窓がシャットアウトされて、もうその窓は鉄格子のように固く閉じられていて、髪型変えました、ブランドのジャケット着てきました、モテるトークスクリプト10個暗記してきました、というウルトラCのテクニックではこじ開けることはできない。

本当にゴミのように扱われるでしょう。

でも、怠惰な男とはどういう男かというと、そもそもが心が弱い、だから努力をすることができない、努力を継続して何かの犠牲を払ってリターンを獲得できない、ビジネスにおいては稼ぐうえで楽ちんなテクニックに頼ってしまい、モテるうえでも何らかの裏技が隠されているんだと錯覚ししまう、そういうメンタルが子供のような男なのです。

マル秘テクニックなんてこの世に無いんだ、当たり前の努力をしよう、それで少しづつステップアップすればいいじゃないか、

という大人な理解をさっさと獲得し、幼稚さから脱却し、現実を生きていかなければなりません。

怠惰な自分、そういう弱い自分に打ち勝つ強さがあるのか?

怠惰は何も生まないし、それは=弱さなんだ、という正しい認識からスタートしましょう。

これが正しく認識できたときに、同時に「仕事に燃える」「相手のことを思いやることは自然」「手間をかけてやった仕事に味があって」「準備が8割」という数々のきれいごとに現実味が帯びてきて、それがまさにひしひしと実感でき、仕事ができる男をナチュラルに目指すようになるでしょう。

「仕事ができる男が好き」

という女の主張の意味が、そりゃそうだよな、と当たり前に納得できる。

何事も頑張らないと手に入りませんが、それ自体は楽しいプロセスであり、その夢中な姿に女は惹かれていくのですね。

 

さて、自惚れ。

これは一番イタイかも知れません。

女子の悪口大会の優勝をダントツでかっさらっていくのは、この手の男です。

恋愛ドキュメンタリーなど人間観察の現場では、こういうザンネンな気質を持ち合わせてしまった男はどんなにその他でがんばっても、そのがんばりすべてが悪く受け取られてしまいます。

清潔感がナルシストになり、優しさが恩着せがましさとなり、リーダーシップが強引なオレオレ観に映ってしまう。

全部裏目裏目に出てしまう。

顔がよくても、金があっても、厳しいのです。

 

人間だれしも自分が好きです。

この点で、純粋な利他主義というものは存在しないと、ぼくは思っています。

聖パウロは「与える方が、もらうより幸せだよ」と聖書の中で言っていますが、これに同意できるかどうかにかかわらず、

与えずにもらうばかりというのは利己的な自分ファースト、

逆に、聖パウロのように与えることすら自分の幸せという広い射程での行動、それも結局は自分への幸せのリターンを少なからず期待して生きているわけで、

やはり、自分というものが中心になって様々な営みがあるのです。

この感覚が単なる道徳論ではないことは、脳科学とかでも明らかにされていて、オレがオレがで生きるより相手への施しをしたり、上手に社会性を築いたほうがひるがえって「自分は幸せになれる」ことがわかっています。

人間とはそういう生き物なのです。

しかし問題なのは、その利己主義が度を超すと自分の幸せ満足を追求すればするほど、どんどん遠ざかっていく、ということで、

それこそが自惚れ男子が日々経験する挫折なのです。

人は与えることで幸福になれる、→そして与えてもらった人はうれしいから全体が幸せ、

というのは社会的にうまくいく回っていくシステムで、それは僕らが持つ脳の構造と合致しているわけですが、

「オレがオレが」はその均衡をぶっ壊すわけで、社会的に忌避される要素なわけですね。

これが女目線になると、もっと生理的に受け付けない。

要は、バランスなのです。

自らを省みるべき、「天は自ら助けるものを助ける」わけですから自分というものが大事なのは言うまでもありませんが、そればかりでは人生うまくいきませんし、もちろん一生モテることがない。

自惚れというのは24時間頭の中が「常に自分」なので、他者が入り込む余地がない。

そんな人と付き合えるでしょうか?

女はあなたを賛美するためにいつも傍らに存在しているわけではないのです。

 

さて、この自惚れは=ナルシスト、なわけですが、単に「オレかっこいい」という形で表出するだけでなく、受けに回るときうぬぼれによる誤作動が強烈に発揮されます。

どういうことか?

打たれ弱いのです。

「自に惚れる」とは自分がイケてると強い願望として信じたいのか、或いはすでにかなり信じているので、彼らの頭の中には「オレはイケてる」という前提ですべての精神的な活動が展開されて行きます。

……となるとそれが否定されたとき、、

すさまじい認知不協和が生じるわけですね。

もはや立っている事すらできない、

膝、ガクブルでしょう。

ぼくからすれば、つっこまれて誤作動を起こす人間、ハリネズミのように殻に閉じこもったり相手を攻撃し始めたりする男は、認知不協和の解消としての反応です。

これは、不当にバカにされた、名を汚された、辱められた、だから武士の仇討ちを、というのとは違って、原因は外部にあるのではなく、己の己に対する間違った(過大な)評価に起因しています。

評価が過大だから、周辺の人々がする現実の客観的な評価とのギャップに対して、それを必死で埋め合わせようと急激な反応が出てくる。

これを周囲から見ると、「ん?」と感じます、

普通にじゃれ合っているだけなのに、ナルシストの彼と話すときはなぜが足元に爆弾がたくさんあって知らぬ間にそれを踏んでしまっている、ハリネズミ爆弾が爆発する、二度と地雷があるこの地帯には近づかないぞ

これではコミュニケーションができません。

乙女は心地よいコミュニケーションがないと死んでしまう生き物ですから、相手がナルシスト男では関係性が築けない、完全に非モテです。

彼女たちはこういう男が大嫌いですが、自惚れの男の問題は何かというと、

「精神の弱さ」

なのです。

 

この自惚れは、まあ「傲慢」ともかぶるところがありますが、その他、「怒り」とか、「大食い」とかの大罪もすべて弱さが原因でそうなってしまう成れの果てなのです。

 

だから声を大にして言いたい。

おーい、すべての非モテよ、弱さが原因なんだって! 改善すべきはマインドセットなんだよ!

 

ぼくは、書店の棚に並んでいるような一般受けするような本は大衆狙いであまり好きではありませんが、以前勝間和代さんが出版した

「起きていることは、すべて正しい」

という本が伝える概念にはおおいに賛同です。

今ある現状を正しく認識し、それを受け入れてからでないと、正しいステップは踏めない、というような意味だと思いますが、

まさに、自分が非モテであること、それは正しい(厳密に正しいのではなく、結果として起こるのすべては原因がある、それはお前自身)

という肯定の認識から正しい努力が始まるということです。

ぼくは、自分が失敗したのはすべて自分のせい、自分の力不足が原因だ、と思って生きてきました。

こうやってブログを書いて反応が無かったとき、それは自分の文章を書く総合的な力が弱いんだ、徹夜で仕事して体調崩したなら、自分の体調管理、仕事の効率、そもそもの実力が及ばないのがすべての原因、と考えて明日からまた走り出そうと、眠りに着きます。

そして今までの人生をこうやって頑張ってこれたのも、秘訣はそういうマインドセットにあると確信しています。

だから以前、田端藤田の大論争を分析しましたがなんとなく「すべてお前のせい」というメッセージが間接的に伝わって「辛辣」と感じた人もいたかもしれません。

しかし、ぼくが言いたいのは今論争されている自己責任論とは別に、「起きていることは、すべて正しい」と考えた方が結局自分も楽だし、いずれ成功するのはそういう道(マインドセット)を選んだ人だと信じているからなんですね。

弱い自分を認められず、うぬぼれている男が、その責任を「女の見る目がない」と転嫁し、弱者救済、誰かが自分を助ける責任があると言い続けても、

結局一番傷つくのは弱い自分

こういう現実をしっかり目を見開いて歩いていってほしいと思います。

 

2019年がすでに始まっていますので、変化とはこういうところからスタートするんだということが言いたかったのです、ぜひ正しい努力をしていきましょう。

今年もボチボチブログを書いていくので、よろしくお願いいたします。

 

やじろべえ

 

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